第6章1
「また明日か…」
歌敷さんを乗せたパトカーが見えなくなると、スマホを開いて時刻を確認する。
時刻は午後三時頃。
いつもなら運動部がグラウンドに集まり、ストレッチやランニングを始めている頃だったが、騒ぎのためグラウンドはもちろん、校舎からも一斉に生徒の姿が消えてしまったためひどく殺風景な光景だった。
おそらく、今頃は職員会議で教師達が今後の方針について、あれこれ揉めていることだろう。その決定如何によっては歌敷さんの今後の学校生活も大きく変ってしまう。
「どうしてこう上手くいかないのかしら…」
事態が好転すると思った矢先にこれである。
そもそも自分が歌敷さんの手助けをすると決めた発端は、あの転校生の出現が要因だった。
まだ二日足らずではあったが、転校生の人となりを窺っていると、いじめに同調したり、周囲に流されるような所はなく、逆にクラス全体の雰囲気を一新してくれるようなそんな不思議な魅力を感じさせた。
もしかしたら彼なら、このクラスを変えてくれるかもしれない。自分には到底出来ないとしても。
「いつになったら平穏な学校生活が送れるのかしら」
教室へ戻ってみるが、案の定、姫守君の席にはさきほどと変らず彼の鞄が下げられたままであった。
「ほんと、何処に行ったのかしら?」
しばらく待ってみるかと、隣の歌敷さんの席に腰を下ろす。
教科書を開いてから、20分ほどが経った。
時間の有効利用のつもりで始めた事だったが、すでに教科書の内容はほとんど頭に入って来なかった。
原因はこの教室にあった。最初は気にもとめていなかったが、次第に誰もいないこの教室の静寂に居辛さ感じてしまう。朝の教室とは違い、夕方の教室というのはどうしてこう心の不安を掻き立ててくるのだろう。
「姫守君には申し訳ないけど、もう帰ろうかしら」
あきらめて席を立とうとした時、遠くの方で何か物が転げ落ちたような音がする。
「なにっ?」
驚いて席から立ち上がる。
そのまま耳をすませてみるが、他にはなにも音は聴こえなかった。
音を立てないようゆっくりと扉を開けると、廊下に顔を覗かせてみるが、特に変わった様子はなく、ただ人気が失せて不気味なほど静まり返った長い廊下は得体のしれないモノが潜んでいるようで気味が悪かった。
「あの音からして…トイレ?」
用具入れのバケツでも落ちたのかもしれない。確認に行く気は毛頭ないが。
自分の鞄をひったくると、もう一度廊下を確認してから音を立てないようにゆっくりと教室から出る。
廊下を進み階段の前までやってくると、5メートルほど先にある男子トイレと女子トイレの扉が見えた。どちらのトイレからかは判らなかったが、トイレの中からキィキィとドアの軋む音が聴こえる。
一目散に階段へ向かうと、一気に階段を駆け下りていき、最後の数段は飛び降りて着地する。
そのまま全速力で校門まで一気に走りぬける。
「ふぅ、熱い・・・」
いつもならクーラーの効いた快適な部屋で、のんびりと過ごしている時間でだった。それが無駄な時間を費やしたばかりか、物音に怯えて校舎から逃げてきたなんて、とても人には言えなかった。
「こんな事なら私も途中まで乗せてもらえば良かった」
校門を出てからなだらかな一本道を越え、車道に面したT字路に出る。
歩道側に設置された古びたバス停の時刻表を確認すると、ちょうどバスが行ってしまった後で、次のバスまではあと30分とあった。
周囲にある日陰になりそうな場所は、歩道脇にある木の下だけだったが、そこには膝上の高さまで伸びた草が生い茂っていた。そんな所で30分もバスを待つなんて、どう考えてもありえない。
以前、帰りのバスの降車時、財布を取り出そうとした際に、制服の袖に緑の昆虫が止まっていた事があった。あの時はあまりに突然のに多少取り乱してしまった。ただそれだけの事だというのに、車内では酷い辱めをうけた。
「あんなクスクス笑うことないじゃない。常識ってものがないのかしら」
仕方がないので、バスは諦めて徒歩で帰る方を選択する。
炎天下の中、傾斜のある山道を歩き続ける。汗が滝のように吹き出したが、ハンカチで汗を拭き取るのもいいかげん面倒になってきた。
道の所々には歩道側にまで草木が蔓延り、道幅が半分以下にまで狭くなっている箇所があった。伸びた草を避けつつ歩いていると、蔦や葉がたまに足に触れると、その度に身体が反応してゾクッっとなる。
ここはバス道ではあったが、同時に山道でもあったため、近隣にはほとんど住居はなく、歩道を利用する者も稀だったため、市は伸びてきた草木を駆除する業者を呼ばず、何年も放置された結果がこれである。
