夜明けの果てに



 昔々あるところに、何の取り柄もない一人の騎士がいました。

 しかし騎士には最愛の妻がいました。騎士はそれだけで十分でした。

 ところがある日その妻は死んでしまいます。騎士はとても悲しみました。

 

 悲しくて、悲しくて、すべてがどうでもよくなるほどに。

 

 やがて騎士は嘆きます。

 私には何の取り柄もない、あったのは最愛の妻だけだ。 

 その妻すら失くしてしまった。


 なぜだ。なぜ、私だけがこれほど苦しまねばならぬ、と。


 そして生きる意味すらわからなくなった騎士は、深い深い森へ向かいました。

 彼は誰もいないところへ行きたかったのです。

 

 あてもなく森の奥へ奥へと進んでいく騎士。

 すると、騎士はあるものを見つけます。

 それは、見たこともないほど美しい一人の巫女でした。

 騎士は語りかけます。どうしたんだい、美しい巫女よ。こんなところで。しかし巫女は瞳を閉じて横たわったまま答えません。

 騎士はもう一度語りかけます。君も一人なのか、美しい巫女よ。お願いだから、君の瞳を私に見せておくれ。しかし巫女はやはり答えません。

 騎士は迷いました。

 静かに眠り続ける巫女をこのままにしていいのかと。

 騎士は巫女の孤独に迷いました。

 

 これが最後だ。彼女の瞳を見てからいこう。孤独なのは、私だけでいい。



 騎士は決めました。眠れる森の巫女を目覚めさせることを。



 様々な困難を乗り越え、あらゆる方法を試して巫女を目覚めさせようとした騎士ですが、どうしても巫女はその瞳を見せてはくれません。

 騎士は迷いました。一体どうすればかの巫女を目覚めさせることができるのかと。

 そこで、騎士は巫女に触れてみました。

 すると、彼はあることに気づいてしまいます。


 ああ、美しい巫女よ。そうか。君もそうだったのか。


 眠れる森の巫女はすでに死んでいたのです。

 騎士はとても悲しみました。


 悲しくて、悲しくて、すべてがどうでもよくなるほどに。

 

