52_入院観戦
いつ憧れ、夢見たか、はっきりとは覚えていない。ただ物心ついた頃には将来の夢になっていた。
音楽で人を感動させたい、楽器を弾いて生活したい。
小学校の卒業文集にも堂々と書いた。口だけじゃなく実現に向けて努力もした。そして幸運にも叶えるチャンスをつかめた。
本当に恵まれていたと思う。
「考えを改める気はないのか?」
デスクの上で手を組む男性と対峙する。私が所属しているオーケストラの団長だ。チームワークを重んじる性格で団員からの信頼も厚い。私は立っているため、若干見下ろす形になる。
「はい、もう決めたことですから」
悩みはしなかったが、その代わりとても苦しんだ。
「本当に人間関係や環境、給与面が原因じゃないのか? もしそれが原因なら俺も改善に協力するぞ」
「いえ、原因は先程述べた通りです。団員や給与等に不満は一切ありません。日本でも有数の恵まれた環境だと考えます」
団長がじっと僕を見つめる。指揮棒を振っている時の豊かな表情は影を潜めていた。
「より良い演奏を目指してプロの楽団員、手前味噌で悪いが国内でも一番レベルの高いうちの楽団を選んだろ? 楽団員だけで生活できるってのも一因かもしれないが」
団長の言う通りこの楽団は演奏の面でも環境の面でも非常に充実している。団員もずば抜けた才能の持ち主ばかりだ。本当に。
「この楽団に入ったことを後悔しているか?」
「いいえ、していません」
結末は残念だったが、選択に悔いはない。何度人生をやり直してもこのオーケストラを選ぶに違いない。
室内から物音が消える。私から口を開くつもりはなかった。
「音楽で人を感動させるのが夢だって言ってたよな」
「はい。気づいた時には夢見てました」
私がかつて抱いていた気持ち。
「もう、夢はいいのか?」
「………はい」
「そうか」
団長はそれ以上追及しなかった。
「手続きがあるから明日印鑑を持ってきてくれ。退団までの間、練習には参加してもしなくてもいい」
団長が椅子から立ち上がる。目線が揃う。
「急な申し出で申し訳ありません。手続きのほどよろしくお願いします」
浅く礼をする。
明日、団員に別れの挨拶を済ませたら、最後にホールに寄ろう。誰も居ない時間に行って、これまでの感謝と未来への謝罪をしよう。
そして、二度と来ないと誓おう。
「君のヴァイオリン、好きだったんだがな」
団長は残念そうに述べた。
「ありがとうございます」
自分すら救えない音楽など、私は嫌いだ。
□
右か? 右がジョーカーか?
試しに向かって右のトランプに指を動かす。
となると。
次は指を左へスライドさせる。晴人の顔がみるみる険しくなる。もう一度右のトランプへ指を移す。晴人に明かりが灯る。
左へ、顔が曇る。
右、目が大きく開く。
左、口を真一文字に結ぶ。
嬉しそう、辛そう。
良いことでもあったか? 腹でも痛いのか?
左右に指を移動させるたび晴人の表情が明滅した。
右だ。右がジョーカーだ。
三人で始めたババ抜きは最終局面を迎えている。俺の手持ちはスペードのジャック。晴人の手札は残り二枚。確率上は二分の一であがることが出来る。
しかし、晴人の癖のおかげで左右どっちがジョーカーかは一目瞭然。だから、実質百パーセントの確率で俺はあがりを勝ち取れる。
「
左から一番にあがった垣峰さんが急かす。俺と同じ丸椅子に座っている。
「今引きますよ。じゃあ晴人、いくぞ」
右手で右側のトランプを摘まむ。晴人の顔に明かりが灯る。
恐らく垣峰さんも晴人の反応からジョーカーの在処を知っており、その上で右側を勧めてきたのだろう。晴人を勝たせてやれ、と。
だが、勝負の世界は甘くない。
弱肉強食のサバンナや海千山千が
「俺の勝ちだ!」
一瞬で右から左へ指をずらし、トランプを引き抜いて天高く掲げる。くるんとトランプを回し隠されていた表面を見る。
ハートのジャックが勇ましく剣を構えていた。
勝った。楽勝だった。
「うわー! 負けちゃた! みんなババ抜き強いよー」
晴人が最後まで残ったジョーカーを捨て場に置いた。二本の角が生えた頭巾を被った道化が、敗者をあざ笑うかのように白い歯をむき出しにしている。
今日の晴人のババ抜きの戦績は三戦全敗。
いじけないだけ偉いもんだ。
「俺達が強いんじゃなくて晴人が簡単にしてるんだよ。お前、自分の手札をすぐ表情にだすからどっちがジョーカーか丸わかりだ。手札をオープンにしてるのと変わらない。勝負事はポーカーフェイスが基本だ」
と教えてやってもいいのだが
「ほっといた方が面白いし微笑ましい」
が勝ってしまいずっと言わずにいる。
こんな大人になっちゃダメだぞ、晴人。
ちなみに、この晴人の心情発露の癖はババ抜き以外にじじ抜きや七並べでも顕現する。
「もう一回やろう! もう一回!」
晴人はトランプをまとめ、新しい山札を作った。
「別にいいけどよ、どうせなら別なルールで遊ばないか?『お金』とか『豚の尻尾』とか」
さりげなく手札のないゲームを提案し、晴人敗北確定ルートからの切り替えを図る。勝ちを譲る気はないが、あまり負かすのも気の毒だ。自己肯定感の低下につながるやも知れない。
「やだ。ババ抜きがいい。それかじじ抜き」
晴人は口をへの字にしている。
晴人、それどっちを選んでも未来は同じだぞ。
「晴人ー今日はサッカーの試合見るんじゃなかったか? まだ時間あるのか?」
垣峰さんが腕時計を見ながら言った。そういえば「サッカーが始まるまでトランプしよう」と晴人から誘われたんだっけ。
「わ! もう始まってる!」
枕もとの時計を見て晴人は驚いた。時刻は午後二時、土曜の昼下がりだ。
急がなきゃ急がなきゃ、と晴人はトランプを専用の箱に仕舞うと、リモコンでテレビを点けた。リモコンは俺の家のものと同じ型だった。
音もラグもなくテレビに番組が表示される。
料理番組、クイズ番組、田舎に泊まる番組と三回のザッピングを経て、画面に緑を主とした映像が映し出された。
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