No.22 ピピ・シューベルト
身体の半身が、焼けるように熱いの。
血管の中を尖った針が流れていくような感覚。
私はその痛みに耐えながら、困惑の目でこちらを見つめるレミジルー様のことを眺める。
エルフの幻帝が今回のために雇ったという凶悪な犯罪者の手によって、彼女はもう身体がほとんど動かせない状態になっている。
法国クレスマの王家の血族であることを証明する紫電も、私を止めようとはしない。
あとはこの手に持ったナイフを振り下ろすだけで全て終わるはず。
「はぁっ……な、なんで貴女が……?」
「私は代行者です。マリアンリ様の無念を、あのお方に代わり私が果たすのです」
「マリアンリ……?」
「きっとレミジルー様にはわからないでしょう。しかしわかる必要はありません。貴女はただ私に殺されればいいのです」
どうやら彼女はまだ私のことを思い出してはくれないようですね。
でもそれでいい。
私の心を奪ったのは彼女ではなく、マリアンリ様。
マリアンリ様の心が私にあるなら、それだけでいい。
「私の名はピピ・シューベルト。かつてマリアンリ様に仕えたメイドの一人です。……そして私からマリアンリ様を奪った貴女を、私は許しません」
私は真実を知ってしまった。
知ってしまったからには、もう戻れない。
風前の灯火となった命が燃え尽きる前に、私の歪んだ忠誠をここで証明してみせる。
「さようなら、レミジルー様」
濁った紫色の炎がナイフに絡みつく。
私自身すら燃え焦がすほど火焔を、贖罪のように解放させた。
これで全てが終わる――、
「《風を》」
――ふいに吹き抜ける一陣の風。
それはどこか覚えのある風の肌触り。
私の意志すら越えて全解放した紫炎は、たったひと吹きの風にいとも簡単に掻き消されてしまった。
ずっと沈ませていた視線を上げてみる。
するとそこには、私の予想通り、癖のない黒髪の青年が哀しそうな顔をして立っている。
彼がここに現れるだろうことはわかっていたけれど、なぜそんな表情をしているのかはわからない。
最後までわからないことばかりですね、彼は。
「やはりここに来たのですね、ムト君」
「やっぱり、ピピなんだね?」
仇を討てるほど大きな力の代償に醜い姿になってしまった私を、彼は今にも泣きそうな瞳で見つめてくる。
英雄ムト・ジャンヌダルク。
彼がここに来たということは、このエルフ軍との戦いはすでに終わってしまったということ。
『私も、もう眠ります。お願いですから私の邪魔をしないでください』
『おやすみ、ピピ。そしてごめん』
思い出すのは昨晩の言葉。
やはり彼には全て見透かされていて、私の頼み事はとっくのとうに断られていた。
彼はいつも私に優しく、私をよく笑わせてくれたが、私に心奪われることはなかった。
こうなってしまえばもう私にできることはほとんどない。
申し訳ありません、マリアンリ様。
「なんでそんな姿に……?」
「はぁっ……ムト、こいつは敵よ……早く……っ!」
段々と口の中に血の味が広がっていく。
限界が近い。
私に全てを教えてくれたあの女王から頂いた錠剤にまだ残りはあるが、それでも彼にはきっと敵わない。
彼がここに辿り着いた瞬間、私の敗北は決していた。
「ムト君は知っているのでしょうか? 彼女の罪を」
「彼女っていうのは、レミのこと?」
「……なるほど、貴女は、はぁっ……代行者っていうのはそういう意味だったのね」
レミジルー様は肉体の痛みとは違う理由で、苦々しい表情をする。
だがその紫紺の瞳にいまだ曇りはなく、自らの決断を後悔している様子は一切なかった。
それが私には恨ましくもあり、また羨ましくもあった。
「……レミジルー・アルブレヒト・アルトドルファーが、自らの実の姉であるマリアンリを殺害したことを、ムト君は知っているのですか?」
「え?」
彼は思いがけないといったように戸惑いをみせる。
どうやら知らなかったようですね。
それはある意味当然かもしれません。