 やがて騎士は祈ります。

 私はもう疲れてしまった。孤独に疲れてしまった。だからせめて、彼女の孤独に寄り添おう。悲しい孤独を、共に遂げよう、と。

 そして何の取り柄もない騎士は剣を抜き、自らの胸に突き刺し、暗い暗い闇へ向かいます。彼は誰もいないところに居たくなかったのです。


 目を覚まして、迷える騎士よ。

 瞳を見せて、私の孤独を癒してくれた人。


 すると奇跡が起こりました。眠れる森の巫女が目を覚ましたのです。巫女は騎士の頬に触れました。

 巫女の穏やかな声と優しく触れられた頬に騎士も目を覚まします。


 ああ、美しい巫女よ。そうか。君の瞳は、そんな色をしていたんだね。


 こうして迷える騎士と眠れる森の巫女は、それぞれの孤独を癒したのでした――――、






――――――



「う~ん……もう朝か」


 窓の外は相変わらず真っ暗闇だけど、体感的にもう朝だということはわかる。

 もちろん時計での確認も忘れないけど。

 寝室からモソモソと這い出し、大きく深呼吸。

 今日も調子は悪くない。

 立ち鏡に自分を映せば、いつもと同じ私の姿が見える。

 蒼い髪はパサパサで枝毛だらけ。本来瞳があるはずの部分は真っ黒に窪んでいる。

 いまさらながら、これでどうやって視覚を保っているのか謎だ。

 皮膚はところどころ肉が削がれていて、骨が丸見え。

 口も耳まで裂けていて、赤い歯茎やらなんやらは丸出し。

 爛れた肌に軽く触れればヌチャヌチャと潤い溢れる音がする。

 そんな間違うことなき死体が、鏡に向かって大きくスマイル。


「よし、今日の私も可愛いゾ!」


 こうして適当にテンションを上げたあと、身なりをそれなりに時間をかけて整え、いそいそと私は居間へ向かった。






「おはようございます、ジャンヌさん。今日も早いですね」

「ああ、マイマイ。おはよう」


 ジャンヌさんが我が家にやってきてからもう一週間が経った。

 びっくりするほどぎこちなかったコミュニケーションもいまやこの通りだ。

 しかし変わったのはそれだけじゃない。

 私自身にも、そしてジャンヌさんにも、少しずつ、でも確実に変化が生まれていた。


「まだ来ないんですか? その、ムトさんとやらは」

「ああ。ムトはまだ籠の中から出てこない」

「そうですか」


 いつもと同じ無表情のジャンヌさんの横に立ちながら、私はほっと胸を撫で下ろす。

 今日も大丈夫。まだジャンヌさんは私の隣りにいてくれる。

 そう。そうなのだ。

 どうも私はジャンヌさんがどこかに行ってしまうことを、怖れるようになってしまったらしい。

 毎日、朝が来るたびに私はまず最初にジャンヌさんがいるかどうかを考える。

 初めての客人は、私の想定以上に私に影響を与えていた。


「朝ごはん……食べましょうか」

「ああ」


 ジャンヌさんが来る前の日のことがなぜか何十年も昔のことのように思える。

 別にそれまでの日々に不満があったわけでもないし、寂しいとかそういうことも考えたことなかった。

 この人に初めて会った日だって、物珍しさから来る若干の興奮はあったけど、それ以上はなかったはず。

 それなのにどうしてだろう。

 私は怖くなり始めてる。

 ジャンヌさんが去ってしまった後の日々を。これまでと同じ、何の変わり映えもしない毎日を。





 豆と木の実のスープを朝ごはんに食べた後、私は本を読む。ここ最近はずっとそうしてる。

 ジャンヌさんはというと、彼も私と同じように本を読みふけるのが常になっていた。

 

