三年前Ⅲ

夜更けの果てに



 暗くて憂鬱な夜。

 褪せた緑が鬱蒼と茂る樹林の中、僕は駆けていた。


 あぁ、面倒臭い。


 何でこんなに生きるのって面倒なわけ?


 風に靡く僕の身に纏われた黒の外套。

 光明の足りない闇の中ではためく僕の黒髪。

 どれもこれも走るのには鬱陶しくてしょうがないものばかりだけど、残念ながら捨てられるものは何一つもない。

 季節に見合う冷気が身を切る。あの日から随分と月日は流れたものだね。



「どこにいるのかなぁ!? 黒猫ちゃぁぁっっっん!?!?」



 唐突に、聞き慣れた脂っぽい大声が遥か後ろで叫ばれている事を聴覚が掴む。

 思ったより早いな。

 だけどに捕まる気はさらさらないんだよね。

 その為に今日この日まで準備をし続けて来たんだから。


「……兄さん」


 枯れ枝を踏み折る乾いた音がする。

 僕は遠き日の兄の静かな相貌を思い浮かべ、ふと懐かしい気持ちに落ち入った。

 全く、今日まで本当に時間がかかったもんだ。

 でも、これはまだ始まり。兄さんを取り戻す旅は今やっと始まったばかりだ。



「発見」



 その刹那、無機質な低音が鼓膜に響くと同時に、切り裂かれる様な痛みが下腹部に襲い掛かった。


「ぐっ……!」


 直後、僕の身体は弾ける様に突き飛ばされ、付近の大木に強く叩きつけられる。

 闇夜に木の破片が舞い散るのが感じ取れ、仄かに血の香りもした。

 僕は生温かく濡れている臍の辺りに手を当て、その匂いの元を確認する。


「発見後、拘束しろと命令されている。もし抵抗するようなら、殺せとも」


 ふと視線を前方に移せば、一人の女がいた。

 冷酷な双眸で僕を見下ろし、稀薄な金髪を月光に照らされながら、その女は言葉を続ける。


師長しちょうから私は、お前の監視を秘密裏に命令されていたのだよ」


 気づかれていた。

 数十年の間共に過ごして来たというのにも関わらず、は全く僕を信用してなかったのか。

 流石と言うべきかな。本当に陰湿で粘っこい奴だよ。


「そしてお前は師長の危惧通りに謀反を起こし、今、ここに居るわけだ」


 細長い耳に切れ長の眼、その女のエルフ人としての特徴が顕著な姿は月夜によく似合う。

 その右手に握られた長刀さえなければ見惚れてもいいくらいに。


「さて、ここで一つ頼みがある。私は前々からお前が気に食わなかった。だから出来れば今直ぐお前を斬り殺したいのだ。つまりお前には抵抗して貰わないと困るのだよ」

「ふーん。相変わらずアンタ少しズレてるね。別に頼まれなくても抵抗するに決まってんじゃん」


 軽く痰を地面に吐き捨て、背に負いし漆黒の剣の柄を掴む。

 そして僕は、何の感情も見て取れない面白味の無い女の顔を睨みつけながら緩りと立ち上がった。


「でも、一つ、残念なお知らせ。アンタは僕を斬り殺せないよ」


 涅色の刀身は、闇の夜でもその存在感をはっきりと示す。

 ずっしりと重い感触が手に乗り、周囲の空気が変わる。



「だってアンタは、僕に斬り殺されるから」



 瞬間、女が前方から消える。

 頭上から降り注ぐ、明確な殺意。



「そういう所が、気に食わないのだよ」



 咄嗟に剣を頭上へ盾の様に構えると、けたたましい金属の衝突音が鳴り響くと同時に、凄まじい負荷が剣の柄を握る手首に乗しかかった。


「ぐっ…!」


 ほんの少しぬかるんだ地面に、両の足がめり込む。

 頭上の負荷は消えない。

 僕は空いている方の手に魔力を込め、この状況を打開する事にした。


「……《イルフレイム》」


 紅蓮の炎が右手から轟々と燃え盛り、空気を焦がす。

 命がけのなのは今更。

