第6話 鶴吉ストリート

例6 どんな豪傑な男も年をとる。だけど、それでもかわいい男はかわいいのだ。


「おっとっと」

ツルじいさんは、さんぽのとちゅうで、小さな石につまづいて、あわててお隣の川村さんの家のフェンスにつかまりました。

「ああ、助かった」

おじいさんはため息をついて、空を見上げました。

雲ひとつない青空です。

「きれいな空だなぁ。こんな日は、大きな鳥になって、空の高いところを飛んでみたいなぁ」

おじいさんは、まぶしそうに目を細めました。

「そうしたら、家も車もおもちゃみたいに小さく見えて、人間なんか、ありんこみたいに見えて、じいさんも赤ん坊も、見分けがつかなくなるよ」

(じゃあ、飛べばいいわ、おじいさん)

どこからか、声がしました。

(ツルじいさんなら、飛べるわよ)

良く見ると、フェンスに、ピンク色のドレスを着た、バラの妖精がちょこんと座っていました。

「やぁ、こんにちは。今年も咲いたのかい」

甘く、新鮮な香りがしました。

(ええ。今朝ね。私が一番に咲いたのよ)

おじいさんは、うなづいて、美しいバラを見つめました。

(ありがとう気づいてくれて。私を見てくれたのは、おじいさんだけよ)

「フォッ、フォッ、フォッ」

おじいさんは、しわがれた声で笑いました。

「だって、みんないそがしいのさ。こんなにゆっくり歩く者は他にいやしない」

(あら。みんな感性が鈍いのよ)

バラの妖精はつんと澄ましました。

「みんな仕事があるのさ。私はね、もうくたくたになってしまったから、早く天国の神様がお迎えに来てくれないかなって思うんだよ」

おじいさんはそう言うと、ぼんやりと空を見ました。

(ばかねぇ、おじいさん。くたくたのおじいさんなら、大きな鳥になって空を飛びたいなんて、考えないものよ)

バラの妖精は、くすくす笑いました。

(去年はおじいさん、おばあさんに車椅子を押してもらいながら、私にこう言ったのよ。また歩けるようになりたいなぁって)

妖精の声は、きらきらと星が降り注ぐときみたいな優しい音色でした。

「そうだったかなぁ」

おじいさんは、ちょっとうれしくなりました。

(それが今年は飛べるようになりたいだなんて、おじいさんはまるで、こどもみたいに大きな夢をもっているってことよ)

「フォッ、フォッ、フォッ・・・。そうかなぁ」

おじいさんはすっかりうれしくなって、曲がった背中を伸ばして、また歩き始めました。

少し歩くと、後ろから大きなトラックが猛スピードで走ってきました。おじいさんはおそろしくなって、お隣のお隣の吉野さんの家のフェンスにつかまりました。

「ああ、おっかない。あんなに飛ばさなくてもいいのになぁ」

おじいさんは排気ガスと砂ぼこりに、顔をしかめました。

(ハハハ、よく言うよ。おじいさんだって、もっとスピードを出していたじゃないか)

どこからか、声がしました。

良く見ると、フェンスの向こうに停まっている車の屋根に、小さなサクランボの王子が立っていました。

「やぁ、こんにちは。元気かい」

(元気だよ。ツルじいさんがまだうんと若くって、いそがしい大工さんだったころ、トラックに木をいっぱい積んで、この道を、びゅんびゅん飛ばしてたっけ)

おじいさんは、急に顔つきが引き締まって、桜の葉っぱの隙間から見える青空の、もっと向こうを、にらみつけるように見ました。

荒っぽい男だった。日焼けした顔で笑うと、真っ白い歯が並んでいた。俺に建てられないものはなかったよ。神社の修復だって、俺がやったんだもの。

だけど今は・・・、この様だ。

おじいさんはすっかり細くなって、ぶかぶかになったズボンや、しわしわになった手や、あめ色の杖を見下ろしました。

(あー、かっこよかったなぁ。いつもツルじいさんは屋根の上をすたすた歩いていてさ。アッと言う間に家を建てちゃうのさ)