「……ムトさんって、どんな人なんですか?」

「ムト? ……好色で臆病だ」

「なんですかそれ。最悪じゃないですか」

「そうか? 私にとってはムトと、それ以外しかない。ゆえに最悪も最高もない」

「へ、へぇー。……本当にその人のこと好きなんですね」


 後半の言葉は、ジャンヌさんに聞こえないように囁き声。

 そう。わかってる。いつかこの人も、ここを出ていく。

 また私は一人になる。

 でもそれが当たり前。私の隣りに誰かがいる今の方がおかしいんだから。

 日課のように私も本を読んでいるが、どうしてか内容が頭に入らなくなっていた。

 しかもその傾向はどんどん顕著になっていく。

 ジャンヌさんは私のこと、どう思ってるんだろう。

 諦めて本を閉じ、私は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にする。


「ジャンヌさんは天災アクト・オブ・ゴッドって言葉、聞いたことありますか?」

「いや、ない」


 ページを捲る擦れた音が途絶える。

 私はたしかな視線を感じるが、あえて顔を伏せたままにしておいた。

 私は一体何を話そうとしているのだろう。

 一体に何に期待してるのかな。


天災アクト・オブ・ゴッド、またの名を不死者アンデッド。その名の通り、まるで神の呪いを具現化したような存在で、不死の肉体を持ち、執念の限り破滅をもたらす者」

「…………」


 静かな世界で、私は淡々と言葉を紡いでいく。

 ジャンヌさんの表情を窺うことなんてしない。どうせいつもと同じ鉄仮面に決まっているんだから。

 そうに決まってる。


「今からずっと、何十年も昔に、ある一人の少女がとある悪魔に願い事をしました。あ、悪魔って実在するんですよ。ジャンヌさん、知ってましたか?」

「いや」


 自分の膝を両手で抱きかかえこむ。

 こんなことをジャンヌさんに話して、どうするつもりなんだろう私は。

 きっと怖がられる。きっといなくなっちゃう。

 でも大丈夫。私は孤独に耐えられるはず。だって私はそのためだけに存在してるんだから。

 これまでと同じ日々が続いていくだけなんだから、耐えられるに決まってる。

 怖くなんてない。私の怖れなんてきっとまやかし。


「それで、えーと、悪魔は願い事を叶える代わりにあるものを差し出すことを要求しました。ジャンヌさん、何かわかります?」

「いや」

「悪魔が見返りに求めたのは……心臓こころです」


 暖炉の火がパチパチと燃えている。この時期は冷え込む。やっぱりつけておかないと。

 別に寒さで凍え死ぬことなんて私にとってはあり得ないことだけど、ジャンヌさんは違うだろうから。


「願い事を叶える代わりに、悪魔はその少女からこころを奪い、彼女をただの怪物に変えました。そして魔法使いが願ったのは、力。心なく、ただひたすらに破壊を尽くすだけの怪物に、彼女は変えられてしまったんですよ」

「…………」


 あたかも自分の目で見てきたかのように、私は語り続ける。

 でも実際はそうじゃない。

 全部、私は教わったことをなぞっているだけだ。

 父の言葉を、私は自分の言葉にし直していく。


「悪魔の呪いは強力でした。心を失った彼女に与えたのは、不死の身体と絶大な魔力。心なき怪物となった彼女を止める術はほとんどありませんでした」

「…………」

「でも、その時、ある偉大な魔法使いが立ち上がりました。その偉大な魔法使いはあるものを創り出します。それはある魔法を込められた石。“賢者の宝玉”と呼ばれる代物です」


 遠い遠い記憶を遡っていく。冷め切った絶望の瞳を思い出す。

 私の生まれた日。私の存在理由。


「賢者の宝玉に込められた力はだいたいこんな感じです。ある心の一部を代償に、魔力を跳ね上げるというもの。そして逆に、心を埋め込むことで、魔力を封じ込めるというもの」

「…………」


 もう気づいてるかな。

 それとも実は最初から気づいていたのかな。

 ジャンヌさんは異常に強い。

 それはこの一週間の日々で、ある程度理解していた。

 私は指に嵌められた蒼い宝石をすっと撫で、溜め息を吐く。



「はーい、ここで突然のカミングアウトでーす。もう気づいちゃいましたかね? 今話したのは、私の事。いや、違いますね。私の身体の、本当の持ち主の話でしたー」

「……そうか」



 天災アクト・オブ・ゴッド

 世界に災厄を振りまく不死の怪物。

 その力を抑え込むために埋め込まれた仮想の心。

 