 真紅に渦巻く右手を頭上の女へ向け、集積された魔力を解放する。


 瞬時、明滅する煌き。

 その閃光に照らされて、暗夜の森林の樹々が橙黄色に輝いた。

 やがて訪れる、炸裂音の後の暫しの静けさ。

 しかしその沈黙も直ぐに破られる。


「さすがは天才魔術師の一族と言った所だな」


 光は収まり、森に闇が戻った。

 僕は黒刀を強く握り直し、人を見下した様な声のする背後へ振り返る。


「悪いけど、急いでるんだ。最初から全力でいかして貰うよ」

「ふっ、急いでいる? まさか本気で私達から逃げ切れると思っているのか?」


 女は高らかに笑う。

 白眼視されていることは明白。

 閑静な自然の世界に、女の嘲笑は不気味に響いた。

 女は全く笑っていない蒼い眼で僕の紅い瞳を貫き、続けて心底つまらなそうに言葉を吐き捨てる。



「思い上がるのもいい加減にするのだよ。小娘が!」



 女から怒りの気配が溢れ出る。

 その一瞬で女は僕との間合いを詰め、僕の首元を確実に狙い長刀を振り切った。

 静かな闇霧に再びこだまする金属の衝突音と、重鈍な摩擦音。


「貴様如き、師長が出る幕すら無いのだよ。師長が貴様が誘き寄せた魔獣を始末し、ここに来る前に全ては終わっているのだから」

「相変わらず僕に対してだけは良く働く口だね。普段は無口な癖にさ」


 初撃は予想通り。

 この女の剣筋は見慣れている。

 防ぐだけならそれ程難しくない。


「黙るのだよぉぉっっっ!」

「ちっ……!」


 金属を打ちつける激しい音が鳴りはためく。

 女の斬撃の苛烈さが一気に増したからだ。

 僕は全神経を女の斬破を逸らす事に集中させる。黒刀に女の長刀が触れ合う度に火花が散り、攻撃を受け流す度に大樹が斬り倒された。

 辛うじて紙一重で女の猛攻から耐えているが、元々剣技の能力では勝ち目は無い。このままの状態を続けられれば万事休すだ。

 やはり、全身全霊、全力で行く必要があるか。


「はぁぁっっっ!!」


 大きな隙が出来るのを承知で漆黒の剣を思い切り薙ぎ払い、すかさず無詠唱で魔法を発動させ爆炎を生じさせた。

 僕の捨て身の行動に完全に虚を突かれたその女は爆風をその身に幾らか受け、大きく後ずさる事を余儀無くされる。

 これで僕は自分自身の身を焼く代償に、女との間に大きな距離を作る事が出来た。


「こればっかりは自分も食らうわけにはいかないからね」


 黒刀を鞘にしまい、両手に魔力を怒涛の如く集める。

 そんな僕の姿を見て危険を察知したのか、女は即座に火の中級魔法を発動した。

 でも、そんな物は何の役にも立たないよ。

 この魔法は、炎すら灼き尽くすんだから。



「《悪魔の讃美ディアボロス・ラレオ》」



 聞こえた邪悪な唸り声は幻聴か。

 闇よりも深い漆黒の火焔が大地から湧き出で、視界を埋め尽くす荒波となり全てを寂滅させていく。

 轟々と焼き払われていくあらゆる事象、亡霊の呻き声のような音が宵の淋森を満たした。


「うっ…!! ぐばぁっ………!!」


 鉄の味がする生温かい液体が僕の口から漏れ出た。

 久しく味わう事のなかった吐血の不快な感触だけど、懐かしむ暇はない。

 まだ何も終わってないんだから。


「ちっ、ここまで早いとはね……!」


 まだ若干の黒炎の燻りは残っている。

 だが段々と視界は元に戻っていき、自分の置かれた状況がいまだ全く改善されていない事を確認出来るようにはなった。




「いやぁーっ!! 流っ石! 黒猫ちゃんー!? 俺が間に合ってなかったら確実にミラシッサを殺せてたよぉー!?」




 最悪だ。

 よりによってこいつを増援に寄越すなんて。あっちはそんなに余裕なわけ?

