第141話 その声はきっと、月まで届く。

 真っ暗で乱雑な部屋の真ん中で、鏑木は目を覚ました。先程まで見ていた白い世界との対比で、鏑木はしばらく目をしばたかせてぼーっと書類まみれのソファーに座り込んでいた。ゆっくりと鏑木は体を起こす。それと同時にいくつかの書類が埃と共に地面に落ちた。真っ暗で湿っぽい鏑木の作業室……その実態を兼ねて言うならば、自分で作った牢獄は整理整頓など当然されておらず、少し前に暴れ狂ったままの様子だった。


 乱れた書類、倒れた本立て、傾いたデスク。唯一道月からもらったマグカップだけが自然体で傾いたデスクの上に鎮座している。鏑木はヘッドギアを外してソファーに置くと、ふわふわとして覚束ない足取りでそれに向かって歩き出した。途中、やはりというか書類に足を取られそうになったが、鏑木は確かにマグカップを手の中におさめる。


「……」


 嵐が来たような、爆発でも起きたような暗い牢獄の中を、いくつかの壁付けモニターが照らしていた。鏑木が視線を向けたモニターには全て『error』の文字が浮かんでいる。きっとその文字の向こうには自分の分身であったワールドボス達が静止しているのだろう。


「僕は……本当に酷いことをした」


 道月との話し方を知るために、自分の感情を読み取って機械に反映し、そうしてできた彼らに最低のことをしてきた。外道と罵られても、鏑木は項垂うなだれることしかできない。

 レグルとテラロッサの仲を引き裂いた。スピカを孤独の箱の中に押し込めた。アドニスに至っては……彼に記憶がないことを良いことに、『僕』という存在を押し付けて適切な絶望を投げつけていたのだ。


 いくら僕が追い詰められていたって、許されることではない。


「謝って許されることじゃないってのは……分かってる。けど、ライチが言っていたように……言わなきゃきっと伝わらない」


 鏑木はマグカップをデスクに戻して、エラーを吐くモニターに深々と頭を下げた。そうして、本当にすまなかった、と謝罪の言葉を世界の向こう側に伝える。

 長々と下げた頭を持ち上げた鏑木の目は、これまでの泥のような瞳から打って変わって、黒曜石のような光を内包していた。その光こそが彼にとっての希望であって、感謝してもしたりないライチから受け取った『variant rhetoric』の証明だ。


 その光を宿した彼は、行かねば、と呟いた。いつまでもここには居られない。僕には行くべき場所がある。行かなければならない。……彼女の元へ、きっと。


 鏑木は背筋を伸ばして、モニターに背中を向けた。暗い世界を、鏑木は前へ進む。ずっと……かれこれ6ヶ月は籠り続けた、彼女との思い出の牢獄――鏑木の別荘から抜け出すために。

 そして、彼は部屋のドアノブに手をかけて……ゆっくりと押し開けた。


「もう二度と、ここには戻らない」


 外の空気を久々に肺に詰めながら、鏑木は外の景色に目を細め……早足で歩き出す。


 病院の場所は知っている。嫌というほど脳に刻まれている。だから目的地に進むだけだ。いつか彼女に会う日を思って、身なりだけは清潔にしていた鏑木は、本当に久し振りな外の風景に上擦った声を出した。


 あんなビル、あっただろうか。あの店は潰れたのだろうか。道がきれいに舗装されているな。家の庭は荒れ放題になっている。結と行った公園はどうなっているだろうか。


 変わりすぎた世界に目を丸くしながら、鏑木は病院への道を進む。一歩一歩地面を踏みしめる度に、鼓動が高鳴った。怖い。あれだけ強い決意を抱いても、それでもしつこく心の中の無能は天才の足にしがみついていた。

