サイドストーリー2
帰り道にて
もう少しの間、雪の妖精の女王の城に滞在するというサーシャロッドとエレノアを残して、リーファとラーファオは帰途についた。
飛翼馬の引く馬車に乗り込めば、最初の浮遊感のあとは、ほとんど揺れもなく、静かに月の宮殿へ向けて飛んでいく。
エレノアをおいて戻るのは少々心配だが、サーシャロッドがついているので大丈夫だろう。
サーシャロッドがエレノアのことを気に入っているのは前から分かっているが、日を追うごとにあの二人は仲良くなる。
(サーシャロッド様が奥様を連れてきたと聞いた時は驚いだけど……)
リーファはエレノアが来た日のことを思い出して、微笑んだ。
サーシャロッドは、人間嫌いだ。もちろん「人間」と名のつくものすべてを毛嫌いしているわけではないが、ほとんどの人間のことが、嫌いである。
サーシャロッドの基準はいまだにわからないが、そんな人間嫌いのサーシャロッドが気に入る「人」は非常に少なく、ましてや妻にしたいとまで思う女性がいるとは、にわかには信じがたいことだった。
サーシャロッドは各国の王の代がわりに行われる祝福の儀式にも姿を見せない。フレイディーベルグもなかなか姿を現さないそうだが、彼の場合は「人」が嫌というよりはただの気まぐれで、興が乗ったときだけふらりと人間界に降りることがある。
反対にサーシャロッドは徹底していて、よほど気に入った人間が王につくことにならない限り、祝福の儀式には姿を現さない。少なくとも、彼が人間界の祝福の儀式に姿を見せたのは、ここ三百年ほどでは、エレノアの元婚約者――クライヴの祝福の儀式だけだそうだ。
それも、祝福するためではなく断罪するために姿を見せたというのだから、リーファはますます驚いた。
嫌いな人間の前には、とにかく姿を見せたがらないサーシャロッドである。それなのに、わざわざ嫌な思いまでして姿を見せたのは、エレノアのため以外の何でもない。よほど、エレノアをひどい目に遭わせたというその元婚約者と彼女の家族が許せなかったのだろう。
神に祝福を拒否されたものが、王になることはあり得ない。それは人間界の暗黙のルールだ。なぜなら、祝福を得られなかったものが王についた国は滅びると言われ――、現に歴史をたどっても、その末路は悲惨だった。
そのため、エレノアの元婚約者は、サーシャロッドによって王位を剥奪されたに等しい。あまり人間界のことにかかわりたがらないサーシャロッドが、わざわざ姿を見せてまで追い落とすとは――
(本当に、エレノア様は愛されているのね)
サーシャロッドがどこで彼女を見初めたのか――、リーファは知らない。
ラーファオは知っているようだが、わざわざ聞き出すような野暮なことをするつもりはない。
ただ、リーファは最近あの二人を見ているとほっこりと胸が温かくなるようで、エレノアがこの世界に来て本当によかったと思うのだ。
サーシャロッドはひんやりと氷のような冷たい空気を持っている。彼は自分が気に入った相手には優しいが、それでもどこか近寄りがたい空気をまとっていた。しかしその冷ややかな空気は、エレノアのそばであると消え失せる。彼女を怯えさせないための配慮か、ただ単に彼女が愛おしくて仕方がないだけなのか――、どちらにせよ、エレノアが来て、サーシャロッドの雰囲気は変わった。
(エレノア様も、だんだん明るくなっているし)
この世界に連れてこられたとき、エレノアは無自覚なのかもしれないが、警戒しているようにも見えた。他人との間に線を引いて、自分から踏み込むようなことはしない。表情も乏しく、彼女の微笑みを見るまでに何か月もかかった。
そんなエレノアだが、最近はよく笑うと思う。もともとサーシャロッドにはすぐに懐いていたようだが、二人の距離感は以前よりも近い。それは、サーシャロッドが必死に勝ち取った距離感のようにも見えて――、無防備に彼の腕の中に納まるエレノアに、サーシャロッドの溺愛具合は日に日に増していくようだ。
そうなると、リーファには新たな懸念事項が生まれてくる。
(何も知らなさそうなのよね……)
サーシャロッドはエレノアを溺愛しているが、本当の意味での夫婦にはなっていないようだ。サーシャロッドはエレノアにちょっかいをかけては恥ずかしがらせて楽しんでいる節があるが、一線は超えていない。あまりに無垢すぎるエレノアに遠慮しているのであれば――エレノアの心もほぐれた今、そろそろ、何かがあってもおかしくない。
男女の営みというものを、きちんと教えておいた方がいいのだろうか。少なくとも知識があれば、突然そう言うことになっても恐慌状態にはならないと思うし。
リーファは口元に手を当てて唸る。知らないうちに眉間に皺が寄っていたのか、目の前に座っているラーファオが吹き出した。