 ミラシッサだけならまだしも、副師長も同時に相手するのは流石にキツい。


「本当凄いよぉー! 師長からもしかしたら黒猫ちゃんが裏切るかもしれないとは聞いてたけど。まさかっ! マジで俺達“強欲な拐奪者スナッチ・スナッチ”を敵に回すとかっ!! マジ最高だよぉー!」


 目の前に現れた新参者は、見知った一人の男。

 唇に大きなピアスを空け、両耳にも趣味の悪い髑髏の装飾品を付け、見るからに軽薄そうな笑みを浮かべて何やら楽しげに拍手をしている。

 その隣には僕とさっきまで剣を交えていた女、ミラシッサが苦痛に顔を歪めながらもしっかりと立っていた。


「ほらぁー!? 見てごらん! このミラシッサの右腕! 真っ黒にこんがり焼け焦げちゃってっ!!」


 ミラシッサの右腕は握っていた長刀ごと黒一色に染まっていた。

 僕の魔法を食らったんだろう。もう恐らくミラシッサの右腕には何の感覚もない筈だ。

 本来なら右腕一本で済む魔法では無かった。それなのにも関わらずミラシッサがこうして生きている理由は簡単に推測がつく。

 隣の金髪の男の右人差し指が墨色に変わっている。間違いなくこいつの仕業だ。


「全くウチの貴重な女性団員を傷物にしちゃってくれてさぁ。しかも俺の指も一本使い物にならなくなっちゃったし。はぁ、魔力は最大限にまで込めたんだけどなぁ〜。本当、才能って怖いねぇ」


