第25話 夜空の舞踏会 後編
暗闇の中、あちこちで悲鳴が上がる。同時に何かが潰れる嫌な音が連続して聞こえた。
一瞬のうちに会場はパニックに陥り、人々が一斉に出口に向かう。警備員は壊れたラジオのように、『落ち着いてください、落ち着いてください』と繰り返すだけで全く役に立たない。
阿鼻叫喚なこの空間にマイクの音声が響く。
「うるせェんだよ、お前ら。人が死んだぐらいでピーピー喚くんじゃねェ! 声帯掻っ切るぞ!」
僕は声の主を探す。するとそれはステージに立っていた。中指を立てて、この場にいる人間を口汚く罵る。
夜目の利く僕はその声の主の姿を認知した。二十代前半ぐらいの男性で、身長は高く、筋肉もある。マリーゴールドのような橙色の髪はアシンメトリーに短く切られている。耳には大きな穴がいくつも空いており、小ぶりなピアスも無数に付けている。黒のノースリーブ、ハーフパンツというラフな格好だ。
そして左目の下に[Hod]という文字が印されている。
──セフィラだ。
「俺の目的はただ一つ、そこの嬢ちゃんの首が奪えればそれでいいんだよ。だからさっさと素直に寄越せ!」
ホドは声を荒げて言う。すると僕の目の前の床から巨人のように大きな手が植物のように生えてきた。手は僕の頭を掴もうと襲いかかるが、僕はそれを仰け反って回避した。
同時に血のように赤い棘が地面から突き出し、大きな手に刺さる。これによって動きは封じられた。
「僕が一体、何したって言うんだ!」
「ンなもん、レオン様の命令だからに決まってんだろ! お前の首を持ち帰らねェと俺が殺されるんだ!」
今度は僕の背後から腕が突き出した。それも軽く避け、僕はステージの方へ駆け出した。忍ばせたナイフを取り出し、吸血鬼の首を落とすために握りしめる。
するとシェリルが僕の腕を掴んで止めた。
「さっきの揺れの原因が気になるから、あなたは操縦室に向かって。あのセフィラは私たちでなんとかするから──」
「逃がさねェよ!」
ホドは大きく手を振り上げた。すると僕とシェリルを囲い込むように手が生え、纏めて仕留めようとと手を花弁のようにし、蕾の形に包み込もうとする。──だがそれは叶わなかった。
黄金色の短剣が数本飛んできて、指、手、手首、前腕、という順に輪切りにして切断していった。
僕たちとは少し離れたところでアンジェラが操り人形を操るように指先を動かしている。
「シェリルには指一本触れさせませんよ」
アンジェラは威圧的な声で言った。静寂な殺気を身に纏い、指を動かす。短剣は無線操縦の飛行機のように、ホドの首に一直線に飛んで行った。
「ほら、ね。大丈夫よ」
シェリルは僕を非常口のほうへと押した。
床から手が生え、僕を捕らえようとするが、それらはすべて空を切った。同時に赤い棘も生え、ことごとくその動きは封じられていった。
「──クソったれ! ホロコーストどもが!」
狙いは僕からアンジェラやレイチェルに移行した。まるで僕のことは眼中にないようだ。
僕は指示通りに非常口の扉を蹴破って下の操縦室を目指した。
非常灯の心もとない明かりで照らされた薄暗い階段を下り、明かりの消えた真っ暗な廊下を駆ける。
足をちぎれそうなほど、ひたすら前に持っていく。地面を蹴って、推進力にする。
馬鹿でかい飛行船はどれほど進んでも目的地に着きやしない。それでも僕は疾走する。
任務開始前に見た、この飛行船の見取り図を思い出す。操縦室は最下層のはずだ。しかしここで一つの問題が浮上する。操縦室がある最下層に行くには、施錠された扉を開けなければならない。
当然ながら僕はそれを開ける術を持ち合わせていない。なので僕は最下層近くの搬入口に訪れた。高く積まれた木箱のから手近なロープを見つけ出し、頑丈そうな柱と自分の体にくくり付けた。そしてもう一本ロープを用意し、先端に金属製の重りを付けた。
手順を踏めば搬入口を開けることは容易だった。
開けるとそこから船内の空気が一気に吸い出されていく。掃除機に吸われる塵の気持ちを味わえた。
そして僕は飛び降りた。夜空を舞う魔法使いにでもなったようで、非常に痛快だった。
最下層付近まで下りてくると、僕は用意しておいたもう一本のロープの重りの部分を持ち、最下層にある窓めがけて投擲した。小さなヒビが入るだけで割れなかった。
──ならば割れるまで繰り返すまでだ。
僕は重りを手繰り寄せ、体を振り子のように動かして窓へと接近した。そして重りでガラスを殴った。
五回もぶつければガラスは放射状にヒビが入り、耐久力はないに等しい状態になり、僕は重りを捨てて体当たりした。当たる直前に体を捻って背中でガラスを割り、部屋に転がり込んだ。
床に粉々になったガラス片が散らばった。それが月明かりに照らされて、一つ一つがダイヤモンドのように輝く。
背中の痛みを堪えて起き上がると、すぐさま体に縛ったロープをほどき、操縦室へと走り出した。
飛行船の前方にある重厚感のある扉を蹴破った。
操縦室は霊安室のような不吉な静寂に包まれていた。飛行船関係者の制服を着た人間は例外なく眠っている。
前方にはいかにも難しそうな機械が腰ほどの高さで並んでおり、画面に『自動操縦機能作動』という文字が赤色で表示されていた。
そこに一人、異質な存在がいた。
ヴァイオレットの色でマッシュルームを彷彿とさせる髪型をした僕よりも小さな男性が立っていた。
──吸血鬼だ。
吸血鬼は窓から外を眺めていたが、ゆっくりとこちらに振り返り、髪の毛と同色の瞳が僕を見据えて、
「貴方を待っていましたよ」
と絶対零度よりも冷たい声で言った。
齢は二十二、三ぐらいだろうか。病弱そうな痩身は皺一つない清潔なワイシャツと襟のないベストに包まれている。ループタイを付けており、埋め込まれたアメジストが胸元で煌めく。
左目の下には[Yesod]という文字が印されている。
「僕は第九のセフィラ、イェソドです。以後お見知り置きを」
と言って一礼した。
こちらにもセフィラがいたとは──。
「ここで何をしている?」
僕は懐に忍ばせていたナイフを取り出し、イェソドに向けた。それを見たイェソドはくつくつと笑った。
「そのような玩具で僕を殺そうとしているのですか? ──甚だ滑稽なお嬢さんですね」
蔑視した目つきで、
「ところで僕と一つ、取引をしませんか? 貴方が大人しく僕に付いてきていただければ、この飛行船は墜落させません。逆に、抗うようでしたら──」
と言い、一呼吸置いて、
「──貴方を拐かします。そしてこの飛行船を墜落させます」
と続けた。
「さあ、どちらにしますか?」
死神のような冷淡さの混じった笑みを浮かべ、実質一択の二択を迫った。
「戦って死ぬか、戦わずに死ぬかの二択、当然前者を選ばせてもらうよ!」
僕は姿勢を肉食動物のように低くして力強く床を蹴ると、イェソドとの間合いを詰めた。そしてナイフを眼球に突き刺そうと振り下ろす──。
「まったく、頭の弱いお嬢さんだ。……精々、死なないように犯人を捜すことですね」
僕の意識は途切れた。
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