第122話 人形は泣かない

 世界で最も青い場所。その真ん中に佇むのは、ワールドボス『厭世』のアドニス・レトリックだ。右腕はもはやこの世の物とは思えないほど変形しており、腕から広がった肌の変質は上半身の右半分を飲み込もうとしていた。黒い肌の上で無機質な瞳が幾つも瞬く。

 彼の体に蠢く瞳のどれにも、怒りや悲しみにうちひしがれているものはない。ひたすらに透明で、まるで模様の一部のような認識さえ抱かせる。


 しかしそれでも、アドニス・レトリックは一切動じない。それは、命令されていないから。彼は世界の始まりから今に至るまで、自分で物事を決めたことが無い。全ての行動や言動を『彼』に指示され、それにしたがって生きてきた。

 最早それは彼にとって当たり前で、命令への反抗心というものなど遠い昔に無くなってしまった。そもそも、それがあったのかさえアドニスは覚えていなかった。


 もう、どうでもいいのだ。人と魔物はいがみ合う。『variant rhetoric』は見つからない。時間だけが過ぎ去って、この体に打ち込まれた厭世だけが果てしなく螺旋を描いている。それさえもきっと、彼の計算の上だ。


「……」


 アドニス・レトリックは感情を震わせることが殆ど無い。どうせそれは無駄だから。要らないものだから。だから常に死んだ瞳で空を見ている。空を見て、自分という存在にインプットされた感情と曇った過去に何度も向き合っている。


「向かい合う誰かを、向かい合えない誰かを……繋ぐものが、この世界にはあるのかな。……『君』はきっとそれを持っていたんだよね。少なくとも僕が知らない何かを、君は確かに持っていた」


 青以外をほとんど写していないアドニスの記憶の中で、一人の女性が笑った。彼女はいつも笑っていた。空に笑いかけていた。アドニスはそれしか覚えていない。だから彼は空を見る。『何もするな』という彼の指示に従って動くことなく、ひたすらに空を見上げていた。

 そこに何も意味は無いけれど、空を見て笑った彼女の笑みの意味が、もしかしたらわかるかもしれないと思って。


 そうしたらきっと、もしかしたら……自分も、笑えるかもしれないと期待して。


「……僕は」


 一体何者なんだろうか。そもそも、何者でも無いのではないだろうか。もうこんなことを何千回繰り返し自分に聞いてみたんだろう。その度に結論は先伸ばしされて、結局無意味だと青の中でほどけて消える。


 アドニス・レトリックはほとんど感情を震わせることはない。それが無駄だと知っているから。けれど、けれども……最近の彼は、変なのだ。これも彼の仕業かと、何度も考えた。けれど、もちろん答えなど誰もくれない。

 だからアドニスはその感情を小脇に抱えて、空を見つめ、小さく呟いた。久し振りの感情を、厭世以外の何かを。


「……怖いよ」


 見つめた先の空には雲一つない。いつも通りだ。


「……怖い」


 アドニスはいつの間にか震えていた左腕で自分を抱き締めた。庇いきれなかった右腕の瞳が青を反射して瞬きをする。


「最近、堪らなく怖いんだ……」


 これまでだって考えてきた疑問が、やけに怖い。


 自分は誰なんだ?誰でもないなら、今ここで震えているのは誰だ?この感情は僕のものか?そうでないなら誰のだ?どうしてこんなに怖いんだ?


「自分がこのまま消えていくんじゃないかって……結局『誰か』の身代わりで生きて死んでいくんじゃないかって……怖くて、堪らない」


 これだけ長い年月を生きたのに、自分が持つものは堪らなく少ない。残したものも、同じく少ない。誰かと話した記憶も、両手の指で数えきれる。

 殆ど無機物と同じく生きてきた人形の男は、どうしようもない恐怖を覚えていた。何も無いのが怖い、このまま消えていくのが怖い。けれども、命令に背けばきっと自分を構成する最初で最後のアイデンティティーを失ってしまう気がして……。


 だからこそ、彼は動けなかった。青の中に自分から閉じ込められていた。


「誰か……誰か僕を助けてくれ」


 吐露した言葉が、綺麗な水平面に吸い込まれた。この恐怖を消してくれ。


「誰かの言葉を騙るのは……もう嫌なんだ……!」


 この葛藤も、厭世も、きっと『彼』の理想のものだ。だから結局意味はない。結局自分のものではない。けれどそれでも、何も言わないことなんて、彼には出来なかった。アドニスの黒い皮膚が歪に蠢く。何重にも張り巡らされた操り人形の糸を切ってくれる人間は……まだ現れない。



 ――――――――――



【Variant rhetoricにログインします】


 瞳を開けると、薄い雲の浮く青空だった。既に南中を過ぎた太陽が斜めに首を傾けながら、青い空を照らしている。大の字に寝転がっていた体を起こして周りを見渡すと、いつもと変わらない墓地の風景があった。

 林檎の木と手入れの整った草花の合間に整然と墓石が並んでおり、戦士や動物の霊がゆったりと過ごしている。見上げた空には良く見ればワイバーンの霊が三角に群れて飛んでいた。


「……平和だ」


「本当ね」


「うぉっ!?」


 墓地の光景にリラックスしていたら、真後ろから声が掛けられた。驚きのあまり盾を構えて飛び退こうとしたが、右腕の鎧が弾けていて掴めなかった。お陰でかなり不格好な体勢になってしまい、声の主からクスクスと笑われてしまう。