 それが私だ。


 私は森の外を知らない。目覚めたときにはすでに、この森の最奥に隔離されていたから。

 私は森の外へ憧れてはいけない。私は世界の歴史にとってすでに抹消され過去となった存在。最悪の不死者が何食わぬ顔で世界に姿を見せることは許されないから。

 私は私の孤独に疑問をもたない。だってこの森で一人孤独に生きること、それだけが私の存在理由だから。


「あの、ジャンヌさん。一つだけ、訊いてみてもいいですか?」

「ああ」


 顔を上げれば、いつもと全く変わらないジャンヌさんの顔がある。

 なんだよその顔。もっと驚けよ。目の前に、歴史の中で封印された不死の怪物がいるんだぞ。


 少しくらい、私を怖がってよ。




「もし、私を殺してくださいって言ったら、殺してくれますか?」




――――



 これから話すのは、ある一人の少女にまつわる悲劇の物語だ。

 私はその少女のことをよく知っているが、私は直接彼女と言葉を交わしたことはないし、彼女にまつわる物語も人づてに聞いたに過ぎない。

 私にとって二重の意味で父と呼ぶべき存在が、彼女のことを教えてくれたのだ。


 それは今から四十年前ほどのこと。ある偉大な魔法使いに一人娘がいた。

 それが今回の物語の主人公である彼女のことだ。

 彼女は天才だった。偉大な魔法使いである父の血をしっかりと引き継いだのか、その才能は比類なきものだったらしい。

 そして両親からの寵愛を一身に受けた彼女は誰よりも純粋で、誰よりも心優しい魔法使いとして成長していた。

 だけどある日、順風満帆だった彼女の人生に影が落ちる。

 彼女の母が、暴漢に襲われ死んでしまったのだ。


 彼女はまず母の死に酷く悲しみ、次に燃え上がるような怒りを抱いた。

 自分の母を襲った男がどうしても許せなかったのだ。

 当然彼女は暴漢に復讐しようとする。彼女は生まれながらに正義感も強かったから、人殺しがのうのうと裁きを受けていないこと自体が許せなかった。

 だけど、母殺しの犯人を捜す彼女を止めたのは、誰であろう、偉大な魔法使いである父、その人だった。


『なんで私を止めるのお父さん!?』

『これ以上、真相に近づいてはならないんだ。わかってくれ。我が娘よ』


 彼女には理解できない。なぜ父は母を殺した相手を探すことを手伝うどころか、邪魔しようとするのか。

 だけど真実はいたって簡単なことだった。

 母を殺した暴漢の正体が、とある貴族の子息だったのだ。

 彼女の父は偉大な魔法使いではあったけど、平民でしかない。

 この当時、もっとも権力が強いのは貴族で、いくら魔法使いとして名を馳せていても、貴族には逆らえなかったというだけの話。

 しかし、彼女は諦めなかった。

 いや、諦めないなんて言葉じゃ生易しいかも。

 彼女は全てを憎んでしまったのだ。暴漢の男も、権力に屈する父にも、そして、世界そのものを。


『私に力をちょうだい。間違ったこの世界を変える力を』

『うん。いいよ。君がどんな風に唄うのか楽しみだ』


 どこまでも純粋で、どこまでも優しい少女は、その純粋さと優しさゆえに、決して手を出してはいけないものに触れてしまう。

 なぜ彼女が選ばれたのか、なぜ彼女の前にソレが現れたのか、それは今もわからない。

 だけど、彼女は契約してしまった。世界を変える力を手に入れる代わりに、全てを失ってしまったのだ。

 こうして彼女は不死者アンデッドとなったのだった。



『あの怪物のことは任せてはくれないか?』


 

 彼女を止めたのは、誰であろう彼女の父である偉大な魔法使いその人。

 不死者アンデッドを殺すことはできない。だってすでに死んでるんだもん。

 だから偉大な魔法使いは、彼の魔法使いとしての全ての力を犠牲にして、ある一つの原石魔法を完成させた。

 それは宝玉と呼ばれる魔物が創り出す特殊な物質を利用した、一種の封印魔法。

 心を鎖として魔力を縛ったり解放したりする、“賢者の宝玉”と呼ばれる物質創造マター・クリエイト魔法だった。


『怪物は二度死んだ。もう二度とあの怪物がこの世に姿を見せることはないだろう』


 やがて偉大な魔法使いは、心を失った不死者モンスターが引き起こした災害を止めてみせたことを世界に宣言した。

 でも実は、世界は知らなかったんだ。

 その怪物が偉大な魔法使いの娘自身だってことを。

 契約を果たした時点で人としての原型はほとんど残っていなかったし、偉大な魔法使いも自分の娘が怪物になってしまったことを認めたくなかったんじゃないかな。


 まあ、そんなわけで彼女の物語はこうして終わる。

 突如歴史から姿を消した偉大な魔法使いの娘のことも、世界は忘れていくだけ。

 二度、こころを持った少女は、決して世界に手を広げることを許されない。


 数年後、偉大な魔法使いは国際魔術連盟という一つの組織をつくる。

 世界大戦を経て、その組織は貴族よりも、王族よりも権力を持つ組織になったらしい。

 でもこのことを知るのはもっと先のお話。

 だから今は、この一人の少女の悲劇を話し終えたここらで終わりにしよう。



 マイ・ハーンという一人の少女の死で終わる悲劇の物語は、ここらでもう終わりにしよう。






―――――



「もし、私を殺してくださいって言ったら、殺してくれますか?」


 私は静かに問い掛ける。

 自分が不死身であることを伝えたそばからこの質問。色んな意味で意地悪な質問だ。

 なんでこんなことをジャンヌさんに尋ねたのか、私自身よくわからない。

 ただ困らせたかっただけかな。それとも私は――、


「――なーんてね! 冗談ですよ! 冗談! わかってますよ。私は死ねないから、こうして生きてるわけです。あ、あと心配しないでくださいよ? よっぽどのことがない限り、私が天災アクト・オブ・ゴッドとして暴走することはありませんから」


