疑念と改竄
デーズリー村の若き少女、リエルには両親がいない。
それはほとんど物心つく前の事だったため、喪失感というよりは元々存在していなかったという印象の方が強い。
しかし、寂しくはなかった。
なぜならリエルは、村長であるジュリアスや、村の守り手であるロビーノに愛を注がれ、生活に不自由するようなことはなかったからだ。
それにリエルには、憧れであり、最愛の人がいた。
その人の名はレウミカ・リンカーン。
リエルと同じ様に、両親のいない幼少期を過ごした、美しい女性。
魔術的素養はデーズリーが田舎ということを顧みても、大陸屈指のものであると分かる。
リエルにとってレウミカは、もはや憧憬を超えて生きる意味に等しかった。
(それなのに、誰なのよあいつ……)
そんなリエルは昨日の嫌な記憶を思い出す。
彼女の崇敬の対象であるレウミカが、最近一人の青年を連れてきたらしい。
過去のトラウマもあり、村の外はおろか、村の中の人間でも男を嫌悪していたリエルにとって、レウミカがかいがいしく外の男の世話をするのは苛立ち以外の何物でもなかった。
「ずいぶんと機嫌が悪そうだね、リエル」
「……当然でしょ。だって先生と男が仲良くしてたのよ? ありえない!」
早朝。
レウミカの家に向かうリエルの隣りを、気づけば黒髪の優男が並んで歩いていた。
黄金の瞳を見れば、その名を思い出す。
「それで? シセは私に何の用?」
「何の用ってこともないよ。ただの世間話さ」
基本的には男と会話することすら嫌なリエルだったが、不思議とシセに対してはそこまで嫌悪感を抱くことはなかった。
穏やかな笑みを浮かべたまま、シセはリエルの瞳を真っ直ぐと見つめる。
「彼はどれくらいこの村にいるつもりなんだろうね」
「知らないわよ。でもすぐに出ていくでしょ。よそ者をいれるほど、ジュリアスは平和ボケしてないわ。もし皆が許しても、私が許さない」
「そうだね。僕的にもさっさとこの村を出て行って欲しい気持ちはいっぱいだけど、どうかな。僕の見立てでは、レウミカやロビーノは彼のことを気に入るんじゃないかな」
「は? そんなわけないでしょ?」
「そう、言い切れる?」
「それは……」
リエルは否が応でも思い出してしまう。
彼女ははっきり見てしまったのだ。
レウミカとあの謎の男が会話している様を。
彼女が先生と崇める女性の瞳に映っていたのは、警戒というよりは、期待。
必死で考えないようにしていたが、それは間違いのない確信だった。
「僕が思うに、彼にも魔術の才能があるんだろう。それに歳も近い。だからレウミカが多少の好意を抱くのも、当たり前といえば当たり前だね。彼女にはずっと、並び立てる、本当の意味で対等な友人がいなかったから」
「なによそれ! 勝手に先生の気持ちを決めつけないで! だいたい先生には私がいるでしょ!」
「リエル、本当はわかってるだろう? 君は友人じゃない。庇護の対象だよ。レウミカが君に何かを与えることはあっても、君はレウミカに何もを与えられない」
「そ、そんなことは……!」
シセの言葉が、抉るようにリエルの心に突き刺さる。
否定したくても、否定しきれない。
「もしかしたら、君の居場所を、彼はとってしまうかもしれないね」
そんなわけ、ない。
そうリエルは強く言い返したかったが、言葉を心の奥底にしまい込み、次の瞬間には走り出していた。
レウミカは必ず自分を選んでくれるはずだと、信じていたからだ。
焦燥に走らされるリエルの小さな背中を眺めながら、シセは笑いを消す。
黄金の瞳はリエルの背中に向けられていたが、そこに何が映っているのかは彼自身しか知り得ない。
「……まだだ。まだ、始まってすら、いない」
――――――
甘過ぎず苦過ぎない絶妙な味わいの紫色の液体をゴクリと一口含む。
いつも通りの朝、小綺麗に設置された何処にでもある平凡な家具と積み重ねられた数多の種類の本の山。
そんなもう見慣れた景色の中に一人、彫刻の様に美しい女性が座っている。
艶やかな枝毛一つない銀色の髪が朝日によってその神々しさに磨きをかけていた。お茶を啜るその一挙一動すら女性らしい気品に溢れていて思わず見惚れてしまう。
――だが私は、今日はこんな目の保養をしにきたわけではないのだ。
「それで、こんな朝早くから一体何の用事なのかしら? リエル?」
「決まっています先生。昨日先生の家に卑しくもその汚らわしい足を踏み入れていたあの男の事を聞きにきたんです! 昨日は詳しく聞かせて貰えなかったので改めてこうやって聞きにきたんですっ!!」
「元々昨日は貴方が取り乱したまま中々落ち着いてくれなかったから説明出来無かったのだけれど――」
「さぁ説明をお願いしますっっっ!!!!」
そう、事の発端は何と言っても昨日にある。
昨日私が普段通りに先生の邸宅に何の気なしにお邪魔しに行ったら何と、あろうことか男がこの部屋にいたのだ!
