第85話 拝啓、狼の恋情へ。

 リエゾン・フラグメントという人物は本来、自然に存在する者ではなかった。そもそも、この名前自体、存在しているのは不思議というか、偶然の産物なのだ。

 四年前、彼はただの狼の魔物だった。理性も言葉も名前も持たず、本能だけで生きる獣。今でも彼はその時を思い出すと吐き気と恥ずかしさに見舞われる。


 群れの長に連れられて人、動物、魔物問わずに本能の赴くままに食らっていた彼は、いつしか群れの中でも上位の力を持つようになった。リエゾンはひたすらに強さを求め、飢えを満たすために戦い、殺し続けた。

 そんなある日、そんなリエゾン達を危険視した王都から騎士団が派遣されてしまった。いくら戦場を渡り歩いたリエゾンや長でさえも、鎧を着こんだ彼らには歯が立たず、群れは完全に崩壊した。彼らはリエゾンの様な成体にあきたらず、まだ小さな幼体の狼も一匹残らず虐殺した。


 響く仲間の断末魔と散っていく戦友を前にして、リエゾンは何も出来なかった。必死に牙をたてようと突っ込んだ結果、見事に切り捨てられ、重症を負った。けれども彼の原始的な本能は常に生存を最優先とし、殺されていく仲間に背を向けて逃げだした。

 どうせ仲間は助からない。ならばせめて、手負いであろうと自分が逃げ延びる事を優先した方がいい。魔物特有の本能と衝動にまみれた汚い行動の果てに、リエゾンは騎士団から逃げ切る事が出来た。


 しかし、逃げ切れた所で自分は重症を負っている。必死に足を前に進めようとするも、動くことが出来ない。それどころか立つこともままならず、近くの樹木に体を横たえた。横たわって見た自分の腹は一文字に切り裂かれており、そこから大量の血が溢れだしていた。


 ああ、これはもうどうにもならないな。


 魔物に、死への恐怖は存在しない。あるのは生への渇望と本能だけだ。故に全てを『諦めた』リエゾンは、これが最後だと思って目を閉じた。



 しかし、どれくらいの時が経ったのだろうか。少なくとも、それほど長い時間ではないだろうが、リエゾンの瞳がゆっくりと開かれる。なぜ自分が生きているのか。ぼんやりとした脳でそれを考えるリエゾンは、自分の体に誰かが触れているのを感じた。

 視線をそこに向けると、己の血液で体を赤く染めながら必死に傷を塞ごうとしている人間の少女がいた。

 茶髪は魔物の血液で赤く染まり、手のひらから肘までも同じく血塗れだった。それでも彼女は額に汗をかいて、自分の服の布を引きちぎり、何処かから持ち出した桶に溜まった水に浸して傷口に押し当てる。


 鋭い痛みにリエゾンは小さく呻き、必死に少女を睨むが、彼女は申し訳なさそうな顔をしてリエゾンの頭を撫でた。魔物であるリエゾンはその手を噛み千切ってやろうかとしたが、勿論のこと瀕死の彼にそんな力はない。故に少女をきつく睨み付けながらされるがままだった。

 少女は慣れぬ手つきで必死に応急手当をし、漸くリエゾンの出血は止まった。向きの揃わない不恰好な包帯が巻かれたリエゾンの腹を優しく撫でて、少女は彼に何かを言った。しかし、魔物である彼に伝わることはない。


 彼の頭に巡っていたのは殺意。自分の体に遠慮なく触れている少女に対する殺意が満遍なく脳を占めていた。しかし、殺そうにも殺せない。唸り声をあげようとすれば傷口が酷く痛む。故に彼は無言で少女を睨んでいた。それなのに少女は何を勘違いしたのか、小さく笑ってもう一度リエゾンの頭を撫でた。今度こそ噛みついてやると思ったが、包帯がきつく締められていて動けなかった。故にリエゾンはされるがままに頭を撫でられた。


