第135話 遥かな旅路から、終わりの墓標へ

「……まだかなぁ」


 白を基調とした病室に、一人の女性の声が響いた。僅かに不安の滲んだ声に呼応して、病室の空いた窓からひんやりとした風が吹き込んできた。白いカーテンが陽光を浴びて尚更白く光る。

 病室のベッドに横たわる女性は、ふわぁ……と小さく息を吐いた。彼女はその後暇をもて余し、白い指先で肩口の茶髪をくるくると巻き付けて時間を潰していた。


 そんな女性の視線はゆらゆらと白い病室の天井をさまよっており、長いまつげが瞬きと同時にはらりと揺れる。暇な時間を埋めるために、女性は鼻唄を歌い始めた。誰も居ない病室に、少し外れた音調の鼻唄が響く。パタパタと、途中で拍手でもするかのようにカーテンがはためいた。


 しばらく鼻唄を歌った女性は、少しの間ぼーっと虚空を見つめ、続いて冬の風が吹き込む窓の方を見た。そして小さく囁く。誰にも聞こえない言葉を。


「私、シュウ君のことが……好きだよ」


 空虚な反射をした声に合わせるようにして、女性は続ける。


「だから、待ってるね。君が、私の目を見てくれる……その日まで」


 また鼻唄が始まった。誰も居ない、来ることの無い病室で、されど女性は迷うことなく待ち続ける。自分でも確証の持てない言葉を両手に、背中を向けた愛する人をひたすらに待ち続ける。


「シュウ君は不器用だけど、頑張り屋さんだもんね……」


 いつかきっと……彼ならば大丈夫だと、そう信じて。



 ――――――――



 通学路を、登校とは逆に逆戻っていく。冬至が近づいて、太陽が段々とせっかちになっていた。意味もなく向けた視線の先には、茜色の空が広がっている。

 赤みの差したコンクリートを踏みしめる靴の音は一人分だけだ。


 結局、晴人は学校に来なかった。理由は分からない。休み時間に何度もメールを送ってみたが、既読すら付かない。もしかしたら何か重大な事態が起きたのかもしれない、と一瞬思ったが、晴人なら大抵の事態は自力で越えてしまうだろう。それこそアイツが滅多にかからない風邪にでもならない限り……風邪になったら連絡が学校に行くだろうしなぁ。


「わからん」


 晴人の家は知っているし、乗り込んでも良いが……俺には俺で事情がある。やむにやまれぬというか、差し迫った事情が。これを置いてきぼりにしていくわけにはいかない。例えゲームの中の事だろうと、俺にとっては現実と同じくらい大切なことなのだ。それに、つい先日これがただのゲームではないと分かった。


 鏑木柊。variant rhetoricの世界を産み出した男であり、ワールドボスを自分の心から創造した謎の男。俺には彼の事などさっぱりだし、なんならどうしてこのゲームを作ったのかさえ分からない。

 けれど、やらなければならないのだ。俺はどうやら彼の求める『variant rhetoric』を持っている。そして、それを彼に提示しなければ速やかに世界は滅びるだろう。


 冷えた通学路を歩きながらスマホを見る。よし、時間は大丈夫だ。母さんに早めの夕食を依頼して、課題は……しょうがないから放置で良いだろう。大丈夫、明日早く起きてやれば良いはずだ。

 最近の睡眠時間が悲惨な数値になっているだろうが、それもきっと今日で終わる。


 何もかもが、今日に収束する。


 はぁ、と白い息を吐き出して、駆け足で家に向かった。太陽は沈んでいく。月が輝き出す。星が煌めいて、空が夜の顔を見せる。そんな中を、俺なりの『意思』を込めて走った。



 ―――――――――



【Variant rhetoricにログインします】


【  】


 瞳を開くと、ひたすらに青い空が広がっていた。どうにも体に違和感があって、見下ろすと真っ黒な体が目に入った。見慣れたルーン・ライヴスの体ではなく、初期化されたシャドウスピリットの体だ。