本当に信じられないし許されない!
私の先生の家に上がっていい男なんてこの世には存在しないのにも関わらず、あの男はのうのうと先生の部屋に居座り、驚愕すべき事に先生が淹れたらしいお茶まで飲んでいたのだ!!!
余りの衝撃に昨日のその後の事はよく覚えていない。
魔力濃度を最大限にまで上げた水やら火やらの基礎魔法を出来る限り連射したのだけは辛うじて覚えてるけどね。
そして言わずもがなその男は私の知らない奴だった。
私はこの村にいる男の顔は大体覚えている。
男の顔面ごときに私の貴重な記憶力を使いたくはないんだけど、この村は余りにも小さいので否応無しに覚えてしまうのだ。
それにあのこの村の人間ではないことの証である黒髪。更にあの見た者全てに軽蔑の情を抱かせる下品な顔つき。あんな超危険生物をこの私が見逃す筈がない。
ゆえに聞くのだ。
あいつは一体何者で、誰の許しを得てレウミカ先生の邸宅に侵入したのか。
レウミカ先生の唯一絶対の弟子であるこの私には当然それを知る権利が存在するのである。
「彼の名前はムト・ジャンヌダルク。私が一昨日ダイダロスの森海の入り口で行き倒れていたのを保護したの」
「ダイダロスの森海の入り口で? 行き倒れ?」
「えぇ、なんでも記憶喪失らしいわ」
「記憶喪失?」
成る程、心優しい先生ならば行き倒れている人間を見れば迷わず助けるだろうし、その礼をあの小汚い男がする為にここに居たっていうのも不思議じゃない。
「怪しい!! 怪し過ぎます先生っ!!! 記憶喪失だなんて本当に信じてるんですか!?」
「いえ。信じていないわ。多分、ムト・ジャンヌダルクという名前も偽名ね。彼はまだムトという名前で呼ばれるのに慣れていないみたいだから」
「じゃあ何で――」
「でもだからって悪人とは限らないでしょう?」
「うっ! そ、それは、そうですけど」
そう言う先生の緑色の瞳に力強い光が宿る、こういう時の先生はちょっとだけ恐い。
でも先生は何で分かってくれないんだろう。
男なんて全て凶暴で蔑視すべき存在なのに。
私をその男から救ってくれたのは他の誰でもない、先生なのに、何で先生は男の恐ろしさを分かってくれないの?