 彼女の暗い瞳が、何かを信じるような微笑が、堪らなく怖いのだ。それは鏑木がすべてを失敗した成れの果てだから。無能の証明だから。


 たった数文字の言葉が言えれば防げた結果が、呆然と立ち塞がっている。一瞬、鏑木は自分の体が硬直するのを感じた。しかし、その硬直はすぐさま強い力にほどかれる。


 ――まだ、間に合う。


 鏑木の目は、確かに決意の光を宿していた。彼は遠くから見てきた。ライチの旅の軌跡を。何度も言葉の足りなさに辛酸を舐め、苦しみ、もがいた彼らを。

 だから、鏑木は動けるのだ。まだだ。まだ、僕は間に合う。きっと、彼女を救える。この言葉さえ……伝われば。


「だから――もう、怖くない」


 鏑木の心に纏わりついていた小さな無能は、いつの間にか口をつぐんでいた。踏みしめる足に震えは無く、吐息には燃えたぎる意志がキラキラとちらついていた。


 確かな足取りで病院に着いた鏑木は、手続きを済ませて道月の病室に向かう。その道を歩くだけで、どうしようもない無力感が鏑木を襲おうとするが、それらは全て彼の心の中に仁王立ちする銀の騎士の盾に弾かれて、追い返されていた。


「ここが、道月結さんの病室です」


 6ヶ月前と変わらない部屋。看護師が案内を終えてそそくさと去っていく。その背中をそっと見送った鏑木は、ベージュの扉に視線を戻した。当然、中からは何も聞こえない。


 ――6ヶ月だ。


 6ヶ月もの間、道月結は音も光もない世界で病室に居た。筋肉を維持する為のリハビリはきっとあっただろうが、それも誰とも知らない誰かによって押し付けられただけだ。

 彼女はずっと一人ぼっちだった。ずっとずっと……待っていた。誰を、なんてそんな野暮なことは説明しなくていいはずだ。


「6ヶ月……君を待たせてしまったよ」 


 そう呟いて、鏑木は深く呼吸をし……堂々と病室の扉を開けた。


「……」


「……」


 真っ白な病室。消毒剤の独特な匂い、分厚いカーテン、微かにゴムの香りが潜む部屋のベッドに、道月結は変わらずに寝そべっていた。

 鏑木が久々に見た彼女の姿は、ほんの少し痩せていた。それが、鏑木が再び歩き出すまでの時間の長さであり、代償だ。  


 白いベッドの上で虚空を見つめる道月は、ダークブラウンの瞳を細め、桜色の薄い唇を和らげて、やはり微笑んでいた。鏑木を心底絶望させた、壁一枚隔てた笑み。


 鏑木は、病室に一歩踏み込んで……立ち止まってしまった。真後ろで病室の扉が閉まって、余計な音が消える。道月は変わらなかった。変わらずに微笑んでいた。


 きっと君は、私を見つけてくれるから。


 それだけを信じて、気の狂う程の暗闇を、絶望を、彼女はたった一人で6ヶ月の間微笑み続けた。いつか自分と向き合った彼に、暗い顔なんて見せたくなかったのだ。



 鏑木は、言葉を失って立ち尽くす。勇気を、意志を振り絞ってここまで歩いてきた。だが、どうしたことか。この両足と唇は、この時をもって機能を停止し、語りかける言葉の一つも見当たらない。


 怖いのではない。緊張しているのでもない。そんな軽い感情では、鏑木の決意は揺らがない。では、その鋼鉄のような決意を震わせたのは何か。


「結……」


 鏑木は、思わず声を漏らした。できることなら、そのまま両手で口を覆いたかった。鏑木の視線の先の道月は、相変わらず彼を待って笑っている。


 けれど、その笑みは――確かに、陰りを宿していた。


 不安、疲労、絶望、悲しみ。それら全てを抑圧して描かれる彼女の笑みは、鏑木の目にはどうしても疲れきっているように見えるのだ。無理をして、笑っている。あの道月が。朗らかに笑って太陽よりも明るく微笑んだ彼女が……こんな疲れた笑みを。