 男は言葉とは裏腹に愉快そうな笑みを一向に絶やさぬまま、僕を舐めるように見る。


「でも本当、残念だなぁ、この才能を――」


 男の視線が下から上に上がっていき、やがて、僕の目と合致した。



「――殺さなきゃいけないんだからさぁっ!!」



 男の青い唇から真っ赤な舌がぬるりと突き出される。

 その瞬間、僕の体勢が完全に崩れた。


「しまった!!!」


 ずぷりと足が膝まで地面に埋まる、一瞬の内に僕の足元は底知れぬ沼地に変貌していた。


「あはははっ!!!!!」

「うっ!?」


 直後、胸を抉られるように襲う衝撃。

 体がふわりと浮き、気がついた時には痛烈に殴り飛ばされていた。


「ぐはっ!!!」


 太い木の幹に背中から叩きつけられ、唾液と血の混じった粘液が口から漏れる。


「あははっ!! 油断大敵だよぉ黒猫ちゃぁぁぁんっ!?!?!?」

「糞がっ!」


 痛みに浸る暇も無く大量の水の槍が僕の身体目掛けて降りかかってくる。

 一撃でも食らってしまえば致命傷は免れないだろう。

 すかさず黒刀を抜き去り、呪文を唱える。


「《悪魔の恩寵ディアボロス・カリス》」


 黒の刀身に黒の炎が灯り、全身の魔力が吸い取られていく感覚の代償にこの窮地を出する力を得る。


「はぁっ……! はぁっ………!」


 頭上から降り注ぐ水槍を一心不乱に灼き斬りながら男の元へ駆ける。


「あはははっ!!!!! 凄い凄いっ!!!!」

「糞野郎がっ……!」


 右足に体重を一気に乗せ、男に向かって跳躍する。


「はぁぁぁっっっっ!!!!!」

「おっ?」


 漆黒の猛炎昂ぶる必死の斬撃を、不愉快な笑みを今だ絶やさない気味の悪い男の脳天目掛けて繰り出す。


「あはっ!《ウォルタレスト》ぉっ!!!」


 だが男が黒ずんだ人差し指を突き出した瞬間、男の前に高速で渦巻く水の堅盾が現出し、僕の攻撃を完全に防いでしまった。


「あはは残念でしたぁ〜!? これは上級魔法だからねぇ〜!! いくら“血の魔法”だからといってもそう簡単には破れないよぉ〜!!??」

「ふざけた野郎だねアンタ!」


 黒炎の威力が弱過ぎる。込めた魔力がやっぱり少なかったのか。

 それにしてもこの水の魔法、僕の黒炎を食らってここまでびくともしないとはね。恐らくさっきミラシッサを守った時も。

 ちっ、だから副師長クラスは嫌だったんだ。


「私を忘れて貰っては困るのだよ」

「!?」


 突如背筋を走る悪寒。

 横に視線を移せばミラシッサが小ぶりのナイフで僕に切りかかろうとしていた。


「ちっ!! ……離れない? 畜生がっ!!!」

「あはははっ!!! これは貰うよ黒猫ちゃん?」


 男の創り出した巨大な水の壁が、僕の黒刀を絡め取り離さない。

 僕は仕方なく黒刀を握り締めていた指を解き、ミラシッサの不意の一撃を躱す事に専念した。


「死ぬのだよっ!!!」

「悪いね。僕はまだ死ねないんだよ」

「何っ!?」


 胸元目掛けて一直線に突き出された鋭利なナイフの切っ先を、無詠唱で風の魔法を発動して無理矢理身体の向きを変える事で何とか避け切る。

 すかさず刀が奪われ拳を握り締められる事が可能になった左手で、ミラシッサの硝子細工の様に綺麗な顔面を思い切り殴りつけた。


「ゔはっ……!!」


 不細工な音を立ててミラシッサが地面に叩き落とされる。

 実に気分爽快な光景だったけど、高等魔法の連続使用による魔力の根渇間近が引き起こす激しい頭痛でそれどころじゃなかった。


「はぁっ……クルトゥスは何処だ?」


 不気味な静けさ。

 気がつけば男、クルトゥスの姿が消えている。

 だがその静寂も長くは続かなかった。



「クルトゥスはここだよぉ」

「!?」



 耳元で囁かれた、鳥肌の立つ程不愉快な声色。

 本能的反射で振り返る、そしてその瞬間の後悔。


「ちっ!! やられたっ!!!」


 そこにいたのはブヨブヨとした水人形。

 人の形をした半透明のそれは僕がその正体を正確に把握した直後瞬時、爆発した。


「ぐはっ!!」


 無様に吹き飛ばされ、情けなく地面を転がる。頭痛と全身の焼けるような痛みとで正常な思考が一旦遮断された。


「詰みだねぇ、黒猫ちゃぁん?」

「ぐあぁっ!! 糞野郎があああっ!」


 次に僕を襲う太腿の筋肉と神経を貫かれる激痛。

 右足の腿の中心に深々と突き刺さっていたのは、見間違える事なく僕の黒刀だった。


