第56話 東京物語

1953年の日本映画です。


まず残念なことがある。

それは「秋刀魚の味」であれほど感銘を受けた小津作品でも、この「東京物語」は、前回30年くらい前に見た時同様、あまり感銘を受けなかったということだ。

どうしてだろう。


そこで1鑑賞者として、「秋刀魚の味」と、「東京物語」の比較について書こうと思う。


・「秋刀魚の味」はカラー作品で、「東京物語」はモノクロ作品である。


何をつまらないことをと思われるかもしれないが、私にとって、まずこの映像美の違いは大きかった。

「秋刀魚の味」では、そこでも書いた通り美術品を眺めるような映像の見事な美しさがあった。これは大きい。「東京物語」の映像も白黒とはいえ決して悪くはないのだが、「秋刀魚の味」のような完璧なまでの美しさは感じられなかった。

映画を見る時、やはり映像がどうであるか、というのは私にとってとても大きなことなのだ。

まず、この点で少しガッカリした感じがある。


・「秋刀魚の味」は、物語も、作品の中の空間も、コンパクトにまとまっていた。


「秋刀魚の味」は、娘の結婚を中心に、子供を思いやる父親と、その周辺の人間関係が描かれていて、描かれている空間も大して広くはないのだが、「東京物語」は父と母という2人が中心で、物語の空間、スケールといったものが大分大きくなる。ふたりが、尾道から東京に来て、熱海にまで行き、再び東京に戻り、尾道へ帰るといった具合である。


・3番目は、なによりもこれが大きな原因だと思うのだが、「秋刀魚の味」を見た時、私は父親の立場に立って作品を見た。

娘の結婚を心配する父親として、金の無心をする、結婚もしている息子の父として、そして主に関わってくるのは仲のいい友人たちである。

ところが「東京物語」は、はっきりいってどこに視点を置けば良いか分からない。第三者として、客観的に物語を追わなければならない。強いて言えば、両親が自分の視点でないことはすぐ分かるので,そうすると東京にいる2人の子供ということになるだろうか。

この息子と娘は、特に娘の方は、いわゆる義務として両親に接する。

息子はまだしも、娘はあからさまに「この忙しいのに・・・」といった態度である。

それが批判的に感じられるのは、亡くなった次男、の嫁である紀子が、次男が亡くなって8年も経つのに、かいがいしく両親の世話をするから、一層娘がひどく見える。


しかし、私などはこの娘に1番近い。

親の面倒を見るなどめんどくさいし、出来れば亡くなった後、何かいい遺品のひとつも残してくれたらありがたいとさえ感じて生きてきた。


私は親と関係がうまくいかなかった。だから紀子のように親孝行する喜びや、親を喜ばせて嬉しいと感じる感覚がない。


そういう人間にとっては、「東京物語」の世界は、別段描くまでもなく日常の自分の気持ちそのものだとも言える。

多分,その辺に私が「秋刀魚の味」で、父親の気持ちに痛く感銘を受けたのに対し、「東京物語」はさほどピンと来ない理由があるのではないか。


つまるところ、「東京物語」は、親との正常な心理的関係がなければ理解できないのではないか。

私などはとても「東京物語」の美しさを堪能する能力はない。

やっぱり「秋刀魚の味」である。

あの父親の気持ちと映像美は、末永く忘れがたいものになるだろう。


これから小津安二郎監督の映画を観る機会があったら、親の気持ちを中心に描いたものか、そうでないのかを見極めて選ぼうと思う。


私は断然、親派なのである。

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