「さっきから笑ってみたり難しい顔をしてみたり、どうしたんだ?」
「あ……、ごめんなさい、ちょっと考え事を」
せっかくだし、男性の意見も聞いてみよう。
リーファはラーファオに考えていたことを打ち明けてみたが、人が真剣に悩み心配しているというのに、それを聞いたラーファオは笑い出した。
「ちょっと、わたくしは真剣に――」
「わかってるわかってる、リーファは真面目だから。くく……」
ラーファオは笑いながら腰を上げて、リーファの隣に座りなおした。
拗ねているリーファの頬を指先でくすぐりながら、「何もしない方がいい」と答える。
「何も教えないでいろってこと?」
「そう。すべてサーシャロッド様にまかせておけばいい」
「でも、男の人はそれでいいかもしれないけど、受け入れる側のわたくしたち女は最初はとても怖いものだわ」
「ふぅん。リーファは、怖かったの?」
面白がるようにラーファオはリーファの顔を覗き込む。
途端にリーファの頬に朱がさしたのは、はるか昔のことのように感じる最初の夜を思い出してしまったからだ。
ラーファオとの最初の夜――、そう、リーファもエレノア同様、何も知らなかった。何一つ閨事の知識を知らないまま、ラーファオとの夜を迎えたのだ。
リーファの国では、女は無知であるのがいいとされていた。結婚が決まれば、最低限のことを学ぶ予定だったが――、親が結婚を決める前に、リーファはラーファオの手を取って逃げ出した。
だから、何も知らなかった。
何も知らないままに迎えた夜は不安で、どうしたらいいのかわからなくて、すべてラーファオに任せて翻弄された。
「それで、怖かったの?」
赤い顔をしてうつむいてしまったリーファに、ラーファオが重ねて訊ねてくる。
怖かった――、そう問われると、おそらく否だ。何も知らないことは怖かったが、ラーファオは最後まで優しかった。もちろん体を暴かれたときは痛みもあったが、痛くてぽろぽろと泣き出してしまったリーファの涙を唇で掬い取り、彼はさんざんに甘やかした。
リーファは小さく首を横に振ると、ラーファオがまた笑って彼女を抱きしめる。
「何も知らない女の子を自分色に染めていくのは、男の夢だから、サーシャロッド様の楽しみを奪ったらダメだよ」
「意味がわからないわ」
「何も知らないリーファに一から教え込んだのは楽しかったよってこと」
リーファはかあっと耳まで赤くなった。
「な、なっ」
「キスの仕方や気持ちいいところ、男への甘え方にそれから――」
「も、もう黙って!」
「どうして? ここには俺たちしかいないのに」
だとしても、だ。たとえ二人きりだとしても、恥ずかしすぎる。いや、二人きりだからこそいたたまれない。先ほどから、空気が少し妙だ。色で例えれば、ピンク色をしている気がする。
「だから、リーファはエレノア様には何も言わないこと。サーシャロッド様に恨まれたくないだろう?」
「それは……、そうだけど」
「それから」
ころん――、とリーファは座席に仰向けに押し倒された。
瞠目したリーファに覆いかぶさりながら、ラーファオが目を細める。
「何も知らない方が、楽しめる」
「――っ! で、でも、一般的な知識は……」
「うん? リーファは俺しか知らないはずなのに『一般的』な知識があるのかな? どこかで浮気でも――した?」
すっとラーファオの目が据わって、リーファは慌てて首を横に振った。
「ふふ、大丈夫。浮気なんてしてないよね。リーファの反応に、俺が教えた以外のことはなさそうだから、わかっているよ」
つまりは、する予定はないが、もしも浮気をしたら一発でばれるということだろうか。
ラーファオはにっこりと微笑んで、リーファの襟元のボタンを一つ外す。
「リーファが知っているのは俺のやり方だけ。サーシャロッド様にはサーシャロッド様のやり方があるんだから、邪魔をしたら駄目だよ」
ここでさらに言葉を重ねれば、ラーファオにお仕置きされそうな気がして、リーファはこくこくと頷いた。
わかればいいよ――、と言って、ラーファオはリーファの服のボタンをもう一つ外す。
馬車の中でこんなことなんて――と、リーファは抵抗したかったが、逆を言えばここは密室で、どこにも逃げ場所なんてない。
それに、こういう目をしたときのラーファオは危険だ。リーファが抵抗すれば、まるで獲物を追い詰めて楽しむ肉食獣のように、容赦なくリーファをいじめてくる。
(だから――、男は危険だって、教えて差し上げたかったのに……)
この十年、いろいろな教訓を覚えたリーファは、優しくて意地悪な夫の手に翻弄されて、小さな悲鳴を上げた。
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