第四話 コーヒーゼリー


 帰宅したオレを出迎えたのは、何ともいえない稲瀬みのりの表情だった。


「お風呂沸いてますよ」と一言残して、彼女は二階へと上がってしまった。パジャマ姿だったから、既に入浴は済ませてあったのだろう。これなら長湯が出来そうだ。


 そう思って脱衣所のドアに手を掛けたところで、着替えを持って来なければいけないのに気が付いた。


 普段なら風呂など勧めやしないだろうに、やはり気を遣われているなと思った。


 先程の態度を見る限り、何かオレに対しての心境の変化があったと見て間違いないだろう。


 元不良だと分かって、態度を変えたのか。はたまた家庭の話がどうとか言われて、接し方が分からなくなっているのか。どちらにせよ、いい傾向では無いような気がしてきた。


 風呂場から出るとキッチンへと足を運んだ。真っ直ぐ自室へと向かう気になれなかったのは、稲瀬みのりと顔を合わせるのに気後れしたからだ。


 変に気を遣われてしまっている以上、こちらもどう対処していいか分からない。とりあえず、喉が渇いた。冷蔵庫を開けると、何やら見慣れない箱が入っていた。


 パティスリエなんたらと箱には記載されていたので、洋菓子と見て間違いない。通学路の途中の、オレンジ色の屋根のケーキ屋だ。稲瀬みのりか、詩織さんのだろう。


 ここで仮にオレが甘いものに目が無ければ、確実にトラブルの種となっていた。生憎、この男の甘味積載量は、限りなくゼロに近い何かだった。星座占い以上に甘い物には興味が無いので、冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注いだ。


 自分で思っておいて何だけど、天文部として星座占いに興味が無いのは致命的なのかもしれない。


 それ以前にオレは十二星座全て言えるかも危ういのに気が付いた、麦茶で喉を潤しながら思い出してみる。まずはネズミ座、次はウシだったっけな、トラ座、ウサギ座。おい、それってよ。十二支じゃねえかよ。


 ガチャリ、と玄関のドアが開いて閉まる音がした。グラスを片手に廊下に出てみると、帰宅した詩織さんの姿があった。遅い時間なので詩織さんは自室に居て、帰ってきたのは親父かと思っていた。


「どうしたんですか?」とオレが声を掛けてみる。ここに引っ越す前は知らないが、詩織さんが夜に出掛けるなんて一度も無かったのだ。


「ちょっと、ミナヒトさんの会社に着替えとか、届け物を。今日は泊まりなんだって」


 明日もパートだというのに、こんな時間にわざわざ電車に乗ったのか。オレは甲斐甲斐しい奥さんの姿を見て、感動せずにいられなかった。悔しいけど、親父が惚れてしまうのも無理ないなとも思った。


 皮肉なことに再婚したタイミングで、親父の仕事量が増えてしまったようだった。それでも週末には家に帰れているし、休みの日は詩織さんとデートが出来ているだけマシと聞いたことはある。


 そんな細やかな時間しか自由が無いのにマシって、これが現代のサラリーマンだと思うと自分の将来に不安しか覚えないオレだった。


 お疲れの詩織さんをソファに案内し、オレは飲み物を入れてあげる事にした。何がいいか聞いてみたら、冷蔵庫に美味しいものがあるからと紅茶を所望した。


「ミナユキくんは甘いもの、好き?」


「いえ、得意じゃないです。甘いもの食べるのと、腹筋百回だったら、後者の方が得意ですね」


 オレの妙な言い回しに返答するように、詩織さんは小さな笑みを浮かべた。


「そう。流石、私の娘ね」


 さっきから何の話をしているのだろうか。オレは娘じゃないから、稲瀬みのりのことか。何が流石なのだろう。


 紅茶を入れ終わったタイミングで、キッチンに詩織さんが足を踏み入れた。冷蔵庫を開けて、取り出したのは先ほどの洋菓子の箱だった。


 詩織さんが箱を開けると、中にはプリンに使う小さなカップ容器が三つ入っていた。稲瀬みのりが学校の帰りに、買ってきてくれたものだという。


 自分はもう食べたので、家族の分だとさ。詩織さん、親父。となると、後一つはオレ。当たり前のように家族として、ミナユキの分が入っている。


 それを見た上で、先ほどの稲瀬みのりの表情を思い出す。何て言っていいのか分からなかった。


 既に稲瀬みのりの家族という輪に、オレが含まれているのをアピールしているのだろうか。だとしたら、彼女にどう応えればいいのだ。


「どうしたの?」


 どういう表情をしていたのか分からないが、オレの様子に詩織さんが声を掛けた。小難しいことを考えていたから、きっと変な顔でもしていたかもしれない。


「いえ、その……やはり、甘いものって苦手で。折角、買ってきてくれたのを無碍にするのも……」と適当な言い訳をした。


 半分は考えが見透かされないようにする目的だが、甘いものを避けたいというのも本当だ。


 長年にわたって嘘をつき続けている人間だから、事実を混ぜると真実味が沸くというテクニックを得ているのだ。


「だから、きっとミナユキくんのはこれね」


 そう言って詩織さんが、箱から三つの内の一つをオレに手渡す。蓋を剥がしてご覧なさいと言われたので、言われたままに開けてみる。


 開けてびっくり、中身は真っ黒いプリンだった。


「黒ゴマか黒蜜プリン?」というオレの問いに、詩織さんは再び少し微笑む。


「コーヒーゼリー」


 確かに珈琲の香りがしたし、揺らしてみるとゼラチン質の弾力のある表面だった。根本的にプリンだと思っていた為、その発想はまるで無かった。


「え、でも、甘いのって……」


 コーヒーゼリーを渡すんだったら、その質問はおかしい。甘いのが好きか聞いた上で、カップ容器のお菓子を見せられたら、誰だってプリンだと勘違いしても仕方ない。


「甘いのが得意だったら、こっちを渡してって言われたの」と詩織さんは他の容器の一つの封を開ける。中身は黄色くて立派なプリンだった。


「さ、座って召し上がりましょう」と詩織さんに促され、紅茶を持ってリビングに腰かけた。


 詩織さんの対面に座わされたオレは、コーヒーゼリーを口にするように急かされる。


 口に運んでみて、妙な革命が起きたような気がした。プルプルとした食感は柔らかく、歯ではなくて舌で転がすように潰してみる。


 甘みが舌一杯に広がるが、同時に鼻に抜けるように珈琲の香りが広がった。やがて甘みと共に、ほのかな苦みが交わるように重なっていく。


 コーヒーゼリーというよりも、ゼリーと化した珈琲を口にしているような気分だった。


 歴史のある喫茶店が拘りの焙煎豆を、挽き立てで入れたエスプレッソ。オレが今まで食べたコーヒーゼリーは何だったのか、と思う程だった。


「お気に召したようね」


 オレの様子を見てニコニコと詩織さんは笑顔を向ける。まんまと稲瀬みのりの策略にハマってしまったみたいだが、彼女の前で無いだけ、まだマシと言えよう。

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