 ジャンヌさんの返答を聞く前に、私はそうやって笑って誤魔化す。

 沈痛な空気を自分で作り出しておいて、私が耐えられなかったのだ。

 だけど、ジャンヌさんがそれで読書を再開することはなかった。

 顔を伏せる私に、真っ直ぐと金色が向けられているのがわかる。

 私が無意識の内に避けていた答えを、その人は容赦なく口にした。



「私ならば、貴公を殺すことも可能だ。もし、貴公がそれを望むなら、いつだって貴公を滅ぼしてみせよう」



 爪が手の平に食い込む鈍い感覚。

 鋭利なそれが、掌の肉を切り裂くが、痛みはないし、傷口は血を出すこともなく塞がっていく。

 不死者アンデッド。それは比喩じゃない。

 正真正銘の化け物だ。

 私は本物の怪物なんだ。


「な、何言ってるんですか? 私の話ちゃんと聞いてましたか? 私は天災アクト・オブ・ゴッド。不死の化け物なんですよ? いくらジャンヌさんが強いからといって、私を殺せるなんて……無理ですよ! 無理!」

不死者アンデッド、その仕組みは大体予想がつく。不死者の創造、それは一種の魔法に過ぎない。魔法ならば、対処の方法はいくらでもある。肉体の超再生。魔力の外部依存。神経遮断による運動の最適化。どの要因も、私の最強を揺るがすには足りないだろう」

「い、言ってることほとんどわからないけど……でも絶対無理です!!!」

「いや、可能だ」

「無理だって言ってるじゃないですかっ!!!」


 私は力任せに魔力を解放する。

 否定の意志を灯す蒼い炎。

 家が火事になっちゃうとか、そんなことはもう何も考えられなかった。

 子供が癇癪を起こすように、蒼火を爆発させた。


 でも、その炎は結局何を燃やすことも叶わない。


「《ダークニヒル》」


 闇の波動が脈打つ。

 全てを飲み込みながら伝播する闇は、私の炎すらもその胃袋に収めてしまう。

 戻る静寂。

 呆ける私は、解放したはずの魔力がもうどこにも発現していないことを知り、なぜか泣きそうになってしまう。


「わ、私……寝室に戻ります」


 絞り出した声から察するに、もう私は泣いているのかもしれない。

 私には瞳がないから、涙を流すことはできないけど、たしかに私は泣いていると思う。


「そうか」


 いつもと変わらないジャンヌさんの言葉が、今は無性に悲しかった





――――――



「もう夜か」


 時計に目配せすれば、ずいぶんと長い間部屋に籠っていることがわかる。

 お腹が少し減っているけど、何かを食べる気分にはまったくならない。

 というか、何も食べない生活を続ければ餓死とかするのかな。

 いや、それはないか。たぶん苦しい飢餓感が続くだけで、死ぬことはないだろう。

 ジャンヌさんはご飯ちゃんと食べたかな。


「……私を殺せる、か」


 不死者アンデッドを殺す。

 それは本来、到底不可能な話だ。

 もしそれが可能ならば、わざわざ私が生まれる必要だってなかったんだから。

 でもなんでだろう。

 ジャンヌさんなら本当に、不死者アンデッドだって殺せてしまうような気がする。


 不死者わたしを殺す。

 それはきっと理想なんだろう。

 いくら今は賢者の宝玉が効力を発揮しているといっても、いつ何か予定外のことが起きるかわからない。

 もしかしたら千載一遇の機会が巡ってきたのかも。


「私は何を怖がってるんだろう」


 だけど私は怖れてる。

 心の底から怖いんだ。でも何がそんなに怖いのかわからない。

 最初は孤独が怖いんだと思っていた。

 ジャンヌさんに置いてかれて、もう一度孤独になることが。

 でも本当にそうなのかな。それだで私はこんなに怯えてるの? 

 そんなわけない。

 私は恐怖の理由をまた考え直す。

 

 死ぬことが怖い?

