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「あっつぃ……」
「もうじき梅雨も終わって、いよいよ夏本番ってな感じだからねぇ」
「そんな無駄話してる暇はないんですから。私、待ち合わせ時間あるから先行ってますよ」
そういって、沙華さんは汗を拭いつつも先をゆく。
七月末。少し長めだった梅雨の終わりに突き刺さるような日差しが降り注ぎ、この先の酷暑を予感させる昼下がりの暑さの中で、リクルートスーツを着込んだ沙華さんの姿は見ているだけでこっちまで熱くなるような錯覚に陥りそうになる。
そう、私は、いや、私達は、もうすぐ本格的に訪れる夏の匂いをたっぷり含んだ灼熱のビル風吹きつける赤坂見附駅へと再び降り立ったのだった。
事の発端は、二週間前、沙華さんの後輩たちが帰った後の店内での出来事。
「頼むよ!沙華ちゃん!これしかもうないんだ!」
「頭あげて下さいよ。まだ床掃除してないんですから……」
「いやだ!沙華ちゃんがいいというまで土下座を辞めない!」
プライドなんかかなぐり捨てていなければできないほど鮮やかな身のこなしで華麗な土下座を沙華さんにお見舞いしている谷川さん。
そしてとりつく様子もなくそんな事をお構い無しに谷川さんの周りをモップ掛けする沙華さんはどこか憂鬱そうに見えた。
「大体、谷川さんはいっつも突拍子もないような事言ってくるんですから。どうせ今回も、ろくでもない事でも企んでるんでしょ……」
「今回は俺の為より、藤乃ちゃんの為なんだ!頼むよ!沙華ちゃん」
メトロノームの様に同じリズムで床を左右にこすっていたモップの動きが止まった。
「まぁ、話だけなら……」
「ほんと!いやあ。助かるよ!」
「まだ話だけしか聞きません。それに、谷川さんのためじゃなくて藤乃ちゃんのためですから」
こうして、沙華さんと私は、裏取りの最後の賭けにしては心許ない作戦の内容を谷川さんから聞く事になり、渋々納得した私達は、いささか不安に思いつつも決行することになったのだった。
「にしてもほんとに上手くいくんですかね。OB訪問を装って裏取りなんて」
私達の先を行く暑そうなジャケットまで羽織った沙華さんの後をつける最中、いつも通り気の抜けた表情でどこから出したかわからない扇子を煽る谷川さんに話を振ってみる。
「大丈夫大丈夫。沙華ちゃんはあくまで囮。あとは僕と君がうまいとこ座席をふさげば逃げ場はない!」
「仮に、そこで詰めたとしてもほんとの事を言うとは限らないじゃないですか。あの人相当頭の回転早いですよ?多分」
「大丈夫!藤乃ちゃんなら嘘言ってるかどうか分かるんでしょ?人の心が分かっちゃうんでしょ?」
「それは、まぁ……」
なぜか私が責任重大とでも遠回しに言いたげな言い様だ。こういうところが大人ってほんと汚いと思う。谷川さんは特別その気が強いけど。
仮にも自分が考えた手段だろうに、それに乗った私達も私達なのは言うまでもないが。
これは失敗したら、思った以上に私に責任を被るようになりそうだ。と陰鬱な気持ちが先行しつつも、ここまで来たならやるしかないと心を決めて、沙華さんを見失わないように後を付けるのだった。
赤坂見附駅から溜池山王駅方面へ、私には恐らく一生関係ないように思っていた綺麗なオフィスビルや、おしゃれなカフェ、高そうな飲食店が脇を固める外堀通りの道を行く。
暑さで額に汗が浮かぶのを拭うのも面倒になるほどに暑い。日の当たらない所でコソコソ生きている私には、アスファルトの照り返しすら過酷な環境だ。
「あっつい……」
何度目かわからない呟きが口からこぼれ落ちる。
「そいや、藤乃ちゃんはどうしてこの件探ってたの?」