 この時、彼に初めて殺意と本能以外の感情が生まれた。


 それは――『屈辱』と『怒り』。


 魔物はでき損ないの機械のような物だ。怒りもしなければ屈辱を感じることもない。つまりこの時点でリエゾンは既に、普通の魔物の枠からはみ出ていたのだ。

 少女はリエゾンの頭を撫でると、その顔を満足げなものにしてリエゾンに背中を向けた。


 彼はその背中に待ったをかけようとした。俺から逃げることは許さない。俺の屈辱を晴らす為に、お前をここで逃がすわけには行かない。けれどそれらの感情に比べて、本能は体に正直だ。とてつもない屈辱を感じながら、リエゾンは重すぎる瞼をおろした。



 次に目を開いたとき、またもや誰かがリエゾンの体に触れていた。視線を落とせばまたあの少女だ。今度はちゃんとした包帯を持ってリエゾンの体の包帯を取り替えている。それを見たリエゾンは喜んだ。よし、これであの雪辱を晴らすことができる。しかしやはり、たった一日で動けるようになるほど傷は軽くなかった。動こうとすれば激痛が襲い、少女が慌ててリエゾンの体を押さえる。



 結局、この日もリエゾンは動けなかった。少女は満足げにリエゾンの頭を撫でて帰っていく。一回り大きくなった屈辱を胸に抱えながら、リエゾンは瞼を下ろした。



 次の日、最早慣れた誰かに触れられる感覚で目が覚めた。瞳を下ろせば少女がリエゾンの体に触れている。白魚の様に美しい手がリエゾンの体を優しく撫でているのだ。少女の顔は慈愛に満ちており、一片の悪意もそこには無かったが、リエゾンにはそれが不快に思えて仕方がなかった。漸く体が治ってきて、唸り声を上げられるようになっている。リエゾンはそれを喜びながら大きな唸り声を上げた。


 しかし、予想に反して少女はきょとんとした表情をすると、にっこりと満面の笑みになった。


 リエゾンはまた新しい感情――『困惑』を覚えた。


 しかし、やはりリエゾンは魔物だ。そのあとにゆっくりと少女が彼の頭に手を伸ばす。しめたとばかりに、彼はそれに噛みついた。小さな手のひらに凶悪な牙が食い込み、少女が大きく悲鳴を上げた。白魚の様な手から血を流した少女に満足感を覚えたリエゾンはしかし、体の弱さでその手のひらを噛み千切れない事を悟った。


 クソ、このままではこいつに逃げられてしまう。焦るリエゾンに対して、少女は痛みに顔を歪めた。しかし、すぐにその顔は痛みの混じった笑顔に変わる。いつもの、リエゾンに向ける慈愛の笑顔。

 そして彼女はゆっくりともう一方の手を出して、リエゾンの頭を撫でた。あまりにその行為が異常すぎて、困惑にリエゾンは牙を離した。少女は大きな噛み後の付いた手のひらから流れ出す血液を苦笑いで見つめて、リエゾンに手を振った。



 やはりその顔は笑顔だったので、リエゾンは新たに『恐怖』という感情を覚えた。



 次の日、リエゾンが目を覚ますとまたもや少女が居た。噛まれた手のひらに包帯を巻いて、リエゾンの包帯を取り替えている。目を覚ました彼に気がついた少女は控えめに笑って、包帯を取り替える作業に戻った。


 昨日の今日で懲りもせず自分の所に赴く彼女に、リエゾンは初めて『呆れ』の感情を覚えた。


 包帯を取り替え終わった少女は、困ったような笑顔をしながらリエゾンの頭に手を伸ばした。今度は噛まれていない方の手のひらだ。リエゾンの体は少女の献身的な介護によって回復の兆しにあった。今なら少女の手を噛みちぎることは難しいことではない。もう少し回復すれば首元を食いちぎることも可能だろう。


 魔物であるリエゾンは本能で動いている。故に、彼はそれに突き動かされて彼女の手のひらに噛み付く――事はなかった。


 どうしてだかわからない。けれどこの日、リエゾンは初めて己の本能に逆らった。きっと今までに覚えたいくつもの感情が、本能を上回ったのだろう。噛むのは容易い。少し動けばこんな無防備な獲物、直ぐにでも殺せる。けれども、彼が動くことはなかった。それは彼が自覚できない感情が……あえて形容するなら、粗削りな『感謝』が、彼の胸の奥底で小さく芽生えたからだ。



