雪のように漂白された日々

 早くサーシャのところに戻って無事を伝えなきゃいけない。それはわかっていた。ただ、アウロラという人間をもう少し知ってみたいという気持ちもセラにはあった。

 オーバーライドの効力はすでに切れていた。力ずくでアウロラを振り切ることもできただろう。

 でもサーシャを探して無事を伝えてアウロラのところへもう一度なんて薄情な感じがするし、一度離れてしまえばアウロラを見つけ出すのはとても困難なことのように思えた。


 結局セラはアウロラのもとに残り、北東の森林まで飛んだ。針葉樹の密集する冷たい森の中、かつて流れる溶岩が掘り抜いていった風穴の中にアウロラの住処はあった。周囲はごつごつとした火山岩に覆われていて、人間が歩いて寄りつけるような場所ではなかった。


アルカディア・レイに変身したセラが近づくと、その風穴の中から1頭の大きなドラゴンが姿を現した。ほっそりした肢体、銀色の鱗をまとった背中、鼻の長い顔。アルハンゲル・ミラーだ。

 ミラーは顔を上に向け、腰を踏ん張って飛び立とうとしていた。しかしセラの首の上に乗ったアウロラが口笛を吹くと、知っている相手だとわかったのか、2,3度軽く羽ばたいて構えるのをやめた。

「ミラーは暑さに弱い。南に行く時は乗せてもらうだけ」アウロラは言った。

 セラはてつきりロックホーンがアウロラの相棒なのかと思っていた。そう言おうとしたけど、レイの姿では「んがっ」という低い鳴き声が出るだけだった。

「ロックホーンには頼まれただけ。大勢で近づいてくる人間たちがいるって」アウロラは答えた。まるで龍の言葉がわかるみたいだった。


 セラは木々の間にぽこんと顔を出した岩の上に着地した。ミラーもこの岩を使うのだろう。他の龍の匂いがした。

 人の姿に戻って、持ってきた服を着込んだ。レイピアは鞘だけになっていた。本体の方は置いてきてしまった。

 それにしてもかなり冷える。風穴の入り口には雪が残っていた。


 ミラーは岩の上に登ってくると、喉の奥から大きなサケを吐き戻してアウロラの前に並べた。

 アウロラは手を伸ばしてミラーの鼻先を撫でた。お礼のようだ。

 それが済むとミラーはセラに目を移してじっと見つめた。トルコ石のような青い目がセラを捉えて離さなかった。銀色の鱗は予想以上に表面が平滑で、まさしく鏡のようだった。ミラーの名はその鱗の美しさが由来だ。

 ミラーはそのままセラに向かってきて、威圧するように上から鼻先を近づけた。

「お尻を向けて」アウロラが言った。

 セラは言われた通り背中を向けた。

「もっと突き出すように」

 セラは少しかがんで体を前に倒した。すぐ後ろから大きな鼻息が聞こえた。なんだかよくわからないものを正面から見られないのは不安だった。恐怖といってもいい。

 鼻息が止まり、「なに……?」と思っているとお尻に硬いものが触れた。もちろんそれはミラーの鼻先だったわけだけど、セラはびっくりして「あふッ!」と声を上げ、そのまま前につんのめった。

 ミラーは満足そうにその背中に顎を乗せた。そういえばミラーはプライドの高い種族だと聞いたことがあった。いきなり上下関係を叩き込まれたわけだ。


 アウロラはミラーの持ってきたサケを半身にさばいて串に刺し、魔法で火を起こして直火で焼いた。アウロラは一番に焼けた串をまずミラーに渡した。ミラーは前足の長い爪で器用に串を抓んで少しずつかじった。その気取った仕草はなんだかソフィアを思わせた。

 ミラーが「ぐるる」と唸ると、アウロラはニコッとして頷いた。

「アウロラは龍の言葉がわかるの?」セラは訊いた。

「龍に言葉なんかない。機嫌を感じているだけ」

「さっき私が唸ったのも機嫌でわかったの?」

「そう。あと、タイミング。ちょうどこのミラーが見えた時だった。あなたも言葉を使わずに暮らしてみたら?」

「でも、言葉でなければ理解できないこともたくさんある」

「本当に、そう?」

 セラは考えた。確かに、何でもかんでも訊く必要はないかもしれない。そばでじっと見ていればわかってくることだってあるだろう。

 アウロラは残りの串の焼き加減を確かめ、自分のサケを半分セラに与えた。味付けは岩塩だけだ。ばりっと頬張ると煙の味がした。


 アウロラはどうやらミラーには名前をつけていないようだった。アウロラがミラーに呼びかけることはまずなかったし、セラに話す時には「あのミラー」とか「このミラー」と言った。龍は名前で個体を識別したりしない、ということのようだ。