私ですらその真実を知ったのは、今からほんの数か月前。
ある日突然、あの女王――智帝ユーキカイネ・ニコラエヴィチ・トルストイが私の前に現れ、マリアンリ様の死因を快く教えてくださるまで気づくことはできなかった。
「……レミ、本当なの?」
「あの人は……マリアンリお姉様が、私の父を殺した犯人だったのよ。動機は嫉妬よ。私には血の魔法が使えて、お姉様には使えなかったから――」
「やめてください! 貴女が軽々しくあの方のことを知った風に言わないで!」
マリアンリ様が実の父である“神帝”を殺害したこと、そしてその動機がただの“嫉妬”からであることは事実だ。
それもあの女王から教えて頂いた。
しかし、それでも、その事を他人の口から聞かされることは我慢できない。
「血の魔法、そんな下らない物のせいで実の父から愛されなかったマリアンリ様の気持ちが、貴女にはわからないのです。私は知っています。あの方の苦悩を、私は一番近くで見てきたのですから。そして私も同じなのです。私もまた両親から愛されなかった。両親に忘れられていた。忘れられてしまえば、存在しないのと一緒です」
私の両親も王家ほどではないが、魔法の才に恵まれた人だった。
そして私より先に生まれた兄姉や、後に生まれた弟妹もまたこの世界で最も重要とされる才能にあふれていた。
私だけだった。平凡だったのは。
そんなできそこないの私は当然愛されることなく、生きていることすら忘れられていた。
法国クレスマの中央都にあるアルテミス国立魔法魔術学園。
その限られた魔法エリートしか通えない教育機関に通う兄妹たちを眺めながら、私は必死で勉学に励んだ。
そのおかげで、王家のメイドという誉ある役職につくことができたが、それでも両親が私の名を覚えることは最後までなかった。
マリアンリ様の家出と同時期にメイド職を止めて以来実家に帰っていないので、もしかしたら私は最初からいなかったことになっているかもしれませんね。
「……そんなことない。マリアンリお姉様は、父から愛されていた。父だけじゃなく、私たちからも……!」
「伝わらない愛など、存在していないのと同義です。私も、マリアンリ様も、愛を知らない。何かを愛する術を知らない」
気づけば視界の半分が視えなくなっていることに私は気づく
智帝からの贈り物が、本格的に身体を蝕み始めているようですね。
王家を出てから、あの女王に出会うまでの数年間、私がどんな生活をしていたのかもう忘れてしまった。
マリアンリ様の死の真相を知ってからは、あの方の苦しみを知っていてなお、何もしてあげられなかった自分を赦す術を探していた。
「それでどうしますか、ムト君? 私を殺して止めますか?」
「君を殺すことなんて……」
「私は諦めませんよ。もしこの場からレミジルー様を助け出して姿をくらましても、また必ず見つけ出して殺します」
「ふざけないで……万全の私が貴女なんかにやられるわけないじゃない……だいたい私は罪なんて犯してない。マリアンリお姉様は悪に堕ちていた。あの人は私たちの愛に気づこうともしなかった。父を手にかけた瞬間、あの人はもう戻ってこれなくなっていた」
だいぶ毒の効果が薄まってきたのか、レミジルー様の口調がはっきりとし出してくる。
常人離れした自己治癒の能力。
強大な魔力を身体に秘める者の特徴ですね。
「レミジルー様を救うか、私を救うかです」
「……《風を》」
また疾風が吹き荒れる。
砂埃に目がくらんだ間に、私の足下からレミジルー様の姿がなくなっていた。
彼は選択した。
きっと英雄として正解である方の道を、選んだ。
「レミジルー様、私は貴女が羨ましいです。いつも愛されるのは貴女の方なのですね」
「……《治れ》。勘違いしないで、ピピ。俺は君も救ってみせる」
「無理ですよ。私は知ってしまった。私も、もう戻れない」
ずっと哀切に歪んでいた表情はいつの間にか変化していて、何か覚悟を決めたような澄んだ目つきに彼はなっていた。
