No.15 ザ・タイム・ハズ・カム
天窓から射し込む光以外明かりのない寂れた聖堂で、十字架に張り付けにされる者がいる。
伸びきった黒髪は顔全体を覆い、鼻と口から黒く濁った血を流し、大柄な体躯は弛緩していた。
その者の名はオシリウレス・アリストテレス八世。
“暴帝”と呼ばれ、ディアボロ世界でも並び立つ者はほとんどいないと云われる希代の英傑。
だがその暴帝はいまや自由を奪われ、王者の風格も失っている。
「そろそろ時間だ。弱き人の子よ」
そんな暴帝に穏やかに声をかける青年が一人。
黄金の瞳を闇に輝かせる彼は、感情の抜け落ちた相貌で意識なき王に語りかける。
「人の時代が終わり、魔の時代が再びやって来る」
青年が言葉を紡ぐと、彼の影が蟲のように蠢き出す。
闇の中で蟲の形を持った大量の影は張り付けにされた身体を這いあがり、その穴という穴から中に侵入していく。
これまで瞑られていた暴帝の目が開き、充血した瞳も影に覆われる。
「あああああアアアアアあ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛っっっっッッッッッ!!!!!」
苦悶に満ちた絶叫が上がるが、それもすぐに止む。
血のように紅い瞳孔以外が黒に染まった眼光は、宙空を見据えていて、焦点は定まらない。
「君たち人からすれば俺は憎むべき悪かもしれない。でも俺は魔に属する者たちからすれば希望を担う英雄なんだ」
暴帝の頬を優しく撫でた青年は、闇に言葉を溶け込ませる。
純白の外套を翻し、彼は仄かな光を注ぐ天窓を見上げた。
「俺が
分厚い雲に遮られたのか、光が途絶える。
闇に支配された世界で、黄金の瞳だけが煌めく。
影はこの時を、ずっと待っていた。
「さあ、変えよう。世界をもう一度」
――――――
肌寒い風に空を仰ぎ見てみれば、数日振りの曇天模様が目に入った。
名もなき荒山でのキャンプ生活を始めてからもう一週間が経つ。
影の王が動いたという情報もなく、何か新しい手掛かりの知らせも今のところない。
少しだけ俺も焦りを感じ出す。
このまま待っているだけで本当に良いのか、わからなくなり始めていた。
「……おはよう、ムト」
「ん? ああ、ヒバリか。おはよう」
するとゾンビの如くげっそりとしたヒバリが顔をみせる。
なんだかんだでジャンヌの鍛錬を一週間受け続けているだけあって、心なしか全身に筋肉がついた気がする。身長も一ミリくらい伸びたかもしれない。
「おはようございます、ご主人、ヒバリさん」
「おはよう、マイマイ」
「……おはようっす、マイマイさん」
次にいつものメイド服姿でマイマイがやってきた。
彼女はまったく同じ服をいくつか持っていて、それを着回しているのだ。
ちなみにこのメイド服は全部俺の魔法製である。
「それにしてもヒバリさん、凄いクマですね。ご主人、ちゃんと回復魔法かけてあげてるんですか?」
「ちゃんとかけてるよ。ヒバリが疲れてるのは別の理由でしょ」
「そうなんですか? ヒバリさん、もしご主人に文句があったらちゃんと言った方がいいですよ。この人は言わなきゃなんにもわかってくれないウスラトンカチなんですから」
「うん。大丈夫だよマイマイさん。身体的には絶好調だから」
マイマイの的外れな心配に、ヒバリはひらひらと手を振って応える。
聡明な俺は知っている。彼の疲労がどこから来ているのか。
そう、恋って奴はエネルギーを使うものなのさ。
「こらこらぁ? 駄目だよマイマイくぅん? ほら、ヒバリは大丈夫って言ってるんだから」
「なんですかご主人? その超キッショイ喋り方は? 鳥肌が立つのでやめてください」
初日からベッドに誘うという勇敢さを見せたヒバリだが、どうも彼はそこで全力を出し切ってしまったようだ。
ご覧の通り彼らの仲はまるで進展していない。
十中八九ヒバリの心的疲労は、もどかしいマイマイとの関係性から来るものだろう。
ジャンヌとの鍛錬などそれほど厳しいわけもないし、他に理由が思い当たらないからな。
「まあ、とりあえず今日は、ヒバリの気分転換も兼ねて魔物狩りに行こうか。一週間経って、ヒバリがどれくらい変わったのかも見てみたいし」
「え? 模擬戦闘はもう終わりなのか?」
「あー、そうだな。ヒバリが十分強くなったと思えば、もうやらない」