 いやそれは違う。

 生きていたって退屈なだけ。

 そこに不満はないけど、期待もない。

 

 じゃあジャンヌさんが私を殺すことに失敗するのが怖い? 

 ううん。それも違う。

 ジャンヌさんなら、私を殺すことに最悪失敗しても再度封印することくらいなら出来るだろう。

 それほど傑出した魔法使いなのは確かだ。


 私は一体何を怖れてるの?



「……はは、そっか。そうなんだ。やっぱり私が怖れてるのは“孤独”。どの選択肢をとっても、孤独から逃げることができないから怖がってるんだ」



 いつかジャンヌさんは、私を置いてどこかに去っていく。それが私は怖い。


 私が死ねば、もう私はジャンヌさんに会うことができない。それが私は怖い。


 もう一度孤独になるのが、私は怖い。


 でも、どうしたってその運命から逃れることはできない。私はその事実がたまらなく怖いのだ。

 

 結局答えは堂々巡り。

 

 最初から分かっていた答えに戻ってきただけだった。


「……どうせまた孤独になるのなら、全部終わりにしよう。永遠の孤独に生きるくらいなら、いつかジャンヌさんも遅れてやってくる闇の中で待とう」


 冷たい覚悟が決まる。 

 やり残したことなんてはなからない。

 もう駄目なんだ。

 もう私は終わりのない孤独に耐えられなくなってしまった。

 ベッドから這い出て、毛布を整える。目指すのは扉の向こう側。

 明けない夜へ私は一歩踏み出す。

 だって他人ひとの温もりを、私は知ってしまったから――、








「構わないんだな?」

「はい。お願いします。もし、やっぱり駄目だったら、せめて封印魔法くらいはやってくださいよ?」

「失敗はあり得ないが、約束しよう」

「それならいいです」


 相打ちとかなったら最高なんだけどな。

 なんてちょっと暗い感情覗かせて、私はジャンヌさんに微笑んで見せる。

 ちゃんと今の私は、上手に笑えてるかな。


「それじゃあジャンヌさん、いきますよ?」

「ああ」


 今日も森はとても静かだ。

 一人だったこれまでと同じように、とっても静か。

 だけど怖い。こんなに怖い夜はなかった。


「《インヴォケーション》」


 ――覚醒する怨念。

 


 壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊ス。壊ス。壊ス。壊ス。壊ス。壊ス。壊ス。壊ス。壊ス。壊ス。コワス。コワス。コワス。コワス。コワス。コワス。コワス。コワス。コワス。コワス。コワス。コワス。コワス。


 

 真っ黒な破壊衝動が、私を塗り潰していく。

 まったくこんな乙女をたぶらかして。

 ジャンヌさん、しっかり責任取ってくださいよね?

 


「短イ間だっタけど、楽しカっタデす。本当ニあリがトうごザイまシタ」



 執念が再臨し、怪物が目を覚ます。

 もう私の瞳には何も映らない。

 だけどすぐ傍にあの人がいることはわかる。

 私の孤独に寄り添ってくれた、唯一の人。




「サヨウナラ、ジャンヌサン」




 ちゃんと別れの挨拶を言えたことに私は満足する。

  

 でもやっぱり少し怖いかな。



 そんな感慨を最後に、私は、私じゃなくなった。



―――――



「ヴォォォォゥゥゥゥゥッッッッッッ!!!!」


 怪物は完全に目を覚ます。

 恨み、妬み、怒り、殺意、害意、破壊衝動、様々な負の感情が魔力の渦となって荒れ狂い、濃密な悪意が顕現した。

 心を喪った怪物はまず手始めに、目の前の命を蹂躙することに決める。

 しかしそれは意志ではない。純粋な本能。

 

 ――蒼髪の異形が牙をむく。


「これが真の姿か」


 異形の爪先にいたのは黒髪の青年――ジャンヌただ一人。

 すでに魔力纏繞を無詠唱で発動させていて、黄金の瞳に迷いの影は認められない。

 瞬間、闇を駆け抜ける蒼の炎。

 触れるだけで身を焦がされてしまいそうなその一撃を、ジャンヌはあえて紙一重で躱すと一気に怪物の懐へ潜り込む。

 