私との間合いを探るような問いかけ。別に今更こんな探り合いをするような間柄でもないだろうに。意図が読めない。
「私はただ……。ほんとの事を知りたいだけです。谷川さんこそどうして、沙華さんにあんだけ頭下げてまで必死になれるんですか?」
「まぁ、頭下げるくらいなら腐るほどしてるけど、なんでだろうね……。けど、僕がもしこれを握りつぶしたら、自分のジャーナリズムの全てを否定しているような気がするだけ」
結局お互いに肝心な事はぼかして、会話は切れる。
私にも言いたくない事があるように、谷川さんにも言いたくない事があるのだろう。私のような秘密と後ろめたいものをたくさん抱えているような人は別としても、だれしも人に言えない事の一つや二つあるのが普通だと思う。
だから、きっと今の質問に対になる答えは、きっと互いに人に言えない事の一つだった。それだけの事。
谷川さんには谷川さんのジャーナリズムとやらの為に調べているみたいだし、さらに余計な事を言ってしまうのも気が引ける。
となれば、所謂ビジネスライクなお付き合い。
というのが、お互いの為だとそう思うことにするのが賢い選択というものだろう。
「あ、沙華ちゃんが曲がった」
谷川さんの声にふらふらと彷徨っていた視線を前へ向けると沙華さんは大通りから、スマートフォンの画面を注視しながら脇道へと曲がるところだった。
私達は、適度な距離を保って沙華さんのあとを行く。
先程とは違い、大衆居酒屋や、定食屋、こじゃれた専門店なんかが脇を固めていて、ここら辺りの勤め人達の胃袋を満たしているような光景へと変わっていた。
昼時が終わり、サラリーマンやOLさん達が大通りの方へゆく流れに逆行するように歩いていた沙華さんの足が年季の入った喫茶店の前で止まる。
どうやら、この喫茶店で会う予定のようだった。
「どうします?」
「そうだね、とりあえず離れてみてようか。ここでばったり会うと厄介だしね」
「ですね」と、吸うところを見たことが無い煙草を取り出して、慣れていないことが丸わかりの手つきで煙草に火をつけている谷川さんに相槌を打つ。
そして、鞄からハンカチを出して額を拭う沙華さんを、道一本挟んだ煙草屋の自販機の前で遠目に見る。
ほんと沙華さんには感謝だ。
私には私の、谷川さんには谷川さんの目的がある。
けれど、沙華さんには今回の事に関わるメリットが全くない。それなのに、藤乃ちゃんの為なら。なんてかっこいい台詞で承諾してくれた。
普段お店で私が沙華さんにいい様に弄ばれている甲斐があったというものだ。
曰く、「藤乃ちゃんは露骨に恥ずかしがってくれるからやりがいがある」
との事だが、それでも今は、私の為になんて言っても怪しまれない様にリクルートスーツまで着込んで協力してくれる沙華さんには、こんど改めてお礼を言うつもりだ。
沙華さんは、「そんな事言うくらいならこれを着て!」とかなんとか言って、着せ替え人形にされるのがいいところだとは思うけど。
今回は甘んじて受け入れるようにしよう。
「あ、沙華ちゃんが動く」
先程からほとんど吸っていない煙草を灰皿へ放り込み、向かいの通りの沙華さんに注目する谷川さんにつられて、私も注目する。
春先の雨の降っていたあの時以来だが、アップにセットした髪に遠目で見てもおろしたてだとわかる張りのワイシャツとスラックス、光沢のある革靴の男性が沙華さんに向かって話かけていた。
「じゃあ、そろそろ行きますか」
「ですね」
少しばかり震える手をぎゅーっと握りこむ。
谷川さんは真新しい煙草の箱をためらいなくそのままゴミ箱に捨てた。
そして、私達は歩き出す。真実を確かめるために。
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