第145話 なにも残らなかった 前編
私は愛に飢えていた。
学のない父は肉体労働の出稼ぎをしていて家に帰ってくることは滅多になかった。だから今となっては父の顔はどのようなものだったのか思い出すことができない。しかし人並みに稼げてはいたようで、毎月家にお金を入れてくれていた。
母は重度のアルコール依存症を患っており、いつも酩酊状態で、私の記憶にある母は眠っているか酒を飲んでいるか、出かけているのかのどれかだった。だからご飯を作ってもらった記憶も、教育された記憶も、愛情を与えられた記憶もなかった。
私が物心ついた頃には、家に落ちていた母の食べかけのインスタント食品やレトルト食品をかき集めては胃に入れて、本能的に餓死しないように過ごしていた。今思えば美味しくなかっただろうが、そのときは味なんて気にならなかった。死にたくないなら食べなければならない、だから食べたまでだった。
ある日、私は母にお金を渡されてアルコールを買ってくるように命じられた。だから私は受け取ったお金を握りしめて、近所の酒屋に出かけた。私はそれがとても嬉しかった。
いつも買いに行く酒屋の店主とは知り合いで、私が来ると店主は少し悲しそうに、そして慈悲深く笑って私に温かい食事を与えてくれた。そのときに決まって出されたのがハムとスクランブルエッグを挟んだ食パンと、体に良さそうなサラダ、それからハチミツを溶かしたホットミルクだった。
たまに食べる温かい食事は唯一の私の生き甲斐で、その瞬間だけが生きていると実感できた。
そして食べ終わると私は握りしめていたお金を店主に渡して、買えるだけの蒸留酒を持って家路についた。
異様に痩せこけて骨と皮になっている四肢とは対照的に腹は膨れている、身だしなみに無頓着で髪はとかさずにボサボサ、汚れて落ちなくなったシミや襟や袖がヨレヨレになったボロ雑巾の集合体のような服を着た見苦しくて不恰好な子どもだったが、結局店主は助けてくれなかった。私が店に来れば食事を与える偽善のような行為はするが、この現状を改善してはくれなかった。
家に帰れば酔い潰れて泥のように眠っている母をゴミを見るような目で一瞥し、近くに言われた通り買ってきた酒を置いて、私も床で眠りについた。
私が三歳かそこらになった頃、家族が増えた。アルコール依存症の母は出稼ぎで家を空けていた父が帰ってきたときにやることはやっていたようで、妹が生まれた。それから毎年のように家族は増えていき、気がつけば私を含めて子どもは女四人、男四人の大家族になっていた。しかしこれでも途中に餓死した弟妹がいたから、本来ならもっと増えている。
その頃には私は料理ができるようになっており、弟妹たちが餓死することはなかった。しかしどうにも食料に困ったとき、私の視界に意識があるのかないのか、生きているのか死んでいるのか分からないような弟が入った。
私は弟妹を外へと遊びに行かせ、家には私と弟と眠っている母だけだった。
大した教育を受けていない私にあるべき道徳や倫理の観念などがあるはずもなく、容赦なく弟を解体した。
食べるものに困ったとき、野良犬や野良猫を解体して食べたときのことを思い出し、私は弟の体に包丁を突き立てた。刺さったところから血が流れるが、弟の反応はなかった。
私はただ空腹を満たすために包丁を振るった。関節に刃を刺して四肢をもぎ取り、内臓を傷つけないようにお腹を開けて臓器を取り出した。
弟も痩せていたから可食部はたかが知れていたが、ないよりはマシだったから弟を使って料理を始めた。
鍋に骨と水を入れて火にかけて出汁を取り、トマトの缶詰と塩コショウで味付けをした。僅かにある肉は質の悪い油を多く入れたフライパンでこんがりと焼いた。
それから弟の残骸を庭に埋めた。幸いもここは田舎で、我が家は一軒家、そして私以外の子どもたちは出生届が出されてないようで、そもそもいなかったことにするのは容易だった。
少しして遊びに行かせていた弟妹がお腹を空かせて帰ってきた。だから私は普通の、なんの変哲もない顔で弟を調理したものを食卓テーブルに並べた。母もそれを食べた。
私も含めて皆、美味しい美味しいと言ってすべて食べてくれた。母に至ってはおかわりを要求していた。
──あなたが食べたのはあなたの子どもだよ。
私は内心嘲笑しながら母の皿にスープを注いだ。
このようなことはこれで最後だった。
私が八歳か九歳になった頃、母が蒸発したのだ。しこたま借金をこさえて消え去った。
出稼ぎをしていた父は変わらず家に帰ってくることはなかったが、母の借金は払ってくれていたようで、借金取りが家に来ることはなかった。
しかしそれから二年が経過した頃、突然父が亡くなったことを知った。借金返済のために働き詰めで、食生活も悪かったのも災いしてある朝、目が覚めなかったようだ。
それからが大変だった。当然ながら父が亡くなったことで借金返済が滞り、家に連日怖い人たちが訪れた。弟妹は怖がり、玄関から一番遠い部屋で皆がくっついて一日を過ごしていた。
そしてある日、私は借金返済のために怖い人たちによって連れて行かれた。散々泣き叫んで扉にしがみついたが、貧弱な子どもの力では成人男性に敵うはずもなく、車に詰め込まれた。
それから二、三時間車を走らせたところで、私は降ろされた。怖い人に腕を掴まれて逃げられないようにされながら、ある店に入った。すると成金のような嫌味ったらしい白い派手なスーツを着てジャラジャラとアクセサリーを付けた男性が出てきて、ねっとりと纏わりつくような悪趣味な笑みを浮かべると、私と目線を合わせて、
「これからよろしくねぇ、レイチェル・クルスちゃぁん」
と吐き気がするような気持ちの悪い声で言った。
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