 何とか立ち上がって視線を向けると、スレッジハンマーに肘をついて体を預けるカルナの姿があった。


 カルナが墓地に居るのは別におかしいことではないが、その顔が含みを持った微笑なのがちょっぴりだけ怖いが……。会話の話題を探す俺に、カルナが先に声を掛けてきた。


「中々大変だったみたいね」


「……ああ」


 そうでもない、とかカルナも大変だっただろう?とかを言う余裕は無かった。取り繕った言葉の一つも出ないくらい、大変だったのだ。心も、体も。


「私たちの方は特に大変じゃなかったわよ。あの大きなヒトデみたいな方達が強かったわね。三人居れば危なげなくエリアボスを沈められる位強かったわ」


「……まあ、超有名な星だし……地上で数十年過ごした奴より空の上で数百年過ごしたやつの方が強いのは普通だと思うな」


 あの巨体で魔物を葬っていく星達の姿が簡単に想像できる。平和主義なだけで、周りに危害を加えてくる魔物への対応は普通なのだろう。とはいえ魔物だから、という形でリエゾンにまで手を出さなかった辺り、やはり優しいな。

 その話に繋げてリエゾンやシエラ達が今何をしているのかを聞いてみる。


「ちなみに、リエゾンとかシエラ達は今何してるんだ?」


「だらだら喋ってるわね。シエラが遊びにいくなら海か山かって話はじめて……確かロードが旅行なんてしたことがないって答えてたわね」  


「な、成る程……」


 平和だ。特に何も起きていない。最近のボスラッシュにも似た流れに疲弊し続けていたから、この平穏は中々骨身に染みる。わざわざ会話から抜け出してきたカルナにハテナが湧いたので、それについて聞いた。


「それで……どうして俺の所に?」


「……ロードの様子がおかしかったからね。基本的にあの子が緊張してたり顔を赤くするのってライチ関連なのよ」


 俺も気にしていたロードの話に、体が強張る。


「ライチが知っているかどうかは分からないけれど、ロードって私達の前では落ち着いて笑ってて頼り甲斐があるのよ。ライチと絡むとポンコツになるギャップが面白いのだけれどね」


「え?マジで?」


「マジよ」


 俺の記憶の中のロードを探ってみる。泣いているロード、笑っているロード、泣き笑いのロード……基本的に喜怒哀楽がハッキリしていて、言葉がどもっている様子が思い返される。緊張した笑みで何とか話題を探しているロードから、頼り甲斐のある笑みは想像できない。

 恐らく文字通り墓守然としているのだろう。


「……その様子だと、心当たりがあったみたいね」


「ま、まあ……」


「……色々察したわ。相当な事があったのね」


 もうカルナのエスパーぶりに驚くことはない。慣れたからな。確かに相当な事があった、と頷く。別に特別最悪な出来事というわけではない。そういう訳ではないのだが……とてつもなく気まずい。


「次の会話で何を言ったら良いのかさっぱり分からん……」


 あんな訳が分からん別れ方をした挙げ句に1日時間を置いてしまったら、さらに話しかけづらい。俺の言葉を聞いたカルナは、うーんと考えてこう言った。


「……特に悩むことは無いと思うのだけれど……」


「と言うと?」


「あの子は貴方と普通に会話するだけで嬉しそうだから、普通にしていればいいんじゃないかしら?余計なことなんて考えるだけ損よ」


「……なんかそれはそれで恥ずかしい」


 仄かに顔が熱くなる。普通で嬉しいってそこそこ恥ずかしいことをサクッと言われてしまった。確かに普通にする以外の選択肢をそもそも俺は持っていないんだが……。

 存外普通を見失った時に普通になれと言うのは難しい話である。


「それに……中々普通にしろって難しいだろ?」


「まず肩から力を抜いて、頭の中を空っぽにしなさい。それでライチの完成よ」


「三秒クッキングだってもうちょっとマシな調理法寄越すぞ」


 三秒掛からないぞ、それ。一秒ちょいで完成する俺ってなんだよ。こちらが新鮮なライチですってか?紛らわしいしやかましいわ。

 呆れた視線をカルナに向けると、当の本人はどこ吹く風といった様子だ。


「とにかく、まずは話すことね。どうせ二人とも気まずいとかいってずっと会話しないんでしょうし、男らしく会話をエスコートしてあげなさい」


「レディファーストとか無いの?」


「あるわけないでしょう?馬鹿なこと言ってると脛を蹴るわよ」


 狙う場所が地味に嫌だ。脛は物がぶつかるだけでも相当痛いのだ。思わず前屈みになる俺に軽く笑って、カルナが俺に背中を向けた。さあ、ついてこいということか……行くしかないな。

 会話の種も気構えの一つも無いが、カルナ曰く俺は俺らしくで十分らしい。


「あぁ、緊張してきた」


「面接?」


「……気構え的には変わらないな」


「そこは否定しなさいよ……」


 あきれた様子のカルナに着いていくと、進行方向に見慣れた白い竜の姿があった。恐らく俺に気がついているだろうが、空気を読んで反応はない。メラルテンバルが顔を上げると全員そっちに向いちゃうからな。会話の流れが切れてしまう。

 さてさて……丸1日ぶりだが、ちゃんと話せるだろうか。期待と不安の入り交じった複雑な感情で、足元の草を踏みしめた。

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