第149話 穴の空いたバケツ 前編
しとしとと雨が降る。雨は地面の土に吸われて静かに消えていった。
水を含んだ土の臭いがする。それは私の鼻腔にべったりとへばりつくようにして離れない。その臭いがする空気を肺いっぱいに吸い込んだせいで、肺が土まみれになったような気がした。
──寒い。
季節は冬。ここがどこなのかは知らないが、少なくとも投資家の家がある地域よりもずっと寒いことは分かった。だから雪が降る可能性は十分にある。
──どうか降ってきませんように。
しかし私の祈りも虚しく、日が暮れる頃には気温も低下して、雨だったものは雪へと変わっていた。細かくて軽い、綿菓子のような雪だ。それが少しずつだが積もっていく。
──まずい……屋根を探さないと……このままじゃ……凍死しちゃう……。
私は震えながら這いずって森を抜けようと試みた。冷えと薬物の影響で満足に動かない体に鞭を打ち、少しずつ、本当に少しずつだが、進み始めた。
──屋根……どこか……木の根元に……空間は……。
比較的清潔だった白い洋服は土と雨と雪が混じって茶色く汚れていった。
私は匍匐前進して森を抜けようと試みる。既に辺りは黄昏時を通り越して真っ暗になっていて、月明かりだけが頼りだった。しかしその月明かりも木々の隙間から差し込むだけだから心もとなかった。
──ここって……野生動物は出ないよね……出たら……私逃げられないよ……。
冬だから某童謡よろしく最も恐れているものと出会うことはまずないのだが、その程度のことにも気づくことができないほど私の知性は低下していた。
降雪量は時間経過と共にどんどん増していき、私の体にも積もってきた。進む道なき道にも雪は積もっており、そこを進んでいくうちに胸や腹などの胴体からも体温を奪っていった。
そのうち感覚は麻痺して、冷たいということをあまり感じなくなってきた。その頃には末端の感覚はほとんど失われて、手にウィンナーがくっ付いているかのような気がした。それも青紫色のいかにも腐っていてまずそうなものだ。
──人間の体ってこんな風に変色するんだ……。
まるで他人事のように感心して、手を上下に動かして、ペチペチと雪が積もった地面を叩いた。こうでもしないと指先は動かないからそうしたが、衝撃も感覚も指から伝わることはなかった。きっと全身の皮膚が粟立つような寒さなのだろうが、あいにく私の体はもうその機能は果たさない。
「…………結局……私の人生って……なんだったんだろう……」
結局屋根になりそうなところを見つけられず、疲れ果てた私は最後の力を振り絞って仰向けに寝転がった。
背中に積もっていた雪が仰向けになったことで背中と地面に挟まれ、押し潰されては体温で溶かされ、さらに体温を奪っていった。
「…………最初から……私……なんて……いなければ……こんな……」
目尻からこめかみへと涙が伝う。
「……こんな……悲しい……思い……も……苦しい……思い……も……怖い……思い……も……全部……味わわなくて……済んだ……はず……なのに……」
次々と涙が溢れてくる。皮膚を濡らし、そこがさらに気化熱によって冷えた。
「……次は……もっと……」
冷え切った体の芯がじんわりと熱を孕み始めた。
「……もっと……もっと……」
それは徐々に広がっていく。
「……もっと……もっと……もっと……」
熱が体内で膨張したように、瞬く間に私は凍え死にそうな寒さから解放された。
すると今度は猛烈な暑さを感じた。あれほどまでに寒さに身を縮ませていたにもかかわらず全身から発汗して、今にもすべて脱ぎ捨ててしまいたいほどだった。
──なにが起きてるの……?
そう疑問に思ったが、満身創痍な私の体に、それを考えるだけの力は残っていなかった。
そして暑さに悶え苦しみながら、意識を失った。
今度こそ死んだと思った。しかし私は今、目を覚まして、熱々のトマトのポタージュスープをちびちびと木製のスプーンで口に運んでいる。
「……おいしい」
私の口から言葉が漏れた。
「お口に合ったようで良かったです」
そう言ったのは、手入れの行き届いたツヤツヤの長い黒髪に真っ赤な瞳をした上背のある息を呑むほど美しい女性だった。
私はこの女性──の姿をした吸血鬼に助けられたのだ。
「……なんで助けてくれたんですか? それに……手足も綺麗な状態になってるし……」
食事を済ませた私は輪切りのレモンがいくつも浮かんだ水を飲む吸血鬼に訊ねた。
「…………ただの……人助けという名の罪滅ぼしですよ。それ以上でもそれ以下でもないのですよ」
吸血鬼はどこか遠い過去を見て静かに答えた。
「その手足についても……人助けですから。私には少しですが医学や薬学の知識がありまして、それを活かして治療させていただきました」
吸血鬼は視線を逸らして、
「それに……あなたには感謝しています。ありがとうございます」
と申し訳なさそうに続けた。
私はその言葉の意味が理解できず、ただ沈黙の時間が過ぎていった。
そして保護されてから一週間が経過して、私の体も吸血鬼の薬のおかげでだいぶ良くなった。
いつまでもお世話になっているわけにはいかないから、吸血鬼の家を出ようとすると、吸血鬼はとても残念そうな表情を見せた。その後、『どこか行く宛はあるのですか?』と訊かれたから、私は、『家族がいるから、そこへ帰るつもり』と答えた。
「ありがとうございます!」
私は列車の窓から腕と顔を出して叫んだ。プラットホームには吸血鬼の姿があり、静かに小さく手を振っていた。
吸血鬼は私の命を救ってくれただけでなく、家族のところへ帰るのに必要な運賃と少しの食費を与えてくれた。
きっといつかこの礼をしようと私は心に決めて、家族のところへと向かった。
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