 アウロラとミラーの間に主従関係があるわけでもなかった。アウロラはいつも必ず食べ物はミラーの前に最初に出した。でもそれはミラーのプライドを守るためであって、師弟関係とか、家族関係とか、そういったつながりは見出せなかった。ただ住処を共用しているだけのようだった。

 ミラーもアウロラも勝手に出かけていって、一緒に出ていくとすればアウロラが遠出をする時だった。アウロラはミラーに対してオーバーライドは使わなかった。使わなくても十分に意思疎通できる、ということらしい。どうやってそんな関係が出来上がったのかセラは不思議に思ったけれど、1週間程度で察しがつくようなものではなかった。


 アウロラは龍も鳥も食べなかった。動物性のものを食べるとすれば魚か虫だった。ミラーは時々龍や鳥を狩ってきて飛び立ち岩(セラは最初に降りた岩のことをそう呼ぶことにしていた)の上に置いたけど、アウロラはそれも食べなかった。ミラーのために捌いたり焼いたりするだけだった。普段移動の足を出してもらっているお礼に仕方なく料理しているだけで、どちらかといえば渋々だった。

 アウロラの生き方は決して龍を真似たものではない。セラはそう強く感じた。もし龍になりたいなら、食物連鎖の上位にある龍がそうするのと同じように、龍や鳥だって食べるだろう。あえてそれを避けて鳥や龍を特別扱いするのはむしろ人間的な価値観じゃないだろうか。それに、龍には名前をつけないのに、自分ではアウロラと名乗る。それもやっぱり差別的だ。


 セラはアウロラについていって川で魚を釣り、ミラーについていって山で龍を狩った。セラが川に飛び込んで凍えていると、アウロラは熱風の魔法で荒っぽく全身を乾かした。セラが物音を立てて獲物を逃すと、ミラーは例の「アゴ乗せ」をして半分くらい押し潰した。

 何度かミラーと狩りに行って気づいたことだけど、ミラーはかなり高齢のようだった。狩りの技はとても洗練されていて、上手くいけば全然相手に気づかれずに捕えてしまう。でも上手くいかない時は上手くいかない。見込みより早く気づかれてしまった時はそこで諦める。深追いしない。無駄な体力を使わない。それがポリシーのようだった。

 セラは魚も龍も鳥も食べたけど、それについてアウロラは特に何も言わなかった。それどころか1日中会話という会話もなく、ミラーもやっぱり鳴かなかった。

 声のない1週間は雪のような漂白された日々だった。前の日のことを思い出そうとすると、水彩で小さく描いたスケッチのようなイメージが断片的に浮かび、そして消えていった。言葉がなければ記憶や世界はこんなにもぼんやりとしたものになってしまうのだろうか。


 ある朝、1頭のラプテフ・ホッパーが飛び立ち岩に降りてきた。まだ新しい切り傷が首や背中に見えた。

 ミラーは少し警戒したが、アウロラはずんずん歩いていって何の躊躇もなくその鼻先に触れた。ホッパーの方もまるで嫌がらなかった。

 セラはサーシャがホッパーに振り回されているシーンを思い出した。

 アウロラはなぜこんなふうに龍と接することができるのだろう。もしかして知り合い? いや、だとしたらミラーも警戒しないはずだ。

「セラ」とアウロラは呼んだ。

 セラが考えている間に彼女はホッパーの用件を聞き取ったようだ。彼女の青い目がセラを見ていた。

「行こう」

「どこへ?」

「たぶん、人間の街。オーバーライドいる?」

 セラは首を横に振った。


 私もまた龍ではないのかもしれない、とセラは思った。

 龍は言葉を持たない。

 だとすればこんなに人の声や言葉が恋しいのは変だ。人間の街、と聞いて、人々の声が聞けるのが楽しみで仕方なかった。一言も発しないで平気で1週間も生きられるミラーとは違う。

 それは私が人間だから――少なくとも人間として生きてきたからなのだろう。

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