「あぁ、最高だよぉ。黒猫ちゃんみたいな可愛い子が痛みに呻き苦しむその表情っ!!!」

「あぁっ!!!」


 黒刀が勢いよく抜き取られ、どくどくと僕の赤い血が遅れて流れ出る。

 形容し難い痛みが僕の心に絶望を伝えた。


「ほらぁ、もっとその顔を良く見せてよぉ……あはっ、あはっ、あはははははっっっ!!!!!!」

「止めろっ、離せっ!」


 クルトゥスの不自然に長い指が僕の首にへばりつき、その感触を楽しむように延々と力が入れられていき、僕の体は空中に持ち上げられた。


「ふぅーん、顔にはまだ幼さが残るけど体はしっかりと大人になってるんだねぇ」


 僕の血が今だ付着する黒刀の先端を使い、下から上へ、傷がつかないぎりぎりの力加減で僕の肉体を卑猥になぞる。

 僕の胸の中心辺りを執拗に往復しては、下品な笑みを僕に見せつけた。


「止めろぉっ、この変態がっ……!」

「あははははははっっっ!!!!! 最高最高っ!!!! もう我慢出来ないっ! 我慢出来ないよぉぉっっっ!!!!!!」


 首を掴む締め付けが強くなっていく、呼吸がもう殆ど出来ない、意識が保てない。


「もういいよねぇ? 殺していいよねぇ? だってもう俺イキそうだもん……俺の絶頂と共に昇天させちゃってもいいよねぇっっっっ!?!?!?!?」


 最悪だ。

 僕の人生はこれで終わるのか。

 結局何も出来なかった。

 誰も救えず、何処にへも行けず、僕は死ぬ。



「兄さん」



 兄さんがくれた黒い刀、それが酷く醜悪な男の手に握られ、僕の首に向かって振り抜かれるのが視界に映る。


 最悪の結末だ。

 でも僕はそれをただ眺めるだけ。

 それしか出来なかった。



「あははははははははははっっっっっ!!!!!! 死ねぇぇっっっっ!!!!!! あはははっ!!! 死ねよぉぉっっっ!!!!!!!黒猫ちゃ——――」



 僕は瞳を閉じる。

 すると神の情けか、不愉快な脂ぎった声が不自然にぶつんと途切れた。

 遅れて聞こえてくるグキョという骨肉の切断音。

 漿液の勢い良く噴出する音と共に、温く粘つく液体が僕の顔面に降り注ぐ。

 自分の首から出た血だろうか、それにしては嫌悪感を煽るな。

 続いて僕は締め付けから解放され、落ちるような感覚に包まれる。

 これが死だろうか。

 でも全身の激痛はまだ残ったままだし、いくらなんでもそれはないんじゃないの。


「痛っ!! はぁっ……!? はぁ………?」


 しかしなぜか地面に背を強く打ったような更なる痛みが僕を襲う。

 しかも、呼吸が出来るようにもなっている。

 一瞬で死後の世界に来たのだろうか。

 ――いや違う、この感覚は、この痛みは、僕は――、



「――生きてる?」



 僕は瞳を開ける。

 上体を起こすと、僕の首と胴体はしっかりと繋がっていて、その代わり全身に真っ赤な血を浴びているのが分かった。

 僕は生きてる。

 じゃあこの血は一体誰のだ?


「え?」


 不意にころころと、何かが僕に向かって転がって来た。

 それには目と鼻と口が付いていて、金色の毛に覆われ、センスの感じられない髑髏の装飾品も付いている。

 そしてその物体からは、真っ赤な血が流れ出ていた。


「何が、起こったってわけ……?」


 視線を前方に移す、するとやはりと言うべきか、一人の男が首から上の無い状態で倒れている。

 そう、クルトゥスは死んでいた。

 だが、見覚えの無い青年がその死体の隣に立っているのが視認されると、それすらどうでもよくなるくらいの衝撃をうける。


「……誰? 一体何を?」


 その青年は何処にでもあるような質素な服を身に付け、毛先の細い黒髪を適当に伸ばし、尋常ならざる雰囲気を醸し出していた。


 黒髪、青年、何をしたかは分からないが結果的に僕を救った。

 もしかしたら僕の探し求める兄なのではないかとすら一瞬思ってしまった。

 しかし、それは安直な勘違いだと直ぐに気づく事となる。


 なぜならその青年の両瞳は僕の知る兄のものとは違い、煌々と黄金色に染まり輝いていたからだ。


 気づけば状況は一変していた。

 僕の命を容赦無く刈り取ろうとしていた男は物を言わぬ屍へと変わっていて、代わりにさっきまでは確かにいなかった見知らぬ青年が死神の如く冷徹な双眸でこちらを覗いている。

 からっ風が枯葉を転がす音と、僕の心臓が規則正しく脈打つ音だけが鼓膜に響いた。

 