「よっしゃあ! 超やる気が出てきたぜ! この世界の魔物を一匹残らず駆逐してやる!」
魔物狩りを提案した途端にがぜんやる気をみせるヒバリに、俺は少々面喰う。
マイマイに自分の強さをアピールできることがそんなに嬉しいのか、あり得ない立体駆動をしながら喜びを表現していた。
やはり男の子というものは、実に単純なものなのだな。
「ジャンヌ、ヒバリがそれなりに余裕を持って勝てるくらいの魔物を見つけ出してくれるか?」
【叶えよう】
二人には気づかれないよう小声で、ジャンヌにお手頃な魔物を探してもらう。
本来この鍛錬はヒバリに自信をつけさせるためのものだ。
それに加えて想い人の前ということで、だいぶ華を持たせるつもりでいる。
まったくなんて心優しい童貞だろう。
世の女性はあまりに見る目がない。
【発見した】
「よし。じゃあ、その付近に俺たち三人を移動させてくれ」
ジャンヌから返事が聞こえると、俺はヒバリとマイマイに近くに寄るよう手招きする。
じきに雨が降り出しそうなのが気にかかるが、それが魔物狩りを中止にする理由には成り得なかった。
「それじゃあ、魔物のとこまで瞬ぶからな」
「わかった」
「了解です」
転移のため左右から差し出された手を握る。
片方は小さくぷにぷにとしたいやらしい感触の手で、もう片方は小さいが筋肉質でしっかりとした精悍な手だ。
ヒバリにマイマイの手を握らせるのに都合が良い場面であったが、あえてさせなかった。
それは彼には自分からそのステップを踏んで欲しいという純粋な願いから。
ただ単純に俺が定期的に女の子の手を触りたいという本音は秘密だ。
「たぶんここら辺にいると思うんだけど……」
「まじか。なんかオレ、緊張してきた」
ジャンヌが俺たちを連れてきたのは、よくわからない森奥のどこかだった。
周囲の景色、雰囲気から考えてダイダロスの森海ほどの大樹海ではないと思うが、十分に鬱蒼としている。
そしてさっきまであれほど元気だったヒバリも、知らない間にへっぴり腰になっていて、いつものヘタレモードだ。
相手にする魔物が格下であることはわかっていても、これでは心配になってきてしまう。
「ご主人、あれ」
「ん?」
するとマイマイがふいに足を止め、冬枯れの木々の隙間に指をさす。
注意を促された方向に目を向けてみれば、そこにはたしかに紅いナニカが蠢いていた。
「おいおい、嘘だろ? ムト、あれは無理だって」
パキ、という落ちていた枝木を踏み折る音にその深紅の眼光がこちらを振り向く。
焦げ臭い香り共に、薄暗い森に熱を帯びた光が広がっていく。
俺たちの存在に完全に気づいたのその魔獣は、大地を震わせる絶叫を上げた。
「ヴゥゥォォォォッッッッッ!!!!!」
真っ赤な剛毛が逆立ち、全身から炎が揺らめき立つ。
そこにいたのは、ちょっとした一軒家くらいの大きさのある猿の怪物。
不衛生そうな牙から涎を垂らし、鼻の穴を広げ威嚇している。
「あれ、“獄炎ヘルゴリラ”だろ……?
あまりの迫力にヒバリは、足をガタガタと震えさせている。
やはりまだまだ彼の自信欠如症候群は完治していないようだ。
ちなみに俺は恐怖に足がすくんで、しばらくは動けそうにない。
「い、いけ、ヒバリ。今のヒバリならあれにも勝てるはずだ」
「ば、馬鹿言うな! いきなり大物過ぎるだろ!? こう、普通は、もうちょっとザコ的な奴から戦うんじゃないのかよ!?」
「だ、だだだ大丈夫だ。俺が保証する。ヒバリなら勝てる」
「いやいや無理だって! オレは結局ムトにも一太刀も浴びせられてないんだぞ!?」
この口だけチキン野郎は想像以上に重症だ。
転移前の威勢はいったいどこに行ってしまったのか。
冬ごもりにちょうどいい餌を見つけた化けゴリラは地鳴りをおこしながら近づいて来ているというのに、このヘタレ剣士はまだ剣すら抜いていない。
「……もう面倒臭いですね」
「え?」
しかしその時、ヒバリは襟元をぬっと掴まれ抜けた声を漏らす。
ついに我らが姉御の我慢の限界が来たのだ。
彼女は自分も中々の小心者のくせに、他人の弱気な態度を見ると苛立つという希有な性質を持っていた。
「つべこべ言わずに行ってこーい!」
「うわぁぁっっっ!?!?」
そしてマイマイは凄まじい膂力でヒバリをぶん投げる。
もちろん放り投げられた方向で待ち構えるのは、火の粉を撒き散らす暑苦しい赤ゴリラ。