「いやっ! やっぱりそんな事ありません! 男は皆等しく悪人ですっ!! 危ないんです! 拒絶すべきなんです!!!」
「はぁ、リエル。貴方はやっぱりその男性恐怖症を治すべきだわ。魔法の練習より先にね」
「大丈夫です! 私は一生男とは関わらずに生きて行くので!」
そう、男なんて私の人生には必要ないのだ。
あんな汚物、早くこの世界から消えてしまえばいいのに。
「ロビーノとは普通に話しているじゃない」
「ロビーノは私を助けてくれたので男ではありません」
「えーと、その考え方は凄くおかしいわ、リエル」
先生は疲れたように大きく溜め息をつく。きっとこの疲労はあの低俗な男のせいに違いない。
完全無欠に美しいレウミカ先生に皺の一つでも出来たら、あの下衆野郎はどう責任をとるつもりなの? 次会ったらやっぱりあの男にはちゃんとした制裁を加えなくては。
「……結婚とか、そういうものにリエルは興味無いの?」
「結婚? 私は先生と結婚します」
「えーと、それは恐らく不可能よリエル」
「なぜですか? 村長は一番好きな人とするのが結婚だと言っていました。なぜ不可能なのです? まさか先生はリエルの事好きじゃないんですか!?」
もちろん分かってる。 先生は私の事を唯一好きでいてくれてる人だって。
だから私は当然好きだって返答が来ると思って軽く聞いたの。
「え? まぁ結婚をしたいと思うような好きでは無いのは確かだけれど、そういう問題ではな――」
「嘘っ!? 先生は私の事が好きじゃない!?」
でも返答は私の予想と全く異なるものだった。
その返事が私の耳に入るやいなや、私に雷撃も比較にならない様な衝撃が走る。
最早あの下劣そうな男の事なんてどうでもよくなった。
先生が私を好きじゃない。この現実が私を瞬く間に地獄に叩き落としたの。
「ちょっ、ちょっとリエル? 私の話聞いてる?」
「私の事が好きじゃない……先生は私の事が好きじゃない……」
一気に視界が暗転していくようだった。
私はこれまで何の疑いも無く先生と両思いだと思っていた。その前提が今脆くも崩れ去ったのだ。
でも、一体どうして?
「リエル? 貴方大丈夫? 顔が真っ青で目が虚ろなのだけれど・・・」
「なぜ、なんですか……?」
私にはもう何も無い。
この村には同年代の友人も居ないし、両親はとっくの昔に死んだ。
そして、残された唯一の心の拠り所だった先生も私の事が好きじゃないと言う。
もう私には何も無い。何て愚かだったんだろう。
私は先生にすら必要とされていなかった。
「うわぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「リ、リエル!? どこへ行くの!? 突然一体どうした――」
私は先生の家を飛び出した。
大好きな先生が何か言っているような気がするけどもうどうだっていい。だって先生は私の事が好きじゃないんだから。
「私は、必要ない……誰にも必要とされていない」
どこに向かって走っているのか自分でもわからない。でも、凄く凄く遠くに行きたかった。
私はあの村が嫌いだった。子供は少ないし、男もいるし、何より両親を奪った。
そして私が唯一村にいる理由だった先生は、本当は私の事が好きじゃなかったと言う。
もうあそこに私がいる理由は無い。とにかく遠くに行きたかった。
私は顔を情けなく涙で濡らしながらもひたすらに走る。
だってそうすれば全部忘れられると思ったから――――、
――――――
コトッ、と甘いココアの入ったマグカップを、ロビーノはテーブルの上に置く。
身体中の筋肉が疲労で凝り固まっていて、少し動くのもおっくうだった。
時刻はまだ正午を回ってもいないというのにも関わらず、倦怠感は全身を這い回っている。
しかし気分は悪くない。どちらかといえばむしろ爽快な方だ。ロビーノはこの気持ちに関して少し真剣に考える必要があるかもしれないと思った。
「それで、結局のところ、あやつはどの程度のモノじゃったのだ?」
「だからさっきも言っただろ? 俺じゃあ、あいつの底は覗く事すら出来ない。悔しいがレベルが違い過ぎる」
