飢えた銀狼⑧
賢者の宝玉を発動させ、静かに紫色の魔力を身に纏うと、ガロゴラールは小さく溜め息を吐いた。
ダイダロスの森海の奥で、明確に自らへ敵意を向けてくる女の名はクレスティーナ・アレキサンダー。
本来は衝突する予定なかった相手で、彼からみれば旧来の知人ともいえる人物だ。
(血の気の多さは変わらないな)
激情の中にあるクレスティーナから、凄まじい速度で氷の烈波が押し寄せてくる。
国際魔術連盟会長ネルト・ハーンからの指示とはいえ、九賢人を強制的に全員招集するのような面倒な作業を任され、ガロゴラールは辟易としていた。
「《
この世界を支配する物理法則の一つ、重力に自分の魔力を乗せる。
ガロゴラールは見えない力を手繰り、迫りくる氷の大波を力任せに押しつぶした。
「相変わらずお前のその魔法、便利そうでいいわね」
砕け散った氷の破片が宙に舞う中、その向こう側からクレスティーナが飛びだし、拳を奮う。
ガロゴラールは姿勢よくその鉄拳を受け、続けざまに繰り出される蹴撃も脅威的な反射神経で捌いていく。
「思えば、お前とこうやってまともに戦うのは、初めてかもしれないわねっ!」
「そうだな。そもそも私とお前は戦う必要のない関係性にあるからな」
「だからこそ、燃えるってもんもあるでしょっ!」
「わからない感覚だな。共感はできない。ただ、お前の好戦的な気質は把握している。ゆえに理解は可能だ」
「その鬱陶しい言い回しができないくらいには、してあげるわよ!」
ガロゴラールにはわからない。
なぜ、クレスティーナが笑っているのか。
そもそも交戦する必要性はなく、さらに言えば、実力差に関しても、自らの方が上だとガロゴラールは冷静に理解している。
(無駄だ。何もかもが。だが、構わない。人とはそういう風にできている)
俯瞰的な思考の中で、諦めにも似た結論を抱きながらも、ガロゴラールはクレスティーナの動きを観察していた。
「《アイスモーク》」
冷たい波動が広がり、視界が白に埋め尽くされる。
冒険者上がりらしい、猫のように柔らかい身のこなしを見せていたクレスティーナの姿を見失い、ガロゴラールは多少の疑念を抱いた。
(目くらまし? 珍しいな。クレスティーナは戦術を緻密に考えるタイプではない。魔力任せに、大技を連撃し続けるタイプだ。それに至上の七振りも使ってこないな)
氷麗の三番目クレスティーナ・アレキサンダーが、至上の七振りと呼ばれる伝説的な武具を持っているというのは、賢人の中では共通認識だ。
技や力を出し惜しみするような人間ではないクレスティーナが、その武具を一切使う素振りを見せないのは、やや不可解なことだった。
(何か狙いがあるのか? 或いは、使えない事情がある? どういった種類のものかわからないが、クレスティーナ自身に何かしらの変化があったことは確からしい)
ガロゴラールは濃霧の中で、警戒に意識を集中しながら、次なる手を考えていた。
勝てない相手ではないとはいえ、相手は九賢人の一人。
全力を出し切らなければ、手痛い犠牲を払うことになるだろう。
「《アクラビュリンス》」
冷たい魔力の気配。
ガロゴラールは迷わず前に飛びだす。
すると、次の瞬間、もっと強力な魔力が蠢くのを感じた。
「来いよ、ハンニバル! 派手に凍らせてあげる! 《
曇った視界の先に微かに見えたのは、凄まじい勢いで顕現する灰色の魔力。
迷わずクレスティーナが発動させたのは、氷属性絶級魔法。
魔術師としての頂点に立った者だけが使うことを許された、致命の一撃。
触れるモノ全てを一度凍り付かせたら、クレスティーナの意思以外で溶けることのない絶対零度の波動を目の当たりにして、ガロゴラールもまた紫苑の魔力を解放させた。
「《魔力纏繞/
重力に魔力を上乗せし支配する、という単純な魔法。
このたった一種類の魔法で、ガロゴラールは九賢人という立場まで上り詰めた。
唯一無二にして、威力絶大な魔法。
人によっては、原石魔法の一種とすら呼ばれる彼だけの魔法で、ガロゴラールはクレスティーナの絶級を叩き潰そうとする。
「かかったな、ハンニバル。お前は強い。だからあたしも、お前の前じゃ、こういう戦い方もさせてもらうよ」
ガロゴラールの魔力の奔流によって、霧が晴れる。
その瞬間、眼前に迫りくる氷の波動を叩き潰しながら、ガロゴラールの視界の一端に、灰氷の輝きが映り込む。
「潰れるのは、お前の方だよハンニバル」
自らの頭上に、宙を埋め尽くすように広がっていたのは、巨大で分厚い氷の塊。
すでに重圧魔法は発動されてしまい、その効力によって自らの身体の上にあったその氷塊が、重力加速度に支配されて猛然と降り注いでくる。
(あの濃霧の間に、私の上にこれを用意したのか。つまり、絶級魔法をおとりに使ったということ。さらにいえば、この分厚い氷の塊も、無詠唱で生み出したということになる。無詠唱は魔力消費量が一階級上がるほど高度なもの。無尽蔵の魔力量と、豪快という言葉で言い表すには不十分なほどの思い切りのよい戦術。クレスティーナらしいな)
迫りくる氷の偶像は、まだ完全には破壊しきれていない。
しかし、このまま重力に魔力をかけ続ければ、頭上から猛然と自然落下してくる氷の塊に押し潰されてしまう。
その見事な絡め技に、ガロゴラールの口角は、ほんの微かに動く。
(久しいな。私が“楽しい”と、感じるのは)
“重圧の二番目”ガロゴラール・ハンニバルは、たしかに笑っていた。
緋色の瞳を爛々と輝かせ、純粋に、その“力”を扱うことに愉悦を感じている。
ただ、目の前の相手を、叩き潰す。
普段は、その理知的な内面の奥に隠されている破壊衝動を、クレスティーナ・アレキサンダーという強大な魔術師相手に、彼は剥き出しにする。
「……《魔力纏繞/
重力は、正確にいえば引力と遠心力と二つの力が掛け合わさっている。
その引力と遠心力の二つを支配し、効果を操れるガロゴラールには、少しその
この世界に存在する力には、全て方向が存在する。
力の増大だけでなく、方向も操る彼は、自らの保有する魔力の三分の二ほどを消費し、九賢人を一人潰すことにした。
「は? な、なにが――」
一瞬、全てが静止したかのような錯覚の中、クレスティーナは生きる世界の理が変化したのを感じ取った。
ふわりと、臓器が浮くような感覚。
戦慄に鳥肌が立つのと同時に、自らがガロゴラールに対して放ったはずの魔力が全て、自分の方を向くのを本能で悟る。
(私にはクレスティーナほどの魔力はない。これは机上の八番目は無理だな)
身体の内側から大量の魔力が消費される感覚に、ガロゴラールはこの日二度目の溜め息を吐く。
そして迫りくる氷の波動と、氷の塊が全て自らを中心に遠のいていく様を眺めながら、彼はこれから先の面倒事を想像し、ほんの暫しの間の微笑みを消し去るのだった。
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