第39話 羅生門

1950年の日本映画です。


日本映画としては初めて、ベネチア映画祭で金獅子賞(グランプリ)を獲得し、日本映画の存在とともに黒澤明の名前を世界に知らしめた作品。


しかし今回、40年ぶりにこの映画を観て、40年前同様、今ひとつ何が言いたいのか私にはよく分からなかった。

従って、レビューをどう書くか困っている時に助け舟を出してくれたのは大学生の息子であった。


以下今回は息子が代筆したレビューとなります。


*        *       *


荒々しい豪雨。


下人が雨宿りしようと羅生門の下にはいると、そこで杣売とお坊さんが2人で話しているのが聞こえる。どうやら人が殺されたらしい。


しかし不思議なのが、当事者3人(多襄丸、女、殺された男)の証言の場に居合わせた杣売と坊さんによると、どうも辻褄が合わないそうなのです。


盗賊は自分の格好がつく武勇伝のように語り、女は自分が清らかであるかのように語り、殺された男は自分が誇り高き人であるかのように(巫女を通して)語っている。


では事の一部始終を目撃していた杣売が下人に語った内容はどうか。それによると多襄丸も男も実は腑抜けで、女も醜い側面があった。みんな自分に都合のよい嘘をついているから辻褄が合わないのだとすれば、この事件の話も一応は腑に落ちます。


短刀の行方が何処かという点を除けば。



一通り事の顛末を話し終えたところで、雨音のさ中聴こえてくる泣き声。行ってみると羅生門の柱の側に赤ん坊が捨てられています。下人はそれに近づくとその赤ん坊の身包みを剥ぎ取ってしまいます。


杣売はその行為を止めようとしますが、そこで口論になり、下人の指摘によって短刀を盗んだのは杣売だったことが判明します。


結局、この作品の登場人物は(視聴者に近い立場と思われるお坊さんを除けば)、みんな手前勝手で、悪事を働いたり嘘をついたりしているわけです。


この場面で幕を閉じていれば、この映画はいかに人間が醜い存在かを描いただけのものになっていたかもしれません。


しかしこれには続きがあります。杣売には子供が6人いるらしく、「6人育てるのも7人育てるのも同じ苦労だ」と言い赤ん坊を引き取るのです。人間不信のようになってしまっていたお坊さん(≒視聴者)は、その善意に一筋の光を見出します。


杣売が赤ん坊を抱え羅生門から出ると、もう豪雨は止んでいます。


昔から物語に出てくる人物というのは、程度の差こそあれ悪人・善人というように記号化されたものであったと思います。


でもリアルな人間というのはそんなに単純じゃない。みんな手前勝手に嘘をついたり悪事を働いたりする。しかし時には善意をもって行動することもできる。そんな人間の不安定さ、複雑さを、もしかすればちょっとしたアンチテーゼの意味も含めて描こうとしたのでは無いか、というのが、私なりの解釈となります。


読みにくい点など多々あったとは思いますが、ご容赦いただけると幸いです。最後まで読んでくださってありがとうございました。






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