外伝1 残された妻

第1話 残された妻


 男ってのは傲慢だ。

 私はそう思う。

 話すのが苦手とか、自分の想いを伝えるのは恥ずかしいとか、それは解る。

 だからといって、黙っていてそれが伝わることを期待するのは間違っている。


 旦那と仕事で組んでいる鳴滝という男に対する、初対面の感想はそんなものだった。

 旦那に紹介されて、仕事の相棒だって言われて。


 でもねぇ……。

 なんでそこまで、人の顔見ておどおどするのよ。


 仕事の相棒の奥さんに嫌われたくない、その一心で凍っているのは解る。

 そこに、私を女として見ていてというような、そんな感じはない。

 ただただ、人間関係での失敗を恐れて、自縄自縛でおどおどしているのだ。

 だからと言って、おどおど黙っていられたら、こっちだってますます困るというものだ。


 そして、こっちが困っているのと、おどおどしている自分に気がついて、ますます凍る。

 「ただ普通に、気候のことでも話してりゃいいのよ」

 その後も、何度か顔を合わせた際にはそう言ったものだ。

 でも、最後まで、その態度は変わらなかった。

 あれは一度だって女からモテたことはない、そういう種類の人間だよね。

 なんで旦那が、あんなのを相棒にしているのか、私には解らなかった。


 とはいえ、旦那の仕事の相棒だし、そうそう会うこともない。

 その人がどれほどコミュ障であっても、私が困ることはない。

 「好きほど困ってりゃいいのよ」と、そう思っていたんだ。




 それから何年か経って……。

 突然、旦那が死んだ。


 私は、まだ幼い子供の手を引いて、ただただ立ち尽くしていた。

 警察からは、旦那の遺体は見ないほうが良いと言われた。

 なんせ、手と足とを残して、轢き潰されてしまったから、と。

 でも、提供された髪の毛根からDNA鑑定は済んでいるから、と。


 朝食の後、いつものように出て行ったあの人を、私は見ていない。子供に朝食を食べさせていたからだ。

 単身赴任するかもなんて話もありはしたけど、それでも明日も、明後日も、ずーっと続いていくはずの繰り返しだったからだ。



 せめて、せめて、あの人の手だけでも見たかった。

 私を愛してくれた、その手だけでも。

 それを見ることが、どれほど残酷な事実を突きつけることかも解っている。

 でも、それでも、その手だけでも……。


 そう泣きじゃくる私に、「だめだ」と明確な拒絶を突きつけたのは、警察官でも検死の人でもなく、鳴滝だった。

 普段のおどおど具合が嘘のように消え失せて、「なにがあろうと見ない方がいい」と決めて、さっさと荼毘に付す手続きをしたのだ。

 旦那の両親も、ただただ呆然としている中で、鳴滝さん・・だけが流れる時間の中にいた。


 旦那との思い出の会社をさっさと処分し、廃業の手続きをし、仕事の材料の在庫処分から不動産の契約解除まですべてやってのけた。

 そして、驚くほどの金額を、相変わらずおどおどしながら私に差し出した。


 私は、その時初めて、旦那が鳴滝さんを買っていた理由を理解した。

 考えすぎて凍る、その考えの中には、こんな事態まで入っていたのだ。

 これでは、人と話せなくなるだろう。

 人付き合いも辛くなるだろう。

 人と笑い合う、それすらできなくなるだろう。


 私だって、旦那の会社の規模は知っている。

 それを処分して、ここまでの金額が得られるはずがないのも判る。

 会社の処分と並行して、来ていた仕事をすべて独りでこなし、その報酬の全額と、おそらくは自分が生きていくに必要であろう、退職金に相当するものまですべてを差し出していることくらい、私にも判る。