「《イグニスグラディウス》」


 間髪入れずに炸裂するのは真紅の炎剣。

 その威力は峻烈で、怪物の上半身は一瞬で灰に消し飛ばされる。

 だがジャンヌは距離を一旦取り直すと、一切の緊張の欠如なく怪物に観察眼を送った。


「……なるほど。魔力を肉体に変換している。そして魔力はやはり外部依存。依存対象は……世界か」


 ジャンヌが静かに見守る中、腰から上を完全に失った怪物に蒼黒色の粒子が集まっていく。

 邪悪な粒は闇の中で怪しく光り、膨れ上がる魔力はその際限を知らない。

 数秒にも満たない怪物の再生を最後まで凝望したジャンヌは、そして闘いを再開させる。


「最強たる者に、立ちはだかる者は亡し」


 怪物が蒼い火焔を吐く。広範囲に渡る炎波は大地すら死に変えていく。

 しかし、ジャンヌが選んだのは回避でも防御でもなく、突進。

 暴れ狂う炎の最中に、黒装の魔法使いは躊躇なく飛び込んでいった。


「最強たる者に、無駄な動きは必要ない」


 炎幕に風穴が穿たれる。

 だがそれでも突進を続けるジャンヌの無属性魔法に、一切の乱れは見られない。

 世界そのものから取り込んだ魔法でも、たった一人の人間が発動させた魔力の鎧に傷をつけることは叶わなかったのだ。

 

「ヴォォォォゥゥゥゥッッッッッ!」

「《ステッラスピトー》」


 加速を続けるジャンヌは、そのまま怪物を飛び越す。

 次の瞬間、怪物の両腕が猛甚の風に刈り取られ、宙に舞い上がった。

 怪物が怒りに咆哮する。

 蒼い炎はいまだ何も壊せていない。

 