 彼はその日、初めて少女から目を逸らして頭を撫でられた。



 次の日リエゾンが目覚めた時も、やはり少女はリエゾンの体に触れていた。彼の包帯を外した少女はゆっくりとリエゾンの傷跡をなぞる。ほんの少し痛みが走るが、傷は確かに治っていた。

 大きな傷跡は瘡蓋に守られ、今では流血は見られない。


 少女の介護は、確かにリエゾンの命を救ったのだ。少女は感極まったようにリエゾンに抱きついた。今ならこいつを押し倒して喉元を食いちぎれるぞ、と本能が嘯くが、彼がそれを実行に移すことはなかった。


 彼は遂に魔物の特権である本能ですら押し留め、人間でもなければ魔物でもない……あやふやな存在となった。世界にとっての違和感、謎と形容すべきものとなったのだ。

 人間と同じ感情を持った魔物等、珍しいの一言で数えられるものではない。その日、リエゾンは確かに『特異個体ユニーク』となった。


 次の日、リエゾンは初めて自分から目を覚ました。体はしっかりと治っている。少女に出会ってから初めて、リエゾンは四本の足で体を起こした。……やはり、筋力が落ちているな、とリエゾンは落胆した。何日も寝たきりだったのだ、いくら魔物とて筋力は落ちる。変わってしまった体の感覚に困惑していると、ごとり、と何かの落ちる音が聞こえた。


 リエゾンは本能的にその場から跳びはね、音の方角へ向けて牙を剥いた。しかし、その先に居たのは少女だった。地面に落ちた少女のバスケットから、果物が転がってリエゾンの足にぶつかった。それは蜜柑の様な果物で、少女がリエゾンの為に持ってきてくれたことは容易に想像できる。


 取り敢えず警戒の体勢を解いたリエゾンに、少女が飛び込んで抱き付く。少々体がふらつくが、彼はこの程度で倒れるような柔な狼ではない。リエゾンの体に抱きついた彼女はしきりに何かを言った。


 何度も何度も声を掛けた。しかし、リエゾンにはそれがどうしても理解できなかった。遂には彼女が泣き出してしまい、ますますリエゾンは困惑した。というのも、彼女が泣きながら笑っているからだ。彼女が悲しんでいるのか、喜んでいるのか、リエゾンにはさっぱりわからない。何を言っているのかもわからない。


 だから彼は――知りたいと思った。


 その日、初めてリエゾンは少女に対して『興味』を抱いた。彼女の事を知りたいと思った。どうして泣きながら笑ったのか、何を言っていたのか、それを知りたいと思ったのだ。


 けれども、彼は魔物。それを伝えることも出来なければ、彼女の言葉を知る脳も持たない。彼には彼女と会話するだけの力がなかったのだ。故に彼は初めて決意した。


『強くなろう』


 強くなり、魔物としての格が上がれば……もしかしたら彼女と話せるようになるのかもしれない。リエゾンは最早魔物としての本能を克服していた。誰かのために動きたいと願ったのだ。



 次の日から、リエゾンは魔物や動物を狩ることを再開した。森の中を駆け巡り、感覚を思い出す。ユニークになった影響で思考と感情を得た彼は戦いの中でしっかりと学習し、失敗を脳に刻み込んでいた。

 その日、彼がいつもの場所に帰ると、少女が自分に飛び込んできた。どうやら、ずっと待っていてくれたようだ。もう日は落ちそうなのに、暗い森の中で自分を待っていてくれた少女に、リエゾンは初めて『申し訳なさ』を覚えた。



 次の日からは、彼女を心配させないように素早く帰ることを意識した。効率的に作戦を組んで、最速で敵を倒す。そして太陽が半分を乗り越えた時には樹に帰る。リエゾンのそれは、完全にユニークモンスターのそれだった。


 それでもたまにはリエゾンも傷を負うことがあった。すると少女は悲しそうな顔をしながら傷を撫でて、手当てを始める。少女を悲しませないように、傷はなるべく負わないようにしよう。リエゾンは固くそう思った。