あれが、きっと英雄の瞳なのですね。
胸に抱きかかえられたレミジルー様は美しく、あの場にいるのが自分でないことを私は少しだけ残念に思った。
「俺は王家の問題とか、君の家庭環境とか、そんなものに興味はない。俺はただレミを守りたくて、そして君を救いたいだけだ」
「ふふっ、さすが英雄様ですね。素敵な言葉を口にされます」
抱えたレミジルー様を隣りに立たせると、彼は一歩前に踏み出す。
私はそんな彼が無性に怖くて、一歩後ろに引き下がる。
いやです。来ないで。
私にそれ以上近づかないでください。
「君も覚えてるはずだよ。俺と、それだけじゃなくて、ラーや、クアリラと一緒に過ごした時間を。そんなに長い時間一緒に過ごしたわけじゃないけど、でも覚えてるはずだ」
「覚えていたらどうなのですか?」
「それを覚えてるのは、君だけじゃない。俺たちも君と一緒に過ごした時間を覚えてるんだ」
「どうせすぐに忘れますよ」
「忘れないよ、俺がそう望んでるから」
彼がなぜそんなことを言うのか私にはわからない。
覚えているから、なんなのか。
忘れないから、なんだというのか。
私は彼の言葉がなぜ、自分の左胸に鈍い痛みを与えるのか原因がわからない。
『忘れられてしまえば、存在しないのと一緒です』
ついさっき自分が言った言葉が頭の中で反響するが、私はそれに気づかないフリをした。
「俺は覚えてる。君と一緒に見た、月を、花を」
「……月も花も、ありふれたものです。忘れる方が難しい」
「そういう意味じゃないよ。俺は君と一緒に見た月と花を覚えてるんだ。そして、君がその月と花を見て綺麗だって言ったのも覚えてる」
心臓の鼓動が不自然に早まっていく。
智帝から受け取った魔法能力を命を代償に高める錠剤のせいか、またそれとは別の原因があるのか。
マリアンリ様を二度失った私に、耐えられない痛みなどないと思っていたのに。
「君は愛を知らない、何かを愛する術を知らないって言ったよね? でも俺は思うんだ。なにかを見て、“綺麗”だって思うこと。それを手に入れたい、失いたくないって思うことが、“愛する”っていうことなんじゃないかなって」
彼は優しく微笑んで、そう語る。
私は自然と頭部に手を伸ばす。
勿忘草という名の花飾りは、知らない間になくなっていた。
綺麗だと思ったから、私は手を伸ばし、自らに飾り付けた。
でも、花は落ち、私の炎によってもう灰になってしまったのでしょう。
「君はとっくのとうに知ってたんだ、何かを愛する術を。ただ、そのことに気づけなかっただけ。……でも大丈夫、俺が君を救うよ。俺ってこう見えて英雄だから」
いよいよ自制が効かなくなった紫の炎が私の身体全てを包み込む。
気づけば叫び声を上げていた。
いつか必ずレミジルー様を殺して見せるなんて、しょせん口だけの台詞。
もうあと少しで、私の命は燃え尽きる。
でも口だけの台詞のおかげで、私は英雄の救いを拒めるはず。
そのはず、だったのに。
「あと最後に一つだけ。本当は俺、夜景なんて全然興味なかったんだ。俺が綺麗だって思ったのは、俺が見たかったのは、月でも、花でもないんだ。気づいてると思ってたんだけど」
なぜなのですか?
向こう側にいたはずの彼は、知らない間に私の目の前にいて、そっと優しく私を抱き締めてくれる。
仄かな光が私の内側に入り込んで来て、澱んだ炎を吹き消していく。
怒りが、憎しみが、妬みが、痛みが、火が、月が、花が、全て失われていく。
「おやすみ、ピピ。そしてさようなら。俺は君を忘れないよ」
耳元で聞き慣れた柔らかな声がする。
優しく抱き締められる感覚が遠のいていく。
空白に満たされてやっと気づく。
きっとあの時綺麗だと私が思ったのもまた、月でも花でもなかったのだと。
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