 僕の緋色の瞳と青年の山吹色の視線が数秒間合致する。


 その間僕は息を止めていたように思う。

 それ程までにその青年は異質な何かを持っていた。

 僕は答えが欲しかった、その異質さの正体の。

 この変化を引き起こした引き金の在りどころを知りたかった。

 青年はその高潔そうな唇を開く事なく僕に背を向け、森の奥へ何事もなかったかのように歩き出す。

 直ぐに青年の背中は、闇夜の濃緑に隠れて消えた。


「……何だったんだわけ一体」


 僕には混乱だけが残されたがどうにか自分の取るべき行動を思い出し、この場所から一刻も早く立ち去るべく立ち上がろうとする。


「――痛っ!!!」


 だが太腿につけられた深い刺し傷の鋭痛がそれを邪魔した。それでも僕は丁度手元に落ちていた黒刀を杖代わりにしてなんとか起き上がる事に成功する。


「はぁ……はぁ………」


 クルトゥスの亡骸を横目に捉えながら僕は必死で歩く。一度立てば不思議とそこまで太腿の傷は気にならなかった。

 自然に足はさっき青年が歩んだ道をなぞっていく。

 僕はどうしてもあの男が気になるらしい。

 逃走経路としては遠回りになるが、それでも僕は迷わず進んだ。

 もう会う事はないかもしれないし、出会えた所で味方なのかも分からない。



「ってえ? ……これ、さっきの奴、だよね?」



 だけどそんな僕の逡巡を嘲笑あざわらうかのように、さっきの青年はその姿を直ぐに現した。

 この青年は普通に現れられないのかと怒りすら覚える状態で。


 僕はその青年を見つけ出したんだ。



 寒夜の森の中心で、仰向けになって眠っているその男を。




――――――




 短い夢を見た。


 それはとても心地の良い夢だった。

 俺はその夢の中にいる時、本当に幸せで、その場所に永遠を求めていた。

 これ以上の無い幸福感、自分の全てが許された様な安堵感。耳元にかかる俺の心の傷を癒す柔らかい音色。そのどれもが俺の荒みきった世界を美しく変え彩り、理想の楽園を創り出していた。


 そんな気がするんだ。


 そう、でも残念な事に俺はそんな夢の内容を何一つ具体的に思い出せないんだよ。

 そして俺の目はとっくに覚めている。瞼を開けばいとも簡単に濁りに濁った現実に引き戻されることだろう。

 だけど俺はまだ疲れていた。

 だからこうやってすでに眠りから覚めている癖に瞳を固く閉じたまま、記憶に残る事を拒否した至福の時間の残滓にすがっているわけさ。

 まあきっと夢の途中で何かの邪魔が入ったんだろうな。何故なら現実逃避を大好物とするこの俺が、恐らく歴代で最高クラスに素晴らしかったであろう夢をこうも完全に忘れるというのはあり得ない事なのだから。


 まだ夜なのだろうか?


 ちなみに俺は先程から起床という現象から逃走するように頑なに瞳を閉じているわけだが、どうも何かがおかしい。

 光をまるで感じないんだ。視界に広がるのは圧倒的な闇のみ。もしやまだ夜は明けていないのではないだろうか。そうだとすれば二度寝をした方がいいのでは。いやむしろ二度寝をするべきだろう。上手くいけばさっきの夢の続きを見れるかもしれない。続きがあるのかは知らないが。


 だがここで俺は嫌な事を一つ思い出してしまう。


 俺は今一体何処で寝ているんだ?

 嫌々ながらも記憶を辿り、体全身の感覚器官から自分の今現在存在する場所についての情報を掻き集める。

 堅い地面に身を冷やす柔風、、カサカサと何かが擦れる聞き覚えのある音。

 思わず自分の馬鹿さ加減に嫌気が差す、一生眠ったままになる所だったなこれは。

 何と驚くべきことに俺は森のど真ん中で大の字になって眠ってしまったらしい。

 魔物と呼ばれる危険生物がそこらじゅうをうろうろと彷徨っているこの世界で、これ程までに不用心なたわけ者はきっと俺以外には存在しないだろう。


 そうか、魔物か。


 俺が目を開ければ、青々とした樹木に俺は囲まれていて、服が土埃に塗れている事が明らかになるはずだ。

 魔物が闊歩し、魔法という名の奇跡がまかり通る世界に自分がいる事をきっと強く思い出す。


 まるで長い夢を見ているみたいだな。


 俺が瞼を開けば多分、そんな感想をまず最初に持つのだろうさ。



「おはよう」



 は?

