第112話 強靭な精神 後編

 頭が痛い。脳が膨張して頭蓋骨を内側から圧迫するようにズキズキと痛む。

 ──頭が割れそうだ。

 頭蓋骨にヒビが入ったのではないかと思うほどとてつもない痛みが脈打つように感じられる。

 膝立ちしたまま僕は頭を押さえて歯を食いしばって能力に屈しないように耐えているが、それもまもなく限界を迎えるだろう。

「まだ半分も力を使っていないんだが? それなのにお前は……この有様とはなんという体たらく……」

 うずくまっている僕のほうへとエスターがつかつかと歩いて近づいてくる。

「……どうしろってんです……か……」

 僕が絞り出すように声を発すると、

「精神力を鍛えれば済む話だ。もっと多くの負荷をかけろ。そうすればこの程度、問題なくなる。現にわたしの能力は他のホロコーストのやつらにはほとんど通じないからな」

 と冷徹に言い、僕の顔を覗き込んだ。エスターの顔は少し悔しげでどこか寂しそうだった。

「……鍛えるって……具体的にどうするんですか……? 負荷をかけるって言っても……」

「そんなことも分からないのか。だからポンコツなんだよ、お前は」

 エスターはまたしてもため息をついた。

 ──ンな無茶な。この世には考えれば分かることと考えても分からないことがあるんだよ。

 そうやって気を抜いた瞬間、僕は屈した。そしてまたエスターを崇拝し始める。

「……分かった、仕方がないから教えてやる。だから今度こそちゃんと受け身を取れよ。何度も何度も地面とキスするな、気色悪い」

 エスターは半ば諦めたようにやれやれと言わんばかりに手をひらひらと動かすと、能力を解除した。すると僕を支配する力も消失するから、晴れて自由の身となって体は前に倒れていく。

 固まった筋肉に脳が神経を伝って指示を出す。今度はそれを受け入れた両腕が前に出て、顔面から着地することはなかった。

 なかったのはいいが、問題は次だ。エスターが足を振り上げている。頭上まで上げて足の裏に太陽のエネルギーを集中させるように掲げると、それを一気に振り下ろした。──僕の後頭部目がけて。

 ──おいこら、嘘だろ。そりゃないって。

 追加で体に指示を出し、横に転がると、エスターの踵は地面に突き刺さった。地面にヒビが入り、削られた砂が放射状に辺りに飛び散る。

 ──あれ当たっていたら十中八九頭が割れてしまうんじゃないか? おお怖い怖い。

 間一髪のところで回避した僕がそっと胸をなで下ろすと、すぐさま追撃が飛んできた。中腰でいる僕の顔面に拳が近づいてくる。空気を切って進むそれに対して僕は横に動いて軸から逸れようとすると、当然ながらエスターもそれに反射して動きを変えてきて、ストレートだったものがフックになって僕の頬を捕らえようとした。

 ただでさえ先ほどの能力のせいで頭痛から解放されていない苦しい状況だというのに、エスターは一切の手加減をしない。

 頬を拳が抉ろうとした瞬間、咄嗟に僕はエスターの手首を掴み、捻り上げた。関節が軋む音がする。それからそのまま投げ技に入ろうとするが、エスターは既に空中にいた。

 エスターの小さな体はとても軽く、羽毛のように宙を舞い──。

「うわっ──!」

 ──脚が首に絡みついた。要するに僕がエスターを肩車をしている状態だ。

 即座にそれを外そうと首と脚の隙間に手を入れて対処するが、それよりも早くエスターは体を捻り、行動した。それによってエスターが乗っている僕の体の重心は傾き、倒れていく。するとエスターは地面に手から着地して、自分は受け身を取って僕だけを地面に叩きつけた。

 何度目か分からないほど地面に叩きつけられた僕の体が悲鳴をあげる一方でエスターは余裕があり、首に絡めていた脚を解くと、間髪入れずに再度僕の体に脚を絡めて、関節技を決めようとしていた。

 エスターは腕を取り、腕ひしぎ十字固めを決めようと力を加えた。僕の肘関節が絶叫するがお構いなしに曲がってはいけない方向へと力を加えていく。

「そ、それ以上はダメですって! 肘、肘が脱臼しちゃいます!」

 僕は叫びながらエスターの脛を殴るが、エスターにはまるで効いていない。

 ──嘘だろ。脛ってぶつけたら誰でも痛いもんじゃないのか……?