装備も何もかもを失った体は二つの意味で軽く、そしてその軽さがもの悲しい。


 せめて装備だけでも帰ってくれば、と思いつつ起こして海面に立つと、ひたすらに青い平行線が広がっていた。アドニスは何処だと視線を振ると、俺の後ろから声が響いた。


「少し早いな」


「待ち合わせには早めに来るタイプなんだ……え?」


 なんとか体を後ろに向けると、そこにはアドニスが居た。前回の最後に見たままの姿で……何やら物々しい装飾の施された三メートル程の大きな扉の隣に立っている。さらに、アドニスの隣にはどうしたらいいか困っているスピカが居た。


「えーっと、聞きたいことが二点ほどあるんだが……」


「ああ、大丈夫だ。説明する」


「えへへ……なんだか格好がつかないよ」


 スピカは緊張からか白いツインテールを弄ってオッドアイを宙にさ迷わせていた。アドニスは俺とスピカの様子に首を傾げながら扉を指差した。それは黒鉄で出来た重厚な二枚の扉で、薔薇と羽の装飾が施されていた。

 青がひたすらに満ちているこの場所で、その扉は殊更違和感を醸し出しており、その周辺だけ空気が変わっているようにすら思える。


「これは『審判の門』だ。この先に、彼が居る」


「……」


「スピカはね、この扉に呼ばれてきたの。なんだか懐かしいって気持ちになって、いつの間にかここに来てたんだ」


 テラロッサの言葉が脳裏に過る。アドニスが門番で、スピカが鍵……。アドニスが守っていたのがこの門で、スピカがそれを開ける鍵という事なのだろう。

 アドニスが一度空を見上げて、そのあとに俺に鋭い視線を向けた。


「この先に進めば、君はもう今の世界に戻れない。戻るときには世界が終わっているか、世界が救われているかのどちらかだからだ」


「……結末は2つだけか」


「そうだ」


 俺の言葉にアドニスは頷いた。難しい顔をする俺たちに、スピカが首を傾げていた。彼女にしてみれば、何がなんだかさっぱりなのだろう。自分の素性を空の姫だと確信しているスピカはきっと、扉のことも『彼』のこともきっと知らない。

 けれど、彼女はこの場に無くてはならないのだ。全ての収束する扉の向こうへ行くには、スピカの力を借りなくてはならない。


「アドニス……スピカはどうすればいいの?」


「簡単だよ、スピカ。ライチの手を握ったまま扉に触って、彼の事を思い浮かべればいい」


「……あの子のこと……」


 スピカは渋い顔をした。彼女にはあまり似合わない表情だ。けれど、それもしょうがないだろう。スピカは鏑木のせいで長い長い孤独を味わったのだ。ほんの少しであろうと、そんな奴のことを考えるというのは長々心に来る。

 彼女は少しの間考え込むように目を閉じて、アドニスに聞いた。


「そうしたら、みんなは……王子様は、助かるの? スピカは、アイゲウスが怒ってるのが分かるよ。テラロッサもレグルも、二人とも一生懸命話し合ってる」


 不安のにじむ表情で、スピカは続ける。


「エルフも人間も、動物も魔物も……星だってみんな怖がってるの。みんな……戦ってる。スピカは嫌だよ。誰も傷ついて欲しくないんだもん」


 空から地上を見下ろす彼女はきっとこの世界のすべてを見渡せる。怯える誰かも、傷つけあう戦いも、そのすべてを見下ろしていた。優しい彼女はきっと、そんな世界を見ているだけなんて嫌なのだろう。ずっと見つめるだけだったから。遠い世界で手を伸ばすこともできず、蹲っていたから。

 だから、もう立ち止まりたくはないのだろう。


 スピカの言葉を聞いたアドニスは一瞬俺に視線を送って、力強く頷いた。


「ああ。きっと助かるよ。彼が、ライチが……全部を終わらせてくれる」


 ここに来て俺なのか。いや、当たり前だ。俺は傍観者ではなく当事者なのだ。俺が進まなければならない。そこに何があるか知れずとも、目の前が一面闇だろうと、どうにか進まなければならないのだ。

