第6章2

 足音が間近で止まる。

 なんとか起き上がろうとするが、途端に誰かが私の身体の上に跨ってくる。

「ハァハァ・・お前は・・悪い奴だッ」

 声の主は歌敷兄だった。

「フゥ、ハハッだから罰を与えてやる。俺がっ!」

 カチャカチャとベルトを外している音がする。歌敷兄は馬乗りの状態のまま、荒い息を吐く顔をこちらに近づけてくる。


「ウゥ・・・グス・・ゥ・・」

 悔しさと痛みのあまり、涙が滲み出る。

 腕を振り回し必死に抵抗を試みたが、すぐに押さえつけられてしまう。

 

「全部知ってるんだぞ。お前らの悪行をゥ!」

 この男は一体、何の話をしているんだろう?おそらく歌敷さんについての事を言っているのだろうが、悪行なんてまるで身に覚えががなかった。

歌敷兄の手が私のシャツを掴んだ。


「・・やめて・・・お願い」

 まともに呼吸が出来なかったが、なんとか声を絞り出して懇願する。

 しかし、歌敷兄の手が止まることはなかった。力任せに引っ張られてシャツのボ

タンが弾け飛んだ。

 悔しさのあまりポロポロと涙が止めどなく頬を流れ落ちた。


「オオオゥゥッ、ヒッヒッヒ」

 歌敷兄には微塵も罪悪感が感じていないようで、意味不明な歓喜と勝利の雄叫

びを挙げる。その姿はまごうことなく獣だった。

その獣に今から私は蹂躙されるのだ。

(その獣に私は蹂躙されるんだ)


 胸の内に絶望の波が押し寄せ、あっという間に心を埋め尽くされてしまう。

 目をギュッと瞑り、歯を食いしばる。

(何も見るな、何も聞くな、何も言うな、何も感じるな、ただ石のようにジッと耐えていれば、いずれは終わるはずだ……終わるはずだから‥)


 歌敷兄の身体がこちらへと覆い被さり、荒い息を吐く顔が間近に迫った。


「父さん、母さん、誰か、助けて」

 

「グルルァァァーーー‼」

 次の瞬間、これまで耳にしたこともないような恐ろしい咆哮が上がる。

 耳をつんざくような獰猛で強烈な咆哮は一瞬で私の真上を駆け抜けていく。

 それと同時に、今まで私の身体を押さえつけていた力が解ける。

 後方で、何か大きな物が草むらの坂をゴロゴロと転がり落ちていく音がした。


 「……え、なに?」

 周囲の様子に目を凝らすが、眼鏡のない状態では状況を把握することができない。

 「う、うわぁーなんだコイツ、やめろどけ、どけよ!」

 離れた場所からは、歌敷兄の悲鳴と獣らしき何かの唸り声が喧騒に入り混じって聴こえてくる。

 「何が、一体どうなったてるの…?」

 意識はまだ混濁としていたが、それでも歌敷兄の脅威から逃れられたことだけは確かだった。

 

 なんとか起き上がると、痛みを堪えつつ、崖を登り始める。

 しかし、不安定な山肌の崖を視界の悪い状態で登るのは困難だった。

 なんとかコツを掴み、すこしづつ登れ始めたその時、先ほどまで後方で争っていた喧騒の音が既に聴こえなくなっている事に気がつく。

 (嘘、嘘でしょ…)

 焦る気持ちを抑えることが出来ず、闇雲に登り始める。

 すると、後方から、こちらへと近づいてくる足音に気がつく。

 半ばパニックになっていると、堅い石に手を掛けた途端、その石は地面から剥がれ落ち、身体は支えを失いズルズルと転げ落ちてしまう。

 

 悲鳴を上げる間もなく滑り落ちていく私の身体は、ちょうど真下に居た誰かにぶつかって止まる。

「おっと」

 咄嗟に声を発した誰かは、体勢を崩す事もなく私の身体を受け止める。

「放して、放しなさい!」

 掴まれていたが、何故か腕は自由だったため、両腕を振り回して抵抗する。

 しかし後ろの男は全くこちらを放す気配がなかった。


「お、落ち着いて」

 だが、その程度の事は百も承知だった。こちらは命の危機に瀕しているのだから、どんな事をしたとしてもそれは正当防衛というもの。

 女の自分にやれる事は限られていたが、それでも男の弱点くらいは心得ている。


「このっ‼」

 後ろにいる男の体の位置に予想をつけ、股間へ向けて一直線に手を伸ばす。

そして相手の股間を力の限り思いっきり握り締めてやった。

「キュゥゥゥーー⁉」

 とても人には言えない痴漢の撃退方ではあったが、効果は抜群だった。

 

