第102話 太陽はひとりぼっち
1962年のイタリア、フランス映画です。
「情事」「夜」「太陽はひとりぼっち」
いわゆる“愛の不毛”という言葉がはやり、それをテーマにしたといわれるミケランジェロ・アントニオーニ監督の3部作のうち、どれを取り上げるかひどく迷った。
実は私はミケランジェロ・アントニオーニ監督がかなり好きなのである。
以前ここでも、同監督の「欲望」という作品を取り上げた。
だから難解な映画と言われると、分かりやすいも、分かりにくいもない、見ていて面白く、心地よければ、映画はそれでいいのではないか、と言いたくなるのである。
この映画も、一般のあらすじみたいなものを求めて、物語を追おうとするとつまらない。
この作品の面白さは、もう少し別なところにあるのは確かだ。
それでも一応あらすじみたいなものを記しておくと・・・
いきなり男と一晩中話し合い、モニカ・ビッティがその男と別れる話から始まる。話と書いたのは、その場面が暫く続き、とても長いからだ。
その後証券取引所に通い詰める母に会って、その時アラン・ドロンと知り合う。
友人たちとケニアの原住民のマネをしてふざけたり、一緒にセスナに乗ったりする。
モニカ・ビッティはセスナを降りても暫く飛行場にとどまり、“ここは気持ちがいい”と言う。
それから延々と証券取引所の、金ばかり求める人々の話が展開し、突如株が大暴落する。
すったもんだの後にモニカ・ビッティとアラン・ドロンは行動を共にするようになり、それからずっと2人の付き合いが映し出される。
2人は、これからずっと、同じ場所で8時に会おうと約束する。
そこで物語は終了して、寂しい街の風景が延々と映し出される。
バスを降りた男の持った新聞に、『またもや核実験。この平和も仮の姿か?』と書いてある。
あたかも、日々金を求めていた普段の生活が仮の姿で、突如株が大暴落したように。
ラストのカットは街灯のアップである。
それは核爆弾の爆発を連想させる。
しかし、この映画は核よりも、モニカ・ビッティの、愛を信じられなくなった心が、安堵を求めてさまようという結局は“愛の不毛”を遥かに強く感じさせる作品になっている。
あえて3部作の中からこの作品を取り上げたのは、主演の2人を見ているだけでも、やっぱり美しい人を見るのは気持ちがいい、と感じさせてくれるから。
色々理屈をこねた割には、この映画の魅力は美しい2人にあったりするわけである。
カンヌ映画祭審査委員特別賞受賞。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます