8

「スープは音を立てて飲むんでない!」


「いたっ」


 スパコーンとカモミールの姫の脳天にばあやの杖の先が炸裂する。


 妖精サイズの小さなスープ皿を前に、カモミールの姫はプルプルと震えた。


 相当腹が立っているのだろうが、カモミールの姫はすぐに怒って逃げ出そうとするので、椅子の背にぐるぐる巻きに括りつけられていて、逃げ出したくても逃げ出せないようだ。


 ばあやの花嫁修業がはじまって五日。カモミールの姫はぶつぶつ文句は言うものの、言われたことを聞いていないわけではないらしい。その証拠に、一度怒られたことは次にはできるようになっている。大好きなヤマユリの王子との結婚のためだ、彼女が本気で投げ出すはずはないのである。


 今日は食事の取り方のレッスンをするというので、エレノアも昼食をばあやのところでとっていた。


 サーシャロッドはいつも品よく食べ物を口に運ぶので、それを見てきたエレノアは自然とその仕草をまねるようになる。おかげで、ばあやからの叱責は飛んでこなかった。


 食事が終わると、休憩を取ってもいいと言われたので、カモミールの姫と二人で、お喋りをしてすごすことにした。


 カモミールの姫はヤマユリの王子と結婚したあとは、ヤマユリの妖精たちが暮らす地で生活するそうだ。


「ねえ、訊きたいことがあるんだけど」


 カモミールの姫は、部屋の中にばあやがいないことを確認すると、声を落とした。


「あんた、お兄様の奥さんなんだから、夜は一緒に寝てるのよね?」


「う、うん……」


 エレノアは少し恥ずかしくなって頬を染めた。確かに一緒に眠っているが、眠る前のあれこれを思い出すとそわそわする。


 カモミールの姫はエレノアの様子をじっと見つめたあとで、ぱたぱたとエレノアの