 だから、進めるかどうか分からない……そんな不確定の不安を大きく飲み込んで、スピカに向けて大きく頷いた。


「任せてくれ。俺が、どうにかしてみる」


「……えへ、やっぱり王子様は格好いいよ……。うん、分かった。スピカ、頑張るよ。ライチを信じる」


 スピカは笑顔で俺に言葉を返してくれた。アドニスが軽くはにかみ、何かを言おうとした。――その瞬間、世界中を震わせるような咆哮が響き渡る。後の方角は……王都の方だ。

 それはガラスを引き裂くような、心底不快と恐怖を掻き立てる声音をしていた。


「今のは……一体」


「アイゲウスだよ……」


「ああ。……時間は、そんなに残っていないみたいだな」


 悲鳴のような、怒号のような絶叫に、アドニスは渋い顔をした。この声が堕落の物というのなら、世界は一体どうなってしまうのだろう。今までもレグルが世界を破壊すると言い放っていたが、ここまでの絶望を味わわせることはなかった。

 渋い顔のアドニスは一旦空を見上げ、小さく頷くとスピカに目配せをした。それを受け取ったスピカはハッとしたような表情になり、俺に声を掛けてくる。


「……王子様、手を貸して」


「分かった」


 神妙な顔のスピカが伸ばす左手を、不定形な指先で出来るだけ優しく取った。スピカは深呼吸をひとつすると、黒鉄の扉に向かい合う。


「……」


 そしてゆっくりと彼女は扉に右手を近づけ、音も無く触れた。その瞬間、世界が一瞬カクついて、何かの読み込みをしたように重くなった。全ての音や感覚が止まった中で、俺の中の何かが……『読み取られた』と形容する謎の感覚を覚えた。


 その奇妙な一瞬が過ぎた時、再び世界に音が戻り、それと同時にガコン! と鈍い音が扉から聞こえた。まるで幾つもの重厚な機構を丁寧に起動させたような音と共に、黒い扉が押し開いていく。

 開いた扉の向こう側は、一面塗りつぶされたように真っ暗だった。これほどの黒さは存在しないだろうと思えるほど、そこは全ての色を拒絶しており、無意識に恐怖を抱いてしまう。


 恐らく彼の事を思い浮かべたであろうスピカがかなり嫌そうな顔をしている。その横顔にありがとう、と声を掛ければ大慌てで大丈夫だよと返事がきた。


「えーっと……この先に行けば良いんだな?」


「ああ。今さらだが、全部を君に押し付けるようで……本当に申し訳ないと思っている」


「気にするな。俺が好きで人を助けてここに来たんだ。後悔なんてないよ」


 アドニスに向けて微笑みかけると、彼は少しだけ無表情を緩めて、後頼んだよ、と言った。俺はそれに頷いて、扉に向かい合う。


「さてさて……行ってきますか」


 自分に言い聞かせるようにそう言って、ゆっくりと扉の向こう側へと進んだ。後ろから心配そうなスピカの声と、それを宥めるアドニスの声が聞こえた。その声を心の灯火として、深い闇の中で更に前に進む。完全に闇の中へ入り込むと、後ろで扉が閉まるような音がして、それから世界に音という概念が消えた。


 自分の前方に目を凝らしても、そこには何もない。完全なる闇が続いているだけだ。自分の体の輪郭だけは、ロードと共に歩いた墓守の丘と同じようにはっきりと見える。

 それを確認して、俺はとにかく前に進んだ。それ以外の選択肢が無かったからだ。黒い闇の中を進む過程で、やはり音は聞こえなくなっていた。もしかしたら実際には流れていても俺自身に聞こえていないのかもしれない。


 そんな虚無の中をひたすら十分ほど歩き続けていると、段々と進むにつれて闇が薄くなっているのに気がついた。それは本当に地味な変化で、黒が段々と白に近づいて灰色のようになってからようやく気がついた。

 とはいえ、俺に何が出来るわけでもない。ひたすら歩くのは白の砂漠で経験済みだ。今更辛くなどない。進んでいる実感がある分こっちの方が遥かにマシだとさえ思える。


 歩けば歩くほど世界が白んでいく。段々とその白さは強さを上げていき、やがて純白とも言えるほどの白に変わった。雲の中を歩いているような感覚の中で、足を前に進めていた。


 一体何処までいくのだろうという疑問が俺の中で重さを持ち始めた時――世界が一瞬暗転した。それはまるで瞬きの間だけ気絶したような、数秒だけ眠ったような奇妙な状態で、それから目を覚ますと妙に体が軽かった。


「えーっと……うぉ、声が出る」


 一体なんだったのだと思わず声を出すと、問題なく声が出た。あわてて周囲を見回すと、灰色の体が目に入った。思わず体を見下ろすと、以前の体に戻っている。


「え?」


 元に戻った……のか? それにしては装備が帰ってこないので、ステータスを開いてみる。が、いつもは呼び出せたステータスが出てこない。それどころかメニューが出ず、もちろんログアウトも出来ない。


「……」


 こういう演出なのだろうと心を納得させて、不定形な足で一歩踏み出した。久々に見た俺の全身はカルナが例えた通り漂白されたカビのようだった。少し濁った白、もしくは白に近づいた灰色。どっちともとれるあやふやな体色だ。

 ルーン・ライヴスの体といえど、根幹はシャドウスピリットの時代から変化していない。地面から一本足で枝が生えたような姿だ。


 今と昔を素早く行き来してきたような、そんな不思議な感覚でとにかく前に進んでいった。懐かしいような、寂しいような思いをしつつ前を見ると……そこには小さな黒い点があった。手足を気にしながら歩いていたので、気がつくのが遅れたのだ。


「……なんだ?」


 取り敢えず近づこう。流石に敵ということはないだろう。ズズズと独特の音を立てながら体を前に進めていく。


 進めば進むほど、その黒い点が大きくなっていき、輪郭が明瞭になっていく。大分前に進んだときには、それが何を形作っているのか分かるようになった。


「人……?」


 一面真っ白な世界に、黒い人型。何処かで見たことがある景色だと思ったら、ルーン・ライヴスの進化の時に見た訳の分からない映像の最後の辺りだ。

 黒い人型が俺を見つめ、こう言っていた。


『いつか、僕を見つけてね』 


 ごくりと唾を飲む。アドニスは言った。この扉の先で彼が待っていると。そしてこうやって目の前に誰かしらが立っている。詰まる所……あの人型の影が鏑木柊なのだろう。

 どうやら何かしらのアバターを着ていると見て間違いないようだ。流石にリアルの姿そのままで来ることは無いか。


 途端に重くなった足を動かして、影に近づいていく。無い筈の心臓が高鳴って、緊張しているのがよく分かる。それでもゆっくり近づいて……五メートルまで近づいたとき、黒い影はピクリと動いた。どうやら……確信は持てないがこちらに背中を向けているようだ。動きを止めた俺に対して、影は同じく動くことなく声を出した。


「来たんだね」


「……貴方が、鏑木柊か?」


「間違いないよ。僕が……鏑木柊だ。ライチ君」


 名前を呼ばれて少し驚いたが、このゲームを作った奴ならば名前を調べるくらい造作も無いだろう。黒い影――鏑木は、相変わらず背中を向けたまま囁くように独り言を呟いた。


「……ようやく、この時が来たんだ……」


 意味深な独り言に続けて、鏑木は言葉を紡ぐ。


「ようこそ。遠路遥々、ここへ。ここは君の旅の終点……或いは、同時に世界の墓標でもある」


 黒い影が、確かにこちらへ振り返る。恐らく顔と思える部位には、やはり何一つ感覚器官が存在せず、黒い闇が広がっていた。それでも、その奥底から貫くような視線が、俺の瞳へ続いている。

 切符を拝借、と昔の駅員が言うように、彼は確かにこう言った。


「さあ、長く短い……そして、惨めな話をしよう。それがこの世界の始まりで……終わりだ」

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