第78話 形勢逆転 前編
カルヴィンの死体を食べていた水の吸血鬼の腹が妊婦のように膨れ上がった。それは異常なほどで、食事によるものではないのは明らかだった。
額に脂汗を浮かべ、苦痛に顔を歪めて膨張している腹を抱え込むように押さえて、
「まだ……生きてたん……ですか……それも……探し当てる……だ……なんて……よく……やりました……ね……」
と唸るように言った。
「お姉様……大丈夫……?」
砂の吸血鬼は心配そうに顔を覗き込んだ。
「あなたは……下がっていて……少し……大変なことに……なる……から……」
息も絶え絶えに言葉を紡いだ。
「お姉様?」
砂の吸血鬼が首を傾げた次の瞬間、水の吸血鬼の風船のように膨れ上がった腹が縦に裂けた。それはまさにダムが決壊したかのようで、とてつもない量の水が流れ出した。
強い水流は砂を濡らし、浸食していった。それは乾ききった土地に川を作り上げた。
擬似的な川に流れる色とりどりの洋服の端切れが混じった水に、突飛なものも混ざっていた。
それは桃太郎の冒頭のようにどんぶらこどんぶらことセシリアを抱きかかえたモニカが流れてきた。二人とも意識を失っているようで指の一本足りとも動かなかった。
「ありゃりゃ……やってしまいました……」
腹が裂けたにもかかわらず、水の吸血鬼は大仰なリアクションで手を額に当ててみせ、あっけらかんと言ってのけた。
それから内面の読めない妖艶な笑みを浮かべて、
「私はこれを治すためにこの場を離れますね。転がっている人間はあなたが食べていいですよ」
と言った。
「でも……お姉様……まだ殺していない……」
砂の吸血鬼の憐憫の情が混じった視線の先には、もみじおろしになったナスチャ、意識不明になっているセシリア、モニカ、ヴェロニカ、頭を失っていてところどころ体も欠損しているカルヴィンがいた。
「……もう戦える人間は残っていないようですから問題ないですよ」
水の吸血鬼は汚物を見るような冷酷な視線で倒れた人間らを一瞥してから柔和に笑って、這いずるようにその場を去ろうとした。
そこに一発の銃声が鳴り響く。静かに落ちる空薬莢と弾ける祈りを込めた銀の弾丸。
「……まだ……生きてるよ……わたしは……」
絞り出すように言ったのはヴェロニカだった。手には彼女の得物である拳銃が握られている。
息も絶え絶えに体をゆっくりと起こしてから立ち上がると、銃口を砂の吸血鬼に向けて、
「死ぬのはあなたたちだ」
と語気を強めて言って凄んだ。
砂の吸血鬼が手を振り上げた次の瞬間、既にそこにヴェロニカは存在しなかった。死の間際にいてアドレナリンが過剰に分泌されている今、ヴェロニカは人間を超越した身体能力を得ている。
ヴェロニカは視線をいつのまにか元通りの愛らしい姿になっていたナスチャに向けて、
「セシリアたちはまだ生きてる! 復帰できそうならさせて! 無理ならナスチャだけでも! ──とにかく意識が戻るかやれることをやってみて!」
と叫んだ。
「……なんで……生きてるの……」
血の気が引いた顔をした砂の吸血鬼の口から無意識のうちに言葉が漏れた。次の瞬間、弾丸が吸血鬼の片目に突き刺さり、頭を貫いた。
呆然としていた砂の吸血鬼は着弾すると同時に現実に引き戻されて、すぐさま頭を傾けた。それによって脳幹の損傷を防ぎ、死から逃れることができた。
しかしがら空きの横腹にヴェロニカの回し蹴りが刺さった。決して重くはなく、踏ん張ってもいなかった砂の吸血鬼の体は簡単に宙を舞った。
空中で猫のように体を捻って着地しようとした吸血鬼に再び蹴りが直撃する。
「お前は僕が殺す! 死刑だ!」
目覚めたセシリアは先ほどまで意識を失っていたとは思えないほど元気にクレイモアを片手に握りしめて跳躍して蹴りを放った。