 しかし、それでも後ろの男はこちらを放そうとはしなかった。

「…ん?」

 何だか違和感を覚える。

「あれ?」

 さきほどから私の身体は拘束されているわけではなかった。

 坂から転げ落ちているところを受け止められただけだった。

 しかも、後ろにいる男は今もこうして痛みを堪えて自分を支えてくれている。

「もしかして・・・」

 考えれば考えるほど、後ろにいる人物は歌敷兄とはかけ離れていた。

「あなたは…誰ですか?」

「良かった。斎藤さんが無事みたいで」

 全身に衝撃が走る。

 

 (ああ、どうして気づかなかったんだ)

「もしかしなくても姫守君だよね?なんでこんなところに?いや、そんな事よりもさっきそこに…」

 「あの、斉藤さん…」

 矢継ぎ早に質問を投げ掛ける私を姫守君の声が制止した。

「はい⁉」

「その、…できればまず放して欲しいんだけど」

 何を?と言いそうになったところで、今迄自分が姫守君の股間をずっと鷲掴

みにしていたことに気づく。気づいてしまう。

「ごごごめんなさい!」

 すぐに手を放すが、その手にはまだ握っていた時の感触が生々しく残っていた。


 ついさっき自分の身に起きた事を説明する。前後がバラバラでとても説明にはなっていなかったが、私のそんな姿を見た姫守君はこちらを安心させるように優しく頭を撫でてくれる。


「もう大丈夫だから」

 頭に乗せられた手はとても暖かく、ポカポカしていた。

「ありがとう・・・その・・もう落ち着いてきたから・・」

 次第に普段の冷静さを取り戻してくると、途端になんだか気恥ずかしくなる。


「さっきの、歌敷さんの兄はどうなったの?」

「ごめん。それが追い払っただけで、何処かへ逃げてしまったんだ」

 小柄な姫守君が、ひと回りも大きい歌敷兄を追い払ったのは驚きだった。

「そんな事ないわ。おかげでこうして助かったんだもの。姫守君にはなんてお礼を言えばいいのか。…その、失礼だけど、姫守君てもっと華奢な子をイメージだったわ」

「こう見えて結構丈夫なんだよ」

「そうみたいね。あ、そういえば助けに来てくれたのは姫守君だけ?さっき

助けられた時になにか動物の声のような物を聴いた気がしたんだけど。なにか

近くにいないかしら?」

「う~ん、それらしい物はないよ?」

姫守君は辺りを見廻してくれたが、それらしい姿はなかった。

「それよりも斎藤さん、身体のほうは大丈夫なんですか?」


 言われて自分の身体を確認してみる。手足に擦り傷や打ち身が何ヶ所か出来ており、それ以外には背中や腰に動くたびにズキズキと痛む箇所がいくつかあった。

 ただ、身体の負傷よりも辛かったのは、大切にしていた眼鏡を失くしてしまったことだった。入学祝いに家族からプレゼントされたもので、まだ使い始めたばかりだが、お気に入りの物だった。


「身体のほうはすこし痛むくらいだから大したことはないと思う。それより姫守君、この近くに眼鏡は落ちてたりしなかっな?」

「眼鏡?あ、斎藤さんがいつもしていた物だね。ちょっと待ってて」

 姫守君は離れて行くが、すぐに戻ってくる。

「はい、斉藤さん」

 姫守君が手渡してくれたものを受け取る。手触りからそれが自分の大切にしていた眼鏡だとすぐにわかった。早速、受け取った眼鏡を掛けてみる。

 幸運なことにフレームに摺った後があるくらいで、目立った損傷は見られなかった。

「ありがとう姫守君。うん、問題なく使えそう」

「大切なものなんだね」

「うん。入学祝いに両親に買ってもらった物なの。母さんと二人で二時間近く掛けて、悩みに悩んで選んだ物だから。その間、父さんは待ち疲れて椅子で寝ちゃってた」

 お互いにクスクスと笑い合う。

 あんな事があった後だというのに、不思議と心は既に落ち着きを取り戻していた。


















 












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