 エスターはニヤリと笑って、

「やだ、絶対にやめないからな」

 と言って一気に力を加えた。

 次の瞬間、できれば聞きたくない骨やらなんやらが折れる音と共に僕は気絶した。


 僕は仰向けのまま目が覚めた。気絶したところと場所は変わっていないし、時間も太陽の位置からしてあまり経過していないようだ。頭痛こそするが、他の体の部位に痛みや異常はないのを確認した。

 一つ問題があるとすれば──。

「……ん?」

 ──僕の上でエスターがうつ伏せですやすやと寝息を立てているということぐらいだ。

 エスターは僕を枕代わりにしてすやすやと眠っている。あまりにも気持ちよさそうに眠っているから起こすのに気が引けて、目が覚めるまで放置することにした。

 エスターを上半身から下半身へと動かして、僕はゆっくりと音を立てないように上体を起こした。

 ──かわいい。

 それから僕はエスターの頭を撫でる。手入れの行き届いたつやつやの髪は指に絡むことなく指の隙間から滑り落ちていく。

 ──白いなぁ。

 僕はエスターの頬を人差し指でつついた。指先が皮膚に当たり、少しだけ力を入れると指が頬に沈み込んだ。指を離すと元に戻っていく。

 ──ぷにぷにしてるなぁ。

 僕はエスターの背中に指を沿わせた。すると背骨や肋骨が服の上からでも分かった。ゴツゴツしていてあまり肉がないことが分かり、少し心配になった。

 ──細いなぁ。

 僕はエスターを抱きしめた。あまりにも細くて骨が折れてしまいそうだったから、少し力を弱めて抱きしめていると、

「……おい、なにしてるんだよ。このポンコツ」

 と言う声と共に僕の顔面に拳が刺さった。

 目の前が黒と白交互に変わりながら僕は仰向けに倒れていき、最終的には地面に後頭部をしたたか打った。

「──痛い痛い痛い!」

 鼻から垂れる生暖かい感触なんて比ではないほど後頭部がじんじんと痛む。

 エスターは不快そうな面持ちで僕を訝しそうに見つめ、

「お前って……そういう趣味が……あったのか……? そういうの……ちょっと無理……生理的に……お前は……受け付けないから……」

 と震えた声で言った。

 ──なんか盛大な勘違いを生み出してしまった。早く誤解を解かないと。

「そ、それは違う 誤解だ! これはあくまでも愛情表現の一環であって──」

「おい、お前今、愛情表現って言ったよな。それは違うとか否定しておきながら、やはりそういうことなのか!」

 頭を打ったのが悪かった。思考回路に短絡が発生しているせいで言いたいことが言えない。

「えっと……その……これは……か、家族愛! 家族愛だから!」

 ──よっしゃ! なんとかそれっぽい正解に辿り着いた!

「か、家族──! それはいくらなんでも早すぎるだろ!」

 エスターの顔が見る見るうちに青ざめていく。

「違います! 違いますよ! 僕には──!」


「……まあ、分かった。うん、分かった。多分、分かった。一応、分かった。とにかくお前はわたしを妹と重ねたんだな」

「そ、そうなんですよ! エスターは僕の妹にとてもよく似ている!」

 どうにか誤解を解くことができた。我ながらよく頑張ったと思う。結局あの後一時間はマシンガントークで説明して、ようやくこの状況まで持ってくることができたのだから。

 エスターは僕の目を一瞥すると、

「……そういえばそうだったな」

 と静かに言って顔を曇らせた。それから、

「もし……」

 と言い淀んだ。

「……もし?」

 僕が鸚鵡返しに言うと、エスターは生唾を飲んでから決意したように強張った表情で僕の目を見て、口を開いた。

「……もしもお前が妹と対峙したとき、そのときは一切の躊躇なく殺すことはできるのか?」

「…………できます」

「……そうか。……その言葉に嘘偽りがないことを願うよ」

 エスターは立ち上がり、僕の頬を引っ叩いた。爽快な音と共に叩かれた頬が熱を孕む。

 ──は?

 理解が追いつかない中、呆然とエスターを見つめると、

「嘘をつくな! どうせお前は妹を殺すチャンスが訪れてもなにもできずに逆に殺されるだけだ! たとえ刃を振るっても決意していないから首は落とせない!」

 と叫んだ。

「……ど、どうしたんですか? エスター?」

 目を見開いて訊ねるが、エスターの耳には届かない。

「嘘つきは死ね! さっさとくたばれ! ──ほら、なぁ? 世間のために消えちまえ!」

 エスターの瞳から光が消えた。顔には嫌悪感がパンに塗るピーナッツバターのように塗りたくられている。エスターは両手で拳を作り、肩で息をする。

「おい、待て! 待てよ! エスター! なにがあったんだ! 僕は一体なにをしたって言うんだ!」

 僕一人では対処しきれないほどの恐怖が僕に纏わりつく。──刹那、頭がかち割られるような痛みが走った。目からは血涙が滴り落ち、体は脳からの命令を一切聞かなくなった。

「や、め……ろ……」

 脳が強酸の液体に沈めたように溶けていく。思考ができない。

 そして苦痛から逃れるために僕の脳はシャットアウトすることを選んだ。

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