第5話 俺の朝めし

例5 毎朝、電車に飛び込もうかと考えている男の話だ。。


カラスが鳴いている。

はしゃぐような澄んだ声、諭すようなしわがれた声、愚痴るように語尾を伸ばす声、あるいは抗議のようなスタッカート風もある。


朝とは思えない暗闇の中、彼らには議論すべき問題が山積みになっているらしい。

俺はかじかんだ手を、もうひとつの手で温めながら、いつものファストフードの店に入った。


「いらっしゃいませ、おはようございます」


早起き顔というよりは、徹夜明けの顔をしている。

六時まで勤務をするはずの青年が、最後の力を振り絞って俺に笑いかけてくれる。

それなりのぬくもりが、俺を包む。


「いつもの」と俺が言うと、

「Aセットでよろしかったでしょうか」と青年が言う。

トレイの上に、ハンバーガーと、野菜サラダと、コーヒーが置かれる。三百円を払い、誰もいない二階のテーブル席に座った。


ふにゃふにゃしたパンや油っぽい肉もどきは、おいしくはない。だが仕方がない。

レタスをリスみたいに大事そうに食べて、寒さのせいですぐにぬるくなっていこうとするコーヒーをせわしなく飲んだ。


わずかに、身体の内側が温まってくる。そしていつものように目につく、このメッセージ。

『学習はしないでください』

この店は、ありとあらゆるところに、9ミリテープのテプラでこう表示している。

9ミリだとすぐにわかるところが、いかにも庶務課の俺らしい。

テーブル、椅子、階段の壁、トイレのドア、そして、鏡にまで貼られている。

学習は、しないでください。


まぁいい。俺はこの店に感謝をしても、文句を言う筋合いはない。

こんな早朝から、あかの他人に、たったの三百円で朝めしを出してくれる。

家よりずっと広くて清潔なトイレと、歯磨きをする洗面台を貸してもらう。


疲れがピークになっているはずのアルバイトの青年が、精一杯の

「いってらっしゃいませ」を言ってくれる。

もう何年間も。


さて、トイレに、と思って立ち上がりかけた時、めずらしく別の客が階段を上がってきた。

「ふざけんなよなぁ」

髪を金色に染めた若い男が、Aセットが載ったトレイを乱暴に置いた。

「死ぬ時くらい、他人に迷惑かけるなよ」

横長のボストンバッグが、床を埋めていく。大学のゼミ合宿か何かだろうか。

男の五人組だった。


「そんなに死にたいなら、穴を掘って墓に入っちまえ」


俺はその言葉に、ギクッとした。


最後に入ってきた童顔の男は、唯一の先客である俺を気にして苦笑いした。

「死にたい奴に、穴を掘るようなパワーはねぇよ」

金髪が、「だよなー」と言って笑った。

そして、ソフトドリンクのストローをくわえながら、携帯電話を取り出した。


「運転再開は一時間後か」

「新幹線には間に合うぜ」。

若者達は親指ひとつで情報を得る。

魔法使いみたいだ。


「あの、もしかして、人身事故かい?」

 俺は少し早口になって聞いた。


「あ、はい。調布だそうです」

 金髪男は、姿勢をただして、はきはきと答えた。


「参ったなぁ・・・」

「迷惑ですよ」

「京王線は人身事故がないっていうから、この沿線に家を買ったのになぁ」


俺はそう言うと、『参った者同士』の共感で軽く笑みを交わし、トイレに向かった。

困ったなぁ、遅刻にならないといいのだが、と考えながらドアを開けようとして、ギクッとした。

鏡に映った俺は、やけにうれしそうだった。

安堵の表情をしていた。


几帳面になでつけた髪と、土色をした不健康そうな顔が、にやにやしていた。

俺は鏡を見据えた。すると向こうから意地の悪そうな男が言った。


(良かったなぁ。今日もお前の代わりに『学習しない』誰かが、やってくれたよ。こんな寒い朝に、お前の代わりに死んだんだ。感謝しろよ)。


俺は顔を背けた。

店を出ると、シュッと羽音がして、俺の頭の上をカラスがかすめて行った。

そして肉屋のシャッターの前に置かれていたゴミ袋に、ミサイルのように突っ込んだ。

低空から攻めて、両足が着地しないうちに、長いくちばしをブスリと刺した。

カラスは、頭を前後に激しく動かした。なりふり構わない、命賭けの動きに、俺は思わず見とれた。


カラスの身体は、黒々として、濡れたドレスをまとっているみたいだ。羽を震わせるようにして、生きるために朝めしを盗る姿を、俺はしばらく見ていた。一瞬も緊張を緩めることなく、学習をしているんだな。


俺は奥さんに朝ごはんを作ってもらえない、こんなにさびしい男だけど、人間でいるほうがずっと、楽かもしれないぞ。


ほらまた、やらない言い訳かい。

カラスがカッカッカッカッと、どこかで鳴いた。

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