 鏑木は震えた。当たり前だ。当たり前の事なのだ。目が見えないなりに頑張って頑張って、頑張り抜いた先の音の喪失。一番絶望に身をうちひしがれているのは、道月なのだ。

 それなのに、自分は何をしていたのか。ずっと彼女を一人にして、自分の気持ちが決まるまで待たせ続けていた。


 最低だ。


 彼女をあれだけ好いていながら、一番苦しんでいる時に寄り添わずに壊れていた。自分が情けなかった。世界で一番卑怯な男のように思った。


「結……すまない……本当に、本当に……」


 鏑木は震えた声で何度も謝罪を口にしながら、一歩ずつ道月に歩み寄った。疲れた微笑みを浮かべ続ける、健気な少女に、鏑木は心の内をズタズタに切り裂かれながら前に進む。


「僕は君を、待たせ過ぎた」


 鏑木はそう呟いて、一歩進む。小さな、震えた一歩だった。


「この気持ちを伝えられなくて、君を傷つけて……伝えるためにまた、君を傷つけてしまった」


「……」


「なぁ、結。僕の言葉を、たった一言でだっていいから……聞いていてくれないか?嘘も偽りもない、僕の心を吐き出してもいいか?」


「……」


 鏑木は、ようやく道月の側に立った。きっとここまでの数メートルが、断崖を隔てた先のようだった。それを踏み越えた鏑木に、ようやく道月が気がつく。鏑木の発した言葉が空気を揺らし、道月の皮膚に届いたのだ。とはいえ、誰だかなんてさっぱり知らない道月は、ハッとした顔で微笑みを解いて声の主を見上げた。


 道月の瞳は、やはり検討違いの場所を見つめていて、彼女は取り繕った笑顔で歓迎するように言った。


「えーと、こんにちわ?こんばんわ?まあ、どっちでもいいよね。八崎くん?お母さん?それともせんせ――」


「結」


 君のそんな顔は見たくない。彼女の言葉を一文字で切り裂いて、鏑木は道月の両頬に手を伸ばして自分の瞳を重ねられるように彼女の顔を動かした。急に触れられたことに道月はひゃっ、と可愛いげのある声を漏らす。

 驚きに見開かれた黄昏の瞳は、やはり何度見ても鏑木の心を奪う。心酔させて、縛り上げて、そっと奥の奥まで見透かしている。深い色合いのそれをじっと見つめて、鏑木は告げた。


 二年半の月日と、半年の空白を共にしてきた、堪らないほどの愛を。


「僕は君が――好きだ」


「……」


「君が、大好きだ。君とずっと一緒で居たい。君の笑顔が見たいんだ」


「……?」


「君が聞こえなくても、僕は何度だって言うよ。君の名前を何度だって言って、同じ数だけ好きだって言う」


 首を傾げる道月に怯むこと無く、鏑木は続けた。何度だって告げた。君が好きだと、愛してるんだと。ずっと言えなかった名前を何度も呼んで、深い色合いの瞳に……暗い世界にきっと届くように、鏑木は何度も言った。


「好きだ」


「……」


「君の笑顔も、声も……何もかもが好きなんだ」


「……」


「君の笑顔を見るだけで僕は舞い上がってしまって、いつも仕事が手につかなかったんだよ」


「……」


「君と外に遊びに出るだけで堪らなく嬉しくて、いつも眠れなくなったんだ」


「……」


「だから、さ……もう一度、僕に笑ってくれないか?僕に喋りかけてくれないか?そしたらきっと、その笑顔のお返しに――」


 ――君をずっと、幸せにしてみせるから。


 鏑木はいつの間にか泣いていた。昂った感情が溢れたのか、積み重なった思いが形を成して押し寄せたのか。あるいはそのどちらともに起因する涙を、鏑木は流していた。大粒の涙が鏑木の頬を伝って、ベッドのシーツに染みを残す。

 彼の一世一代の告白を、長い長い愛の囁きを受けた道月は――



 ――じっと鏑木を見つめて、涙を溢した。



 彼女には何も聞こえていない。何も見えていない。それは確かなのに、それなのに彼女は泣いていた。溢れた涙が鏑木の両手に触れる。道月自身も、どうして自分が泣いているのか分からないようで、困惑しながら声を漏らす。 


「え……?……えーっとね、これは……その……あれ?……あはは、ごめんね……なんでなのか私にも良く、分からないんだけ……ど……涙が……止まらないんだ」


 どうしてだろうね、と困り顔に笑みを重ねて、道月は泣いていた。聞こえていない筈の言葉は、確かに見えない響きを持って、箱の中の撫子に触れた。それは温かく、真っ直ぐで、誠実な響きを含んでいた。


