第48話 田園に死す

1974年の日本映画です。


この映画を取り上げるかどうか、随分と迷った。

ここで取り上げている他の映画と比べると、この作品はあまりにも異質だからだ。


私は20歳の時にこの映画を観て、「こんな映画観たことない」と、驚嘆したものだ。


現代文学を考える上で、この映画の作者寺山修司は絶対に無視することはできない存在だ。


寺山修司。歌人。劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。

1983年、47歳の若さで亡くなった。

その活動は、短歌、戯曲、詩、映画、脚本、評論など、多岐にわたった。



さて、「田園に死す」である。

物語らしい物語はない。前半はひどく土俗的に誇張された村での自分の少年時代を豊饒なイメージ溢れる映像の中に描き、後半は20年後の自分が登場して、その村の近くで少年と語り、もう一度少年時代を再構築しようとする。


問題は、その豊饒なイメージである。

この作品は、殆どがイメージを形にした映像の連鎖の妙味で成り立っているが、その映像は寺山修司独特のものなのだ。


まず映画が始まると、いくつかの短歌が寺山自身によって詠まれ、いったん破れたのを貼り付け直した奇怪な人の顔写真が画面に現れる。それが何枚か映されたのちに、恐山を中心にした奇妙な映像が次々と映し出される。


黒いカラスのような格好の老婆たち。

顔を白く塗った母と、中学生くらいの主人公。

反抗期にあるらしいその少年は、隣りの本家の若妻(八千草薫)が好みのタイプだ。

ここでまた短歌が挿入される。


少年は恐山に父親に会いに行く。そしてイタコに向かって、春になったら母を捨てて家出することを話す。


ほったて小屋のサーカスが村にやってくる。

そこには奇怪な人々ばかりがいる。

そのサーカスの光景が次々と展開した後、再び破れた顔写真に短歌が重なる。


そのあと隣りの若妻から少年は駆け落ちを持ちかけられる。


若い女がててなしごを産み、皆がかわいいという。


若妻と少年は、深夜一緒に駆け落ちする。

2人一緒に線路に沿って歩くと、布団が2組台車に乗って流れてくる。



ここまでは、実は試写室で観ていた作者(私)が作ったフィルムで、「私」は新宿のある試写室にいたのであった。


この夜、「私」は新宿でこの映画の中の少年、つまりは20年前の自分に出会う。


作者(私)は、ここまでは私自身の嘘だったといい、ここから記憶の修正が始まる。

奇怪な映像世界は後半へ突入していく。


「私」は、20年前の自分と、20年前の真実を探しに行く。



ここまでが前半部分だが、これ以上は書いてもあまり意味がないだろう。

実際の映像はいくら言葉で説明しても、観ていただかないと伝わらないからだ。


人生がそうであるように、映画も綺麗事だけでは済まされないとするならば、やはりこの映画は無視できないだろう。

この映画を観ることによって、寺山修司の世界の一端に触れるのも意味のあることかもしれない。


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