 それから何日かの時が経った。リエゾンは最早最盛期の自分より今の自分の方が強いと理解していた。尻尾の一撃は樹木を砕き、噛みつきは頭蓋を砕く。彼はそれを喜びつつ、森に入り……初めて人間と遭遇した。武器と防具を装備した人間の集まり。本能で分かる。こいつらは自分より格下だ、と。幸い、気付かれてはいない。

 本来なら躊躇うことも何もなく、彼らに突っ込むべきだった。そうすればきっと自分の格が上がるだろうという予感が、リエゾンの中にはあった。けれど……それでも、彼は彼らを襲わなかった。


 彼女のように笑い、抱きつき、そして話し掛けてくれる人間を殺すことで、彼女は悲しんだりしないだろうか。リエゾンはそう思ったのだ。いつしか自分の覚えたのと同じ感情で、笑い、怒り、悲しみ、幸せを感じる人間を殺すことが、彼はできなくなっていた。

 自分も、弱くなったな、と自嘲してリエゾンはいつもの場所に帰った。


 少女がバスケットに果物を持って待っている。正直、肉食である自分にとって果物はまったく美味ではなく、それどころか最悪の味であるのだが、彼女の持ってきた物を食わずに放っておくのはなんだか気が引ける。それに、食料を残すのは本能的に許されない。そうだ、本能のせいにしよう、と自分に言い聞かせてリエゾンは果物を齧った。


 相変わらず最悪の味だ。特にこの酸っぱさが毒のように感じられる辺りが最悪この上ない。けれど、彼女と同じものを食べているという感覚が、リエゾンに若干の満足感を与えていた。


 そんな、時だった。リエゾンは自分の体に変化が起きたのを感じた。何かが自分の中で『達した』。メタ的に言えば『特殊な進化条件を満たした』のだ。

 一定のレベル、人間とのふれあい。そして――人間に対する憧れを抱くこと。それがユニーク種族『人狼』への進化条件だった。


 体が熱い。内側から燃えるようだ。心配そうに自分の体に触れる少女を見つめる。何処かから、自分の願いを言え、と言われた気がした。


 リエゾンは謎の熱に苛まれながら少女を見つめて、その質問にこう答えた。


 ――彼女の、名前が知りたい。


 少しの間を置いて、良いだろう、とまたもや声が聞こえて、リエゾンは意識を失った。



 暫く、眠っていたようだ。目を覚ましたリエゾンは辺りが真っ暗になっている事に気がついた。それと、自分の体に誰かが触れる感覚……やけにそれを鮮明に感じる。

 ゆっくりと視線を少女に移して、気がついた。自分の体が変化している。


「あ……あ……」


 思わず声が出た。ああ、聞き覚えがある。彼女の発していた声と似ている……人間の声だ。喉元に手を伸ばしてみれば、自分の手は彼女と同じ人間の手。少女が用意してくれたのであろう服に身を包んで、リエゾンは遂に人狼に……彼女と会話ができるようになった。


 喜びに身を踊らせながら、自分の体に触れている彼女を見つめると、少女はリエゾンの体にもたれ掛かりながら眠っていた。突然の進化と同時に意識を失ったリエゾンの服を持ってきて、どうしても一人にできなかった彼女は彼の側に立って彼を守っているつもりだったのだが……やはり、少女は少女。眠気に逆らえず眠ってしまったのだ。


 リエゾンは彼女と会話をすることが今は無理だということに残念さを覚えたが、それよりも美しい彼女の寝顔に気をとられていた。こうしてみれば、少女の顔立ちは整っている。

 月明かりに照らされるそれを優しく撫でた。艶のある茶髪に手を伸ばすと、彼女が『ん………』と声を漏らしてリエゾンの手の甲に頬を押し当てて、柔らかく微笑んだ。


 その笑顔に見惚れ、彼女のしぐさに惚れて……彼は新たな感情を覚えた。


 それはまだ燻る火種。本人すら自覚のない透明な感情。



 されども彼の心の器の中でも一際熱く煌めく――『恋慕』だ。

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