 混じりけの無い愛だった。正面からの愛だった。


 綺麗な、綺麗な涙を流しながら、道月の細い指先がゆっくりと鏑木の頬に伸びる。それは優しく彼の頬をさすって、涙を拭い……そして止まった。


 道月結は目が見えない。耳も聴こえない。けれど指先の感覚だけは、確かに持っていた。真っ暗な世界で控えめに触れた頬に、覚えがある。道月はハッと息を飲んで、鏑木に触れた。


 白く繊細な指先が鏑木の頬を撫でて、そのままスススと顎のラインをなぞる。細い指先が鏑木の整った鼻筋をなぞり、控えめに唇をなぞって、瞼の上を滑っていく。


 その度に、暗い世界に……黒だけの世界に白が生まれた。それは整った鼻筋と、少しつり上がった二重の瞳をしていて、けれど口元には優しさが見える。


 触れる度に分かる。黒い世界に白い線が引かれて、それはいつか触れた彼の顔を形作った。何もない世界で、涙を流す鏑木が……道月が待ち続けた彼の瞳が、確かに道月自身を見つめていた。

 驚きと喜びと、その他諸々のあらゆる感情が道月の体をこみ上げて、あぁ……と声にならない声になった。


「ねぇ……知ってるよ。私、君の事を知ってる。うん、うん……間違いないよ。だって、私、一度見たもん。君に触れて――確かに私は、本物の君を見たんだ」


 今度は鏑木が驚く番だった。目を見開くモノクロの鏑木に、道月はあはは、と笑いかけた。その笑顔は、あらゆる闇を振り払う色をしていた。長い年月も、狭い世界も、残酷な運命も、その笑顔の前では頭を垂れて、ひれ伏してしまうような笑みだった。


 そう、それはきっと鏑木にとっての――太陽のような、懐かしくも眩しい、その笑みだった。


「やっと……来てくれたんだね。シュウ君」


 ああ、ああ、と鏑木は全身を震わせて言った。体が震えて止まらなかった。彼女の手のひらの熱が心地よかった。そしていつか見たその笑みが……声が、ようやくもう一度鏑木に向けられていた。

 この時確かに、二人は見つめあった。何も見えていないのに、何も聞こえていないのに、二人の視線は確かに重なりあい、心が通っていた。


 見つめ合う二人の間で見えない会話が成立し、鏑木がゆっくりと道月の顎に手を添えて――優しくその唇を奪った。


 長く、長く……そして甘い。長いキスを終えた道月が、涙を溢れさせながら言った。


「……遅いよ……遅刻だよ、シュウ君」


 鏑木はすまないと泣きながら笑って、道月に向かって言った。『variant rhetoric』にのっとって、力強く、誠実で……素直な言葉を。


「本当に、遅くなってすまない。……もう、離さないよ」


 その言葉を言い終えるのと同時に、鏑木は道月を抱き締めて、道月は鏑木を抱き締めた。そして、二人はもう一度唇を合わせた。おかえりとただいまと……今まで言えなかったあらゆる言葉を清算するように、長く。




 ――――――――――



 道月の病室の前で、一人の男が壁を背にして佇んでいた。その額には大量の汗が滴っており、未だに息は荒い。その男は、看護師に告げられた『先に面会している方がいらっしゃいますよ』という言葉を思い出して、荒い息のままで笑った。


「プレイヤーが全員弾かれたって聞いて、なんとなく察してたよ」 


 男――八崎誠一郎は額の汗を拭いながら朗らかに笑う。ここ半年、ずっと気難しい顔をしていた彼は、ようやく年相応の笑顔を大きく咲かせた。


「……良かった」


 君が、結さんに向き合ってくれて。ベージュの扉を見つめながら、八崎はそう言った。ゲームは依然として動かず、各方面から不満の声が上がっている。けれど、そんなことは欠片ほども気にしていない笑みで、八崎は言った。


「大丈夫、俺に任せてくれ。あの日の事故がこれで精算されるだなんて、思ってないけど……」


 せめて、二人の間に邪魔だけは入れさせない。そう心に決めて、八崎は元来た道を戻っていく。各方面への謝罪。ユーザーへの説明、ゲームの速やかな再開。

 そんな頭の痛くなる事ばかりのこれからに向けて、八崎は高らかに笑った。  


 君達の行く先に祝福を、最後に小さくそう言い残して。

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