 おはよう?

 だがやはり俺の頭脳の能力の低さは折り紙つきだったようだ。

 見事に予想を綺麗に外し、全く別の焦燥に支配される事となる。


「で、結局アンタは僕の敵なの? 味方なの? 勿論説明はしてくれるんだよね?」


 やっと起床を了承した俺の瞳にまず映ったのはボーイッシュな雰囲気を身に纏い、瑞々しい黒の短髪で紅眼の美少女が、腕を組んで腹立たしげに俺を見下ろす姿だった。


「えーと……一応味方、かな?」

「アンタは何者?」


 いやお前が何者だよ。

 俺にこそこの状況の説明が必要なんだよ。

 起床早々どうなっているんだ。この愛くるしい黒髪美少女はどこの誰だ。俺の血の繋がってない義妹か? 神の粋な計らいか?

 まぁとりあえず俺はこの世全ての美少女の味方だからいいとして、これはもしかしたら危険な状況の可能性もあるのか?

 もしやこの少女は今森のお散歩の最中で、そんな時森のど真ん中でスヤスヤと眠っている不審者を発見したというパターンか?

 ならば弁明しなくてはならない。俺は不審者などではない、ただの善良な一般市民だと。


「ちっ、違うんだよ。お、いい太腿だねぇ。そう、俺は決して怪しい者なんかじゃない。余りの睡魔に勝てなくてちょっと横になってただけなんだ」

「……おい待てなんかいま変な太腿とかなんとか混じった気が」

「そう! ただ眠かっただけなんですっ!!」

「……はぁ。余りの睡魔? ふーん、でも普通この流れで寝るかな? まぁいいや、じゃあ本題だけど、寝る前のアレは何だったの? アンタ一体何をした?」

「え? 寝る前の、アレ……?」


 何、だと!?

 寝る前のアレって言ったらアレしかないよな?

 これは緊急事態だ。

 本当にアレを見られていたとしたら相当に不味い。さりげなくこの子と仲良くなれたらとかいう淡い希望が粉々に打ち砕かれてしまう。というかそんな前から見てたのか? 最悪だ。第一印象は既に最底辺に叩き落とされていたというのか。


 まさか、気絶しているレウミカに俺が勝手にキスしたシーンを見られていたとは。


「ま、待ってくれっ! あ、アレはそういう事ではなくてですね……た、た、助けたかっただけなんだっ!!」

「助けたかった?」

「そうだよ! うん!! 俺は最初から助けるつもりだったんだ。アレは助ける為には絶対に必要な事だったんだよ」

「なんで?」

「え?」

「なんで助けようと思ったの?」


 理由?

 俺がレウミカを助けた理由?

 もしや人の命を救う事に、理由が必要だとこの子は言っているのか?

 でも、言われてみれば確かにそうかもしれない。

 人間は打算と個人的な感情でしか動かない生き物だからな。

 俺がレウミカと面識がある事を知らなければ、何故俺があんな事をしてまで命を救ったのか疑問に思うだろう。しかも俺はあの後直ぐにダッシュで逃げている。第三者が見れば実に不審で道理の分からない行動だった筈だ。

 だがしかしこの子に村であった事を話すのは気が引ける。俺の無様な羞恥の過去を晒すのは出来れば避けたい。だからといって良い言いわけが思いつくわけでもないが。

 よし。ならば真実の一部分を語る事にしよう。それくらいならば俺にも出来る筈だ。


「……か、可愛いかったから」

「は?」

「可愛いかったからだっっっ!!!! 目の前で命を散らそうとしている美少女を救うのは常識だろうがぁぁっっっ!!!!」

「ちょっ! ちょっと!! 急に大声出さないでよ!」


 おおっと。これは失敬失敬。ついうっかりまたテンション調整を失敗してまった。

 だが元々俺は対人コミュニケーションに難があるんだ。そんな美少女の癖に俺とまともに会話しようとされても困る。


「わ、悪いね。今のは発作みたいなものなんだ。気にしないでくれ」

「……ふ、ふーん。ま、別にいいんだけどさ……というか本当にそんな理由なの?」

「あぁ。俺は昔から常に美少女の味方だからな」

「へ、へぇー、う、嘘だとしても、良くそんな台詞恥ずかしげもなく言えるね」


 ん?