みぞおちに当たり、吸血鬼の口から空気と液体が漏れた。
サッカーボールのように蹴り飛ばされて地面に転がった。砂の吸血鬼は苦痛で顔を歪めながらも即座に起き上がって攻撃をした。
「そんなものいくらでも避けられる!」
セシリアは一瞬で間合いを詰めてクレイモアで首を狙って薙ぎ払った。しかし首に当たる寸前に衝撃波を発生していたせいで刃の動きはねじ曲げられ、当たらなかった。
「伏せて!」
ヴェロニカの声に反射的に従ったセシリアは姿勢を低くして背後からの弾丸を回避した。それからセシリアは片足を軸にして回転し、クレイモアに力を乗せて足を切り落とそうと薙ぎ払った。
砂の吸血鬼は衝撃波を放ち弾丸を粉々に砕いた。破片はセシリアの頭に降り注ぐ。しかしセシリアはそれでは止まらず、クレイモアは脚を切り落とした。
太ももの半ばで両断され、体が傾いた。空を掴むように必死に足掻くがそれも虚しく地面に倒れ込んだ。
「終わりだ」
セシリアが切断しようとクレイモアを首めがけて振り下ろした。殺意を纏った刃が首に刺さるが、切断には至らなかった。
「──硬い!」
手応えはあり、金属よりも柔らかいのは確かだ。しかしこれ以上刃は進まなかった。
「私は死にませんよ……」
砂の吸血鬼は唸るように声を発した。先ほど撃たれて損傷した片目は青く輝いている。もう片方の目は琥珀のような色のままだった。それだけではなく、先ほど切断したはずの脚の断面から鮮やかな薄い水色の触手が出ており、元の形に戻そうとしていた。
「なにが起きているんだ!」
目を見開いて仰天しているセシリアを前に変化した砂の吸血鬼だったものは立ち上がり、覚束ない足取りでセシリアの前に仁王立ちした。
「私たちは二人で一人……いつも一緒ですよ」
次の瞬間、セシリアの体が吹っ飛んだ。十メートルほど後方に飛ばされたが、なんとか受け身をとって致命傷を回避した。
吸血鬼の拳はセシリアの下腹部を捕らえていたのだ。斜め上に力を込めたせいでセシリアは宙を舞った。
「セシリア!」
ヴェロニカが叫び、視線をセシリアに向ける。
「合体とか聞いてないよ!」
視線を吸血鬼に戻したが、既にそこにはいなかった。
「しまった──」
瞬く間に間合いを詰められ、強化された拳が顔面を捕らえた。骨が砕ける嫌な音と共にヴェロニカの体もセシリアと同様に美しい放物線を描いて宙を舞った。
「私はあなたを許さない!」
遅れて意識を取り戻したモニカが駆けつけると、吸血鬼の首を切り落とそうとサーベルを振るった。しかしそれは指一本で押さえ込まれ、挙句力を利用されてモニカはつんのめった。
「別にあなたに許してもらおうなんて思っていないから構わない……」
吸血鬼は止まれずに前に倒れたモニカの背中を踏みつけながら澆薄に笑い、
「内臓を破裂させたはずなんですが……なぜそんなにも元気なんですか?」
と首を傾げた。
モニカは起き上がろうと力を込めるが、それ以上の力で踏まれているせいで動けない。
「そうだよ……あなたのせいでさっきからずっとお腹が痛い。いや……痛いなんてもんじゃない。今すぐにでも自決したいぐらいだよ」
息も絶え絶えに脂汗を額に浮かべながらモニカは言葉を紡いだ。
「なら私が楽にしてあげる……」
吸血鬼は冷酷にも踏みつけている足に体重をかけて苦痛を与えた。
モニカは絶叫した。喉が裂けてしまいそうなほど大きな声を発して激痛から逃れようとした。
「今すぐに、なんて誰も言ってないんですけれどね」
吸血鬼のその声は恐ろしいほど冷たかった。
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