第131話 名無しの回答

 十分か二十分か。俺の体感でそれくらいの時間が過ぎた後に、アドニスがゆっくりと息を整えて俺から体を離した。俺はこの期に及んで疲労感から立っているのはかなり辛いが、それでもしっかりと自分の足で立ってアドニスの顔を見る。


 アドニスはいつもと変わらない無表情だが、そこに秘められた感情が厭世でないことを、俺は感覚で理解した。きっとアドニスとって無表情が一番慣れ親しんだものであるから、自然と無表情になるのだろう。


「ライチ」


 アドニスが俺の名前を呼んで、続けて言った。


「君は確かに――『Variant rhetoric』を持っている。君は、僕を止めたんだ。僕を……す、救って、くれたんだ。……だからきっと、『彼』のことも救ってあげられるはずだ。だって、僕は記憶以外、彼の完全なコピーだから」


「……」


 俺は困惑して、取りあえずアイテムボックスを探してみた。が、何処にも『Variant rhetoric』の文字はない。俺の行動にアドニスが首を振って、大丈夫だ、と言う。


「きっとテラロッサからも聞いてるだろう? 君は、君のままでいい。無理に変わらなくても良い。どこで君がそれを見つけたのかは、僕には分からないけど……君の手の中にある『Variant rhetoric』は、絶対に彼を救えるはずだ」


「ちょ、ちょっと待ってくれ……そろそろ、『彼』って奴の事について教えてくれないか?俺の中の情報だとスピカを監禁してアドニスを操ったラスボスにしか思えないんだが……」


 流石に耐えかねてそう聞くと、アドニスは無表情を固くして首を振った。


「違う。彼は、そんなに大それた人間じゃない。……逆だ。情けなくて、弱々しくて……僕以上に壊れている。だって、彼は僕達の創造主だから。それぞれに分けた感情を、彼は一人で背負っているから」


「郷愁も、厭世も……破滅も不滅も、堕落もか?」


「そうだ。彼は、弱い人間なんだ。テラロッサは可哀想だと言うし、スピカは怖がりだって言っていた。レグルは情けない上にバカらしいって思っていて……アイゲウスは、これ以上にない理想なんて言っていたよ」


 彼らが抱えていた狂おしいほどの思いを、彼はたった一人で背負っているのか。一人に分けられた分の感情でも、とてつもない悲しみと悲劇を生むのに。彼は、一体何者なんだ。俺は深く息を吸って、一息に聞いた。


「……彼はね、俺達の創造主で、この世界の神であって……ああ、難しい言葉は省こう。彼の名前は鏑木柊かぶらぎしゅう。この『ゲーム』を作った男だ」


「なっ……!そ、外の人間か?」


 待ってくれ、急に話が世界規模から世界を飛び越えたワールドワイドな規模に変わったぞ。この世界の外……つまり、リアル世界の人間である鏑木とやらがこの世界を産み出して、ワールドボスを作り、操っていたのか?

 俺の質問に、アドニスは小さく頷いた。


「君なら彼を救えるよ。この世界を確かに救える。……この世界はね、彼の暗い気持ちで生まれたって、君にそう言ったね」


「……ああ」


「俺たちは欠片だ。この世界の……鏑木という名前の、一人の男の弱い感情の破片に過ぎないんだよ。君は、そんな俺たちと触れて、話して……こうして救ってきた。出来ればアイゲウスにも会って欲しかったけど、彼に会えば君のアバターは『消える』。会えないのは仕方ないよ」


 唯一所在が不明だった堕落は、ライチというこの世界での俺を会った瞬間に破壊するほどの理不尽な奴らしい。会わない方が正解なのか……。

 考え込む俺を見つめて、アドニスは言った。


「この世界は、もうすぐ終わる」


「……テラロッサから聞いていたよ。あと二回だって。一回目はスピカを助けたとき。そして二回目が――」


「あぁ、今だ」


 カチリ。何かの音が聞こえた。それと共に何処かで何かが割れた音と、幾つもの通知が宙に浮いた。


【『厭世』は終わらぬ平行線の奥で、ようやく自分の姿を見つめた】


【世界は一つの区切りを迎える】


【迎える】


【迎える】


【迎えて、区切りが付いた】


【世界は回る。けれど、それも】


【もう終わる】


【『破滅』が『不滅』に向き合った】


【『不滅』が『破滅』に向き合った】


【白の女帝と黒の主催者の心が揺れる】


【『郷愁』の胸の奥で、何かの光が共鳴した】


【『堕落』が目覚めた】


【七つの罪が共鳴する】


【『嘘』『偽善』『破綻』『後悔』『堕落』『逃避』】


【そして、最後の罪は『無知』だ】


終焉おわりの時が始まる】


「おいおい……マジかよ」


「世界はもう終わるよ。このゲームも、君たちの知らぬところで進んできたんだ。進んで、歩んで、躓いて……その度に区切りをつけて歩んできた。でもね、ようやく気がついたんだよ。自分が――何度も同じ道を巡ってきているのを」


 本格的に、このゲームが……『VR』が、終わろうとしている。慌てなくても良いと言われても、そう簡単に割りきれるものじゃあないだろう。通知と共に全身に凄まじい悪寒が走って、歯の根が合わなくなるような恐怖を覚えた。それはここから北東……王都のある方角から伝わってくる。