ちょうど大きくカーブした曲道に差し掛かった時である。
右手の生い茂った草むらをガサガサッと掻き分ける音が聴こえる。
野良猫か猪だろうか?猪は実際に見たことはなかったが、地元のニュースで付近の住宅地に侵入してきたという報道なら以前に視たことがあった。
パンッパンッと手を叩いてみる。
野生動物であれば、人間がいる事を報せてやれば、怯えてすぐにどこかへ行ってくれるだろう。
しかし、野生動物と思しきそれは、怯えて逃げるどころか次第にこちらへと近づいてくる。
「瓜坊かな?」
とにかく虫でなければ怖くはなかった。多少の好奇心から草むらを覗き込もうとしした瞬間だった。
突如、草むらを掻き分けて音の元凶が目の前に現れる。
叩いていた手が止まる。
それは野良猫でもなければ猪でもなかった。
そこには歌敷兄が立っていた。
木々の間、ちょうど木陰になった薄暗い草むらの奥から、こちらを睨みつけていた。その瞳の奥には、こちらへの明確な敵意が渦を巻いていた。
歌敷兄は草むらを乱暴に掻き分けながら、こちらへと迫ってくる。
「ヒッッ」
喉の奥から悲鳴と呻き声の入り混じった声が漏れる。
ここでジッとしていてはいけないと本能が警鐘を鳴らしていた。
踵を返すと、全力で走り始める。足が震えるせいで何度ももつれそうになるが、そんなことを気にしている余裕がなかった。もしも、あの男に捕まれば一体どんな仕打ちが待っているか、考えるのさえ恐ろしかった。
自分の吐く息に混じって、歌敷兄の荒い息遣いがこちらに迫ってくるのが分かった。まるで涎を垂らした獰猛な獣に追われているように錯覚する。
「やだっやだっ、誰かっ!」
必死に走りながらも、誰か助けになる人はいないかと辺りに目を凝らすが、元々人の往来が少ない場所のため人の姿はなく、折り悪く、車すら通っていなかった。
周囲に気を取られていると、肩に強い痛みが走る。歌敷兄の手が肩に食い込む。
「痛い!やめて、嫌っ!」
懸命に振り払おうと、上体を大きく捻る。肩を掴んでいた手は放れたが、勢いの付いた体はバランスを失ってしまい、体勢を崩して歩道側のガードレールに衝突するが、それでもなお勢いの残っていた身体はそのまま車道へと投げ出されてしまう。
アスファルトの地面に強かに倒れ込む。
意識は朦朧としていたが、それでも自分の本能は依然として警鐘を鳴らし続けていた。
「逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ…」
痛みを感じていなかった足は、しかし思うように動かず、ふらふらと頼りない足取りで車道を横切る。
息を切らせながらも、なんとか反対側のカードレールまで辿り着くと、身体を持ち上げてガードレールを乗り越える。ガードレールを越えた先は山肌がむき出しになった急斜面の崖だった。
自分の足の速さでは逃げ切れないと踏んでこちら側へ来たが、想像していた以上の光景に足がすくむ。
後ろを振り返ると、歌敷兄は車道側まで来ていた。
躊躇っている時間はなかった。
所々に生えた雑草や木の根をロープ代わりに慎重に崖を下りていく。
「はぁはぁ…」
足場になる場所は乏しく、すこしでも気を抜くとそのまま滑り落ちてしまいそうだ。
頭上を見上げると、ちょうど崖の上にいた歌敷兄がこちらを不敵に見下ろしていた。その表情はさきほどまでの睨みつけるそれではなく、すでに勝利を確信したのかのように不気味な笑みを浮かべていた。
その時、頭上の歌敷兄に気を取られていたため、足を滑らせてしまう。
「きゃあっ?!」
体勢が崩れた体はそのまま坂を転げ落ちていく。視界はグルグル回転して、もはや上下の感覚はなく、どうか早く止まってと、ただそれだけを必死に祈る。
ゴロゴロと転げ落ちる体がようやく止まる。
「うう・・・いたっ!」
強かに打ち付けた身体はあちこちがズキズキと痛んだ。
自分が落ちてきた場所を確認しようとするが、そこで異変に気がつく。
「嘘でしょ・・・」
最初、視界がぼやけているのは、転げ落ちたショックによるものだと思っていたが、そうではなかった。顔に触れてみる。そこにいつも付けているはずの眼鏡が失くなっていた。
縋るような思いで、周囲を手探りで探すが見つからない。
こちらへ近づいてくる足音が聴こえる。
足音が間近で止まる。
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