 「こんなに受け取れない」

 そう言う私に、鳴滝さんはぼそぼそと「あって困るものじゃないですから……」と、そう呟くように言って、玄関から振り向きもせずに去っていった。

 呼び止めても呼び止めても、まるで逃げるように。


 旦那が、鳴滝さんを守りたかったってことが、ようやく理解できた。

 この人は、この先どこかの会社で生きていけるんだろうか。

 再就職しても、良いようにこき使われ、やってもいない失態の責任を被せられて、最後は路頭に迷うんじゃないだろうか。


 この人は、善良過ぎる。

 人の痛みを見ていられない、そのためにはなんでもしようっていう人なのは解る。

 それでもやはり、大部分の女はこの人を選ぶまい。

 この人と一緒にいて得られる幸せは、常に危なっかしい。

 誰でもそう感じるはずだ。

 稼ぎがあって、鳴滝さんを全面的に面倒見られる女性であれば別だろうけど、そういう女はやはりこの人を選ばないだろう。




 鳴滝さんを、拾ってくれる意思を持つ会社が複数あるのは聞いた。

 腕はいいらしい。

 早くて綺麗、ミスもないと。

 せめて、早く再就職してくれれば、私も安心して実家に戻れると思っていた。

 子供が小学校に入学するのを期に引っ越せれば、一番いいし。

 子供は子供で、保育園に友達がたくさんいたから、その子たちと引き離すのは可哀想だからね。


 でも、再就職の話は聞かないどころか、失踪したという話が出回りだした。

 意を決して、子供の手を引いて、鳴滝さんが自宅にしていたアパートを訪ねたこともあった。

 そこで見た、ポストからあふれ出た郵便物が、私を打ちのめした。

 旦那も鳴滝さんもいなくなったら、この街から私たちの痕跡が消えてしまう。

 そんな恐怖が、私を襲っていた。





 どれほどの恐怖を抱え込んでいても、子供はお腹を減らし、私にすべてを頼っている。

 このときほど、建築士という資格を持っているありがたさを感じたことはない。

 担当する仕事を減らして貰い、期間限定であってもほぼ6時間勤務という温情をかけてもらえたのも、資格のおかげだ。

 そうはいっても、必死で仕事もこなして、ようやく旦那の死から3ヶ月ほど経ったころ……。

 なんとなく買い物のためにお金をおろした私は、残額を見て目を疑った。

 500万増えているのだ。


 振込人は鳴滝さん。

 私はその足で、再び鳴滝さんのアパートを訪ねた。

 でも、不在。

 アパートの大家さんが言うには、「1年くらい出張してくる」と言っていたと。


 それがどういうことか、私にも想像が付く。

 もはや、私にできることは、鳴滝さんの無事を天に祈ることだけだった。





 子供の小学校入学と引っ越しのタイミングを合わせるため、煩雑な手続きに追われる日々がやってきていた。

 母子家庭になってしまったので、ただでさえ多い手続きがさらに増えている。

 近いとはいえ、こちらと引越し先の往復の時間もバカにならない。


 そんな雑用に追いまくられる中で、ようやく旦那のことも泣かずに思い出せるようになってきた。

 この子は旦那の子。

 私に残された、旦那の子。

 なんとしても、きちんと育て上げなくちゃ、だからね。



 ある日仕事から帰ると、居間のテーブルの上に、茶色いゴツゴツした紙でできた封筒が置いてあった。

 さっき自分で玄関の鍵を開けて入ったのだから、ここに有っては可怪しいものだ。

 怖いと思わなかったと言えば、嘘になる。

 その一方で、たかが封筒、そして入っているのは紙。

 警察うんぬんより、好奇心に負けてそれを見たのも、まぁ、当然のこと。


 「覚えているか?

 俺が先に死んだ時の約束。

 絶対、あの世から幽霊になってでも会いに行って、幽霊になれなくても連絡はするって約束だったよな。

 菜穂が、俺に約束させた件だ」


 そこまで読んだ私は、2LDKのうちを隅から隅まで探した。

 旦那が隠れていないかと思って。


 これ、旦那がプロポーズしてくれたときの会話だ。

 私の親は、早く亡くなった。

 だから、「私より長生きして」って、それがプロポーズを受けるときの条件だった。

 そして、やむを得ない事情で先に死ぬのならば、あの世から謝りに来いって。

 今となっては、私以外の誰も知らない会話。


 私は、旦那の手を見ていない。

 もしかしたら、旦那以外の誰かが死んでいて、旦那は生きているのかも……。


 今から考えれば、不審者が封筒を持ってきたことを考慮して、警察を呼ぶべきだったなんてことも思う。

 でもね、その時は必死だった。


 手紙は続いていた。

 ようやく座り込んで、続きを読み出す。

 「俺、今、別の世界で生きている。

 連絡まで時間を要したのは、手足を失う大怪我をして動けなかったからだ。

 その状況から助けてくれたのは、鳴滝だ。

 疑うことは多いと思う。

 この手紙に対して、『見た』とだけでも書いた紙を、元の茶色い封筒に入れてくれ。

 そして、しばらくその封筒を見ていてくれ。

 菜穂の前からその封筒が消えたら、なにが起きているか信じてもらえると思う」


 見ている前で、手品みたいに消えるって?

 バカはやめてよ。

 冗談じゃない。

 「ふざけるな!」

 私は、そう書いた紙を封筒に入れて、テーブルに放り出した。


 それから、12分後。

 封筒と同じ大きさに広がった炭の粉を残して、封筒は消えた。

 テーブルの上から絨毯にこぼれた炭の粉は相当に細かいらしく、掃除機で吸っても、叩きながら拭いても綺麗にはならなかった。

 


 私には理解できないことが起きている。

 これだけは判った。


 テーブルの、どこまでも細かい炭の粉をようやく拭き取ったものの、雑巾をすすいでも元のようには白くならない。

 諦めて、雑巾もゴミ箱に放り込む。

 そろそろ保育園に子供を迎えに行かないとだし、今日はピアノのお稽古の日だ。

 家を出なくてはならない。

 いない間に、またあの封筒が現れたらどうし……。


 現れたよ。

 滲み出るように、テーブルの上に。


 震える手で持ち上げると、今度はずっしりと重い。

 「返事はあとで書くからね。保育園にお迎え行かないと。

 封筒だけでもまた送って。今晩中に、返事書く」

 そう走り書きをした紙と、封筒の中身を入れ替える。

 何やらいろいろと出てきたけど、見ている余裕はない。

 もう、子供のお迎えの時間がぎりぎりだ。

 急がないと、保母さんたちに迷惑がかかってしまう。

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