俺が想定した入りではなかったが、無事ヒバリの闘いの幕が切って落とされた。
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬぅぅっっっ!!!」
「ヴォォォッッッッ!!!」
空中をロケットのように突き進んでいくヒバリに、赤ゴリラが火焔を纏った剛腕を振るう。
これは本当に大丈夫なのだろうか。
俺は最悪の場合に備えて気を張ったが、やはりというべきか、それは杞憂に終わることになった。
「ってあれ?」
「ヴォッ!」
迫りくる炎拳をヒバリは身体を軽く捻ることで、あっさり回避してしまう。
そのまま見事な着地で赤ゴリラの横に陣取り、信じられないような表情で猛る魔物を見つめる。
「ヴゥゥォォォッッッッ!!!」
癇癪でも起こしたのか、赤ゴリくんは不細工な顔をさらに歪ませて拳を振り落とす。
だが何度も振り下ろされる巨大な拳を、ヒバリは踊るような軽やかさで躱していく。
「あれ? なんだ? 動きがやけに遅い?」
巻き上がる炎弧も完全に避けつつ、ヒバリはゆっくりと荒ぶる獣に近づいていく。
すると腰をかがめ、弾けるように跳躍した。
まるで反応できていない怪猿の顔面に、そしてヒバリは蹴りを痛烈に叩き込む。
「ヴガァ……ッ!」
聞こえたのは何かが砕け、陥没したかのような音。
グラリと、毛深い巨体が揺れたと思えば、地面に降りたヒバリが再び跳ね飛ぶ。
今度は跳躍の勢いを乗せたまま、固く握り締めた小さな拳を振り抜く。
「ヴゴォ……」
次に耳に届いたのは柔らかな何かが潰れた鈍い音。
煌めく炎は忽然と消え、一瞬身体を浮かした赤ゴリラは口から大量の血を吐き出し膝をつく。
見れば顔面は見るも無残に変形していて、数秒前までの威圧感は見る影もなかった。
「おりゃ」
「ヴゥッ!」
止めとばかりに、ヒバリは獄炎ヘルゴリラの首筋を蹴り込む。
すると骨が軋み折れる音がして、目から光を失ったその獣は大地に倒れ込んだ。
辺りの熱が下がり、若干の悪臭漂わせる怪物はもうピクリとも動かない。
「うそ、でしょ。オレ、勝っちゃったよ。魔術師級の魔物に」
ヒバリは呆然と立ち尽くしたまま、自分の手をじっと見つめている。
どうやら戦いが終わったようだ。
傍から見ていると、戦いというよりは弱い者イジメにしか見えなかったが、とにかくあのヒバリが勝利を収めた。
しかも剣を抜かないままでだ。
いや、それは良いことなのかいまいち判断しかねるが。
それでもまあよかった。ムトーズブートキャンプはしっかりと効果が表れているようだ。
「オレ、強くなってる」
顔がほころび、瞳に強い光を宿すヒバリ。
困惑が確信に変わり、それはやがて自信になるはず。
俺は大きな一歩を踏み出した小さな剣士を褒め称えようとするが、それは蒼い髪をしたメイドに遮られてしまう。
「ご主人、あれ」
「なんだよマイマイ。せっかくヒバリが一人で魔物を倒したっていうのに――」
白くて細い指が指し示すのは、黒灰色に染まった空を飛ぶ一匹の鳥。
俺はその透き通った身体を持つ鳥の名前を、すでに知っていた。
「――アイスバード? レウミカの魔法か」
枯れ枝と落ち葉に埋められた大地に、白氷の鳥が音もなく足を下ろす。
俺とさして変わらないほど大きな氷鳥は、色のない瞳で静かに俺を見つめている。
アイスバード。
これは使用者の思念を、遠く離れた相手に伝えることのできる魔法だ。
俺の知る限り、この魔法を使うことができる人は二人しかいない。
そしてその内の一人は、予め俺にこれを使用することを約束していた。
「おい! ムト! 見たか! オレ、獄炎ヘルゴリラを倒したぞ! ありがとう! これも全部ムトのおかげ――ってあれ? なんだその変な鳥?」
「悪いヒバリ、ムトーズブートキャンプはここで一時中断だ」
興奮した表情で駆け寄ってくるヒバリを制し、俺は役目の終わりを待つ氷の鳥に手を乗せる。
ヒヤリとした感触に眉を顰める前に、氷鳥が砕けクリアな欠片が俺の身体を包み込む。
曇天はいよいよ崩れそうだ。
流れ込んでくる思念からレウミカの切羽詰まった感情が視え、俺はついに影が動き始めたことを知った。
『今すぐに帝国ゼクターの首都アレスに来て。この悪夢を止められるのは君しかいない』
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