すーっと風が吹いて、それはシルクみたいに、やわらかくおじいさんの頬をなでました。

「フォッ、フォッ、フォッ。なんだい、見てたか」

「当たり前さ。町中に聞こえるくらい大きな声で指示を出してさ。大笑いしてさ。みんなツルじいさんを見てたよ」

王子の声は、小川を水が流れる時みたいに、清らかでした。おじいさんは、心が少し安らぎました。

「懐かしいなぁ。私はこの街で、たくさんのうちを建てた」

おじいさんは、自分が建てた吉野さんの家を見上げました。

「そうだよ。とてもいい家だから、四十年建ってもこんなに立派だって、旦那さんも奥さんも喜んでいるよ」

サクランボの王子は、仲間達とフロントガラスですべり台ごっこをして遊び始めました。

ころころころころ・・・。滑ってはまた上り、とても楽しそうです。

「だけど・・・。仕事ができないのは、さみしいものさ。家が無理なら置きものでも作ろうと思ったら、去年、脚を怪我してしまった。ああ情けないことだよ」

おじいさんは、キリを刺してしまった左脚のふとももをさすりました。

(なにいってんだい、ツルじいさん。おじいさんには、僕達とお話ができる力があるじゃないか。みんな僕達に気づかないのにね)

「フォッ、フォッ、フォッ・・・。そうかなぁ、ありがとうよ」

おじいさんは、にっこりして、王子たちに手をあげました。そしてまた、すっと背中を伸ばして、ゆっくりと歩き出しました。

ツルじいさんは、やっと公園に着きました。ほっとして、いつものように、樫の木の下のベンチに腰掛けました。杖の上に両手をのせて、

「ああ、やれやれ」

と、言いました。

わずかに汗ばんで、初夏の風がそれを乾かしてくれました。

公園では、学校から帰った小学生の男の子達が、野球をしていました。

上手な子、まあまあの子、苦手な子、色んな子がいました。

砂場では、若いお母さんと赤ちゃんという組み合わせが、四組いました。

「いいなぁ、みんな。まだまだこれからだぞ。色んなことがあるな。いいこと、悪いこと、いっぱいある。もう私は、野球も、こどもを育てることも、終わりだ。でもなぁ、ここまで生きてみると・・・」

その時、大きな身体の男の子がカーン、と大きなフライを打って、その球が、おじいさんの頭を超えていきました。

「すごいなぁ、あの子は。誰の孫かなぁ。ほれ、回れ、回れ、走れ、走れ」

おじいさんは、左手を杖に置いたまま、右の手をあっちいけをするみたいに動かしました。

男の子は、一塁、二塁、三塁を回って、ホームに滑り込みました。

「よしよし。いいぞ」

おじいさんは、手を叩きました。杖が転がりました。だけどそんなことは気にしませんでした。

「すごいなぁ」

おじいさんは、まるで自分が野球をしたみたいに、せいせいした顔でため息をつくと、腰をかがめて杖を拾いました。

そして、また杖に両手を置いていると、うとうとしてきました。温かな五月の太陽が、おじいさんのまぶたを、バラ色に染めました。

夢の中で、おじいさんは空を飛び、家を作り、そしてホームランを打って走りました。

(鶴ちゃん)

誰かが優しく呼ぶ声で、おじいさんは、目を開けました。

もう公園には、誰もいませんでした。

(鶴ちゃん、そんなところで寝たらだめだよ。早く家に帰りなさい)

見上げると、大きな樫の木の長老が、微笑んでいました。

「・・・うん」

おじいさんは素敵だった夢を、かみしめていました。

「やぁ、こんにちは、樫の木のおじいさん。あなたに鶴ちゃんって呼ばれると、なんだか幸せだ」

(当たり前さ。わしは、あんたのおじいさんも、そのまたおじいさんも、そのまたおじいさんも、・・ずっとずっと、ここで見守ってきたんだ)

「そうか・・・。ありがとう」

(あんたは・・・野球がうまいガキ大将だった)

おじいさんは立ち上がると、背中をピンと伸ばしました。

「そうだったかな」

照れくさそうに笑うと、樫の木に手を振って歩き出しました。


「ただいま」

玄関の扉を開けると、おばあさんが、ニコニコと出てきます。

「おかえり、おじいさん」

おじいさんは、杖をおばあさんに渡します。

「楽しかったよ」

おじいさんは、玄関の上がりかまちに座って、靴を脱ぎました。

「おじいさんは散歩から帰ってくると、若くなるねぇ」

おばあさんは、下駄箱につけた金具に、杖をかけながら言いました。

「そうさ。みんなが私に優しくしてくれるからね。うれしいのさ」

おじいさんは、大仕事を終えたみたいな顔で言いました。

「まぁ、たったの五十メートル歩くだけで、そんなに色んな方に会うものなのねぇ」

おばあさんは、おじいさんの少し若返った横顔を、まぶしそうに眺めました。

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