「最強たる者に、敗北は選べない」


 切断された両腕は夜の闇中、粉塵に変わる。

 暴走を加増させる怪物は手当り次第に蒼炎を爆発させるが、どれもジャンヌを捉えることはできない。

 そして、破滅の終焉へとジャンヌは階段を一つ上がる。



「《闇の世界ウーニウェルスム》」



 暗転する闇夜。

 闇の支配者が変わる。

 放遂されたのは世界。

 世界と同量の魔力をもって、ジャンヌは空間を支配したのだ。


「ヴガァァァァァッッッッッッッ!!!!!」


 怪物の叫喚に変化が生じた。

 新たに混じったのは困惑。怪物は困惑していたのだ。

 手首の辺りで再生をピタリと止めた己の両腕に、怪物は怒りの代償として炎を灯す。


「依存対象との遮断。もう再生はできない」


 不死性の消失。

 不死者アンデッドにとってまるで理解の範疇外にある宣言を下す金瞳の魔術師に、両手を失った怪物は爆炎を撒き散らす。

 だがそれでも、蒼の猛火はたった一つの命すら燃やせない。


「最強たる者に、恐怖、動揺は似合わず」


 目鼻の寸前すら見通せない闇の中で、ジャンヌは駆け抜ける。

 その動きには迷いも戸惑いもなく、真っ直ぐとただ凄然進んでいくのみ。


「最強たる者に、一切の遅れは許されない」

「ヴグォォォォッッッッ!!!!!」


 またしても怪物の両腕が消し飛ばされる。

 だが先程とは違い、肩口から再生の兆しは微塵も見えない。


「最強たる者に、容赦は相応しくない」


 闇内を疾駆するジャンヌは何よりも速く、とうとう怪物はその姿を見失ってしまう。

 蒼い炎だけが煌めく暗闇。

 何一つ燃やせない烈火の中で、悪夢は終わりに向かっていく。


「最強たる者に、情けは不必要である」

「ヴギィィォォォッッッッ!!!!!」


 怪物の右半身が闇の中に溶け消える。

 しかしやはり不死の肉体は再生しない。

 重心の安定を失った怪物は大きく横倒れ、蒼い炎もすでに風前の灯火。


「最強たる者に、勝利は常に約束される」


 ふいに怪物の頭部が掴まれ持ち上げられる。

 同時に怪物は左半身を闇に堕とし、首から下がもうその姿をみせることはない。

 残るのは頭部だけ。闇に身を浸すのは光なき眼のみ。


「ヴグゥォ……ジャ――――」


 とうとう肉体に込められた魔力も尽き、無尽蔵だったはずの魔力供給は途絶えたまま。

 怪物は瞳のない目で、黒髪の魔法使いを見つめる。

 こんなに綺麗な瞳をしていたのか。

 それが怪物に生まれた唯一の感嘆か、それともまた別の何かの感情か、それはわからない。



「……最強たる者に、余計な感情は必要ない」



 ――長い長い、夜が明ける。

 

 蒼ではない色をした炎が、怪物を焼き尽くす。

 絶望も、希望も、全て、灰に変えていく。



 黄金の瞳に映るのは、ただ闇だけとなった。




 

――――――


 

 夜が明けた。

 しかし闇は晴れぬまま。光はいまだどこにも差し込まない。

 そんな寂しい程の静寂の中、ジャンヌは古い洋館の前で一人空を眺めている。


「ムト……なぜ目を覚まさない」


 ジャンヌが瞳を閉じても、語り掛ける者は誰もいない。

 いつまでも続きそうな孤独。

 強い風が吹き抜け、ジャンヌの髪に木の葉が乗るが、それを気に留める者はどこにもいない。


「ムト……次に私は何をすればいい」


 問い掛けは誰にも届かない。

 深い深い闇の中で、もはやジャンヌを暖かい部屋に招く者もいなくなった。

 朝食の準備も、夕食の準備も、それを求める者はすでに消えた。

 これまでは時折り聞こえていた野獣の遠吠えも、この時はまるで聞こえない。

 耳を澄ますべき相手はどこにもいない。


「ムト……私の選択は正しかったのか」


 思考するべきことがなくなったジャンヌは薄い記憶に踵を合わせる。

 笑顔、笑顔、笑顔、そして涙。

 誰かを守る。

 それはジャンヌにとって最も多く命じられてきたことだった。

 彼女は守るべき対象だったのか、その答えがジャンヌにはわからない。


「ムト……なぜ答えてくれない」


 やがてジャンヌは歩き出す。

 焦げて黒ずんだ大地を踏むたびに、乾燥した音が侘しく響く。

 誰もいない、孤独な朝。

 ジャンヌは想像する。

 これから先、この日と同じ朝が永遠に繰り返されていく様を。 

 

 彷徨いに近い歩みがふいに止まる。

 腰を屈めジャンヌは足下で光輝く、ある物に手を伸ばす。

 

「……マイマイ……」


 それは小さな少女の手。

 蒼い宝玉をあしらった指輪をつける、ジャンヌの知る数少ない相手の手だった。

 指輪をそっと摘まむと、とうの昔に朽ち果てていた手は指輪を除き、砂のように零れ落ちる。

 魔力という繋がりを失ったため、もう原型を保つことができなくなっていたのだ。


「ムト……貴公ならどんな道を選んだ」


 縦に大きく亀裂の入った蒼い宝玉を眺めながら、ジャンヌは闇に言葉を投げかける。

 しかし、問い掛けはやはり誰にも届かない。

 永遠の孤独。

 その意味がジャンヌには理解できない。


「ムト、貴公が永遠に朝を迎えないというならば――」


 壊れた指輪を服の衣囊にしまい込み、ジャンヌは一つ魔法を唱える。

 属性は氷。

 絶対不可侵の壁を張り巡らした後、水の探知魔法を周囲一帯に続けて広げる。

 永遠の孤独。

 その意味がジャンヌには理解できないが、それが自分の存在意義を揺るがすものだということに気づくことはできた。



「――ムト、私も共に夜に落ちよう。貴公の孤独に寄り添おう」



 何かが変わり始める真っ暗な朝。

 また一つ、拠り所を失った魂が闇に堕ちていく。




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