逃げる影.2
「やめておけ。登るのと降りるのでは、降りる方が危ないんだ」
誰かに声をかけられて、スフィヤは反射的に声のした方向に身構えて突撃した。しかし予想と違い、ガバリとタックルしたはずの相手に抱きしめられ、そのまま勢いを流されてしまった。
ぶつかった相手は予想と違い、攻撃を返してくるようなことはなく、むしろ慈しみを込めた手つきでスフィヤの頭を撫でた。
「……父さん。どうしてここに」
「お前を見捨てて逃げると思っていたのか。ずっと見ていたよ。本当にダメになると思ったら、手を出そうと思っていた」
「地下牢のことも見てたの……」
「見ていた」
「っ、じゃあ、なんで助けてくれなかったんだよ」
「お前なら大丈夫だと信じたからだ。現に今、こうして壁をよじ登って来れるくらいに元気じゃないか」
「元気じゃないっ、元気なわけあるかっ。僕は……とんでもないことをしたんだ。……なんで止めてくれなかったんだよ」
「お前なら、すべてを背負っても大丈夫だと信じたからだ」
「全然……大丈夫なんかじゃない。どうしたら、よかったんだ……」
「大丈夫だよ。少なくとも、父さんがお前と同じ立場だったなら、もっと酷いことをした。それを伝えたくて、お前とここで話したかった」
「父さんなら……誰も犠牲になんかしないで上手くやったよ、僕と違って……」
「お前、若い頃の父さんを知らないだろう。とんでもなく思い上がって暴力的な若者だったよ。ある村の村人を皆殺しにしようとしたこともあったんだぞ。一方的に自分だけの裁きなんてものを突きつけて。この国の王と何も変わりない。その点、お前は立派だった。ちゃんと人間でいつづけようとしていた。途中で自身の判断に疑問を持って、1番助けを必要としている人に寄り添おうとしていた」
「……怖くなって、何も考えられなかっただけだ。目の前のことにしか向き合えなかった」
「その感情が人間である証拠だ」
それ以上は何も言わず、スフィヤは父に抱きついた。ティファンはスフィヤの頭を撫で続けながら、息子がこんな風に甘えてきたのが初めてだということに気づいた。旅に出ることで、無理をさせてきていたのかもしれない。そう思うとティファンの心は痛みを覚えて、スフィヤを撫でる手に力がこもる。
ティファンは自身が大切にしてきた鬼神の一族のしきたりや力を息子が受け継いだことを喜ばしく思っていたが、それが重荷になるようであれば取り去ってやれればよかったと感じていた。今までずっと自分に鬼神という役割を課し続けていた自分が、こんなふうに思うことに驚いてもいたが、それくらいにスフィヤの存在はティファンにとって大きなものだったのである。息子を通して、自身の内面をも知ることができるのかと感動すら覚えていたが、今はただ目の前のスフィヤが痛ましくて、どれだけ大切に思っているかを伝えるために撫で続けることしか思いつかなかった。
そうして時間が少し過ぎた頃、ティファンは呟くようにスフィヤに話しかけた。
「スフィヤ、もしもお前が宮殿の広間に広がる惨状を自分のせいだとでも思っているなら、思い上がりも甚だしいことだ。あれは全てこの国の怒りだ。痛みだ。お前がしたことがきっかけにはなったかも知れないが、お前が起こした出来事ではない。お前はそこまで壮大な存在じゃないぞ。神ではないのだから。自分が望んだわけではない悲劇が起きてしまったことまで背負う必要はない。お前が人間でいようとする限り、今日の出来事は永遠に忘れられないだろう。それでいいんだ。それが人間の、人間にできる償いの1つだ。神になんてならなくていい、なれるはずがないんだ」
そう言ってティファンは息子の顔を見つめて笑った。スフィヤは父の言葉の全てはわからなかったが、自分が父に大切にされていること、そして今日の後悔を背負うのではなく、忘れないことで、そんな父に報いることができるのだということだけは分かった気がした。
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