 何だこの反応は?

 謎の黒髪美少女は何故か顔を赤らめ、視線を地面に落とし、照れ隠しのように頬をぽりぽりと掻き始めた。

 予想される原因は三つ。

 一つめは実は風邪を引いている可能性。

 二つめは尿意、又は便意を強烈に催していて我慢している可能性。

 そして俺の期待する最後の可能性は――、


「なぁ。もしかして俺に一目惚れした?」

「は? そんなわけないじゃん。ふざけてんの?」

「すいませんでした。冗談です」


 ヒュー!

 顔の軽い紅潮は一気に冷めてなくなり、ゴミを見るかの如き蔑みの視線を浴びせられたぜ。

 全く。紛らわしい反応しやがって。キャラクター予想を見事に外してしまったようだな。そう上手くはいかないか。


「はぁ、まぁいいや。実力があるのは確かだし……ねぇ、アンタに頼みがあるんだけど」

「頼み?」


 これまた急な展開だな。

 というか結局この子は何者なんだよ。

 というか実力って何の話だ。

 一体俺のどの場面を見てこんな事を言っているんだ?


「人探しを手伝って欲しい」

「人探し?俺が?」

「うん。まぁ実際は用心棒かな。僕がある人を探している間だけでいいから一緒にいて欲しい」


 一緒にいて欲しい?

 何て甘美な響きの言葉なんだ。

 脈がないと思いきやいきなりの告白。

 お兄さんこういう経験少ないからな。効果は抜群だよまったく。これが噂の小悪魔系というやつか。想像以上だ。


「はい! 喜んで!!!」

「!? ……け、決断早いんだね」


 俺は九十度ピッタリのお辞儀をすぐさま繰り出す。若干引きつった声が聞こえたきがするが、無論幻聴だろう。


「あ、ありがとう……助かるよ。じゃあ早速だけどここから逃げる。さっきの奴らの仲間に僕は追われてるんだ」

「さっきの奴ら?」

「うん。君が相当腕のある魔術師だって事は分かるけど、なるべく闘いは避けた方がいいでしょ?」

「え? そ、それはそうだけど」


 腕のある魔術師?

 黒髪美少女にお誘いされたのは嬉しいのだが……何かがおかしい。凄くおかしい。

 さっきから微妙に現状認識に差があるような気がする。俺がこの世界の常識をまだ完全には把握していないというのとはまた別の所で、ズレが生じている気配がする。


「良し、じゃあ行くよ。しっかり着いて来て」

「い、行くって何処に?」

「あ、そうか。目的地は言っておいた方が良いね」


 余りに可憐な美少女だったので気づかなかったが、よく見ればこの子全身傷だらけじゃないか。

 これはもしかして俺、相当危ない事に巻き込まれているんじゃないのか?


「僕達の目的地は“サンライズシティ”。そこに僕の探している人がいるんだ」


 それだけ言うと彼女は踵を返し、俄然走り出した。

 俺は悶々とした感触を胸に残したまま、とりあえず置いて行かれぬよう続けて駆け出す。

 名前すら結局、まだ分かっていない少女の背中を追いかけて。


 だがハリウッド映画のようなこの唐突過ぎる謎の美少女との逃避行は、残念ながら始まってたった数分で一旦中止される事となる。


 なぜなら名無しの美少女が突如なんの前触れもなく倒れ込み、気を失ってしまったからだ。



 俺の煩悩が、試される。



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