自宅の大広間でロビーノは、テーブルの椅子に座り糖分やらのエネルギーを積極的に補給している。
疲れた時には糖分だと、彼の崇拝する先輩が言っていたからだ。
それに対しジュリアスは、何やら難しい顔をしてソファーに年相応の綺麗な姿勢で座っている。
さっきまでの楽しげな雰囲気はもう微塵も無く、何かの思案に明け暮れていて、最近増えてきた皺をますます眉間に目立たせていた。
「先ほどはお主が手でも抜いて一杯食わされたのかと思うたが違うんじゃな?」
「おい? 間近で見てた癖にそんなのもわかんなかったのかよ? 逆に手を抜いてたのは多分あいつの方だぜ」
「だがあの青年は気絶しよったじゃないか? あれは彼が全力を出した証拠じゃろう?」
「あいつが言ってた記憶喪失ってのは案外本当だと思うぜ俺は。気絶したムトを部屋まで運ぶ時にあいつの疲労具合を調べてみたが、魔力の使い過ぎによる全身硬直はみられなかった。それに加えてあいつは激しい動きを無理に筋力任せにしてた訳じゃねぇ。十中八九精神的な理由による失神だろう」
恐らく体は魔法を使う感覚を完璧に覚えていたが、ムト自身はその感覚を忘れていたのだろう。
その余りのギャップにビックリしてしまい、うっかり気を失ったんだろう。ムトなら十分あり得る話だ。
(それに比べて俺は本当に駄目駄目だな。流石にあの若さのムトに魔力総量は負けていないと思うが、実際あいつから感じた魔力の量は桁違いという訳じゃなかった、しかしそれでも俺とあいつの間の実力には埋め難い差があった。
それはムト自身の技量も大きいが、多分一番大きいのは魔力の質の差だ。あいつの魔力纏繞には一切の乱れが無かった、あれ程研ぎ澄まされた魔法は見た事がない。
見た目からしてムトは二十歳に届かないくらいの年齢だろう。あの歳にしてあの魔力濃度。確実にあいつは魔力コントロールに関しては天才というヤツだ。それに加えて無属性魔法を幼い頃から鍛練してきたに違いない。そうじゃなきゃあの強さは説明出来ないからな。
ははっ! 本当にあいつは何もんなんだぁ? 髪の色からしてゼクターの血が混ざっているとは思うが……)
「あやつの魔法の方はどうなのじゃ? 基本属性の方じゃ」
「さぁな。さっきのが俺が初めて見たムトの魔法だからな。だがあいつには間違いなく魔法の才能がある。下級魔法くらいは使えても不思議じゃねぇ」
「レウミカよりも魔法の資質があるというのか?」
「だからわかんねぇって。でもあれ程の魔力纏繞だ。下手したら基本属性の魔法なんて使わなくてもレウミカに勝っちまうかもな。これもやってみなきゃわかんねぇが」
「まさかそれ程じゃったとは……」
ジュリアスは頭を抱えて怖い顔をしている。
(何か困った事でもあったのか? まぁそれはそうとしてレウミカとムトの闘いには興味があんな。俺がレウミカと闘ったら多分あいつに近づく事すら出来ないが、ムトのあの無属性魔法なら太刀打ち出来るんじゃねぇか? いやむしろレウミカすら圧倒するかもしれないな)
「あの青年は記憶喪失とかのたまっているじゃよな?」
「あぁ」
「そうか……少し話をする必要があるかもしれんな…………」
ジュリアスのもの鬱気な様子は一向に変わらない。
いつもの威勢のよさはいつの間にやらどこかに行っちまったようだ。
(まったく本当にさっきからやたら暗いな。一体どうしちまったっていうんだ?)
そしてそんな風にロビーノが訝しみ逡巡していると、不意に玄関の扉が勢いよく開け放たれた。
「噂をすればなんとやらだな」
一陣の風が部屋の中央を颯爽と駆け抜けていき、外の陽光が仄かに香る。
「手伝って欲しい事があるの」
背に太陽の光を一身に受けながら、容姿に似合わぬ大粒の汗を額に浮かべる銀髪の少女――レウミカが切羽詰まった眼差しで俺を見つめている。
「リエルが何処にもいないの。私のせいかもしれない。あの子を探すのを手伝ってくれない?」
「ったく、こんなド田舎だってのに中々どうして退屈にならないもんだ」
本当に世話のかかる餓鬼どもだと、ロビーノは口端を歪める。
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