「……アイゲウスが目覚めたみたいだね。三日もあれば、世界は堕落の海の底に居るよ。しかも、今は……テラロッサの『不滅』が切れている。このまま世界が終わったら、本当の終りだ」


「え、ちょ……俺は、どうすれば良いんだ? アイゲウスを説得するとか、テラロッサに会いに行くとかか?」


 大慌てでアドニスに問い詰めると、彼は少し考えて、俺の目を見つめてこう言った。


「ライチは……鏑木に会わなきゃいけない。彼に会って、彼をどうか……僕と同じく、救ってあげてほしい。そうして彼が『Variant rhetoric』を見つければ、きっとこの世界は救われる。彼と一緒に……救われるんだ」


「……何処に行けば良いんだ? まさかゲームから抜け出してリアルの会社まで突っ込みなきゃいけないのか?」


 そうだとしたらかなり……というか無理だぞ。ゲーム会社に突撃するとか、確実に前科が残る。きっちりと予約を入れられたとしても、ゲームの開発者なんて職業に暇がそうそうあるとは思えない。あと三日でこの世界は滅びかねないのだ。

 俺の言葉を聞いたアドニスは否定の意味を込めて首を振った。


「スピカが鍵で、俺は門番だ。この世界と、彼の居る場所を繋ぐ門を守っている。テラロッサから話は聞いているかい?」


「ああ」


「なら……明日の夜21時ぴったりに、もう一度ここに来てくれ。僕は門をこの世界に引っ張り出す。そして、君はスピカの力で門をこじ開けて……彼と向き合う」


「……なぁ、『variant rhetoric』って、一体何なんだ? 俺はそれを持ってるって言われても、俺には分からないよ」


「……」


 ずっとずっと探してきた。このゲームの中核、根幹といっても良い何か。それを、俺は持っているのだという。それを彼に教えれば、きっと世界が救われるとアドニスは言うのだ。けれど、肝心の俺自身がそれのなんたるかを理解できていない。

 一体、『variant rhetoric』は何なんだ?


 核心に迫る俺の質問に、アドニスは深い沈黙を持ち出した。そして何度も視線を空に巡らせ、唇を噛んで思考する。考えて、考えて、考えて……そうしてアドニスは、悩み抜いた果てにこう言った。


「それはきっと、彼の口から語られなきゃ駄目なんだ。明日にはきっと、君は理解する。そして、必ず……彼を救ってみせるよ。間違いない」


「……」


 回答は先伸ばしにされた。世界は巡りを止めて、終わりに向かう。破滅と不滅が向かい合い、堕落が世界を食む。ついにすべての騒動が連なって、一人の男に繋がるのだ。その渦のど真ん中に居ることを再確認した俺の曇った表情に、アドニスが少しだけ表情を緩める。


「大丈夫。大丈夫だよ。君は、強い。とても強い。何も無くても、君だけ厭世なんて滅多打ちにしてしまうくらいに」


 アドニスの言葉に、俺は思わず謙遜をしようとした。俺はただ倒されただけで、と。けれどそれではアドニスまで貶めてしまうような気がして……小市民な謙遜をしまいこんだ。きっと俺よりも強い人間は居るのだろう。けれども今、こうしてここに立っているのは――俺なんだ。他の何者でもない、俺だ。だから、恐れない。震えないし、怯まない。

 俺の決意を後押しするように、アドニスが変わらぬ表情に少しだけ――はにかむような色を見せた。


「それに……君は僕に君の仲間を紹介してくれるって言ってくれただろう? 約束は守ってくれよ」


「……そうだな」


 約束は、守らなきゃいけない。そう続けながら、俺はようやく固くなっていた表情をほぐした。それにアドニスは満足げな顔になって、「楽しみに待ってるよ」と言った。

 その言葉に、俺はこの場でやるべきことを全てこなしたことを悟って……ログアウトを押す。決戦は明日、二十一時だ。


 消えていく世界の中心で、アドニスは最後まで微笑んでいた。


【ログアウトします】


【お疲れ様でした】



 ――――――



 ライチの消えたフィールドは、伽藍堂に広い。アドニスはそこに一人で立ち尽くして、静かに空を見上げた。そこに雲はなく、きっと意味もないと思っていた。けれどきっと、それでもいいとようやくわかった。

 意味がないなら、自分で作るのだ。


 肥大化した右半身がきしんで、アドニスは小さく笑う。そして、静かに瞳を閉じた。同時に、身体中に浮かんでいた幾つもの瞳は満足げな色を浮かべて瞼を下ろし、そこから黒い色が滲み出ていては、黒い涙となって海面に落ち、淡いインクの様に滲む。


 涙の滲む海の上に立ち、何処までも広がる大空を背負って――彼は最後で最初の言葉を紡いだ。


 長い厭世へのピリオドを、遠き未来への意味を込めて。


「僕の名前は、アドニス・レトリック。二つ名は……今は無いよ。ただのアドニスだ。いつか見つけていけたらいいなって、そう思うよ」


 『名無し』のアドニスは、空を見て、続けて海を見た。澄んだ笑みにあるのは、明日への希望。そして、厭世の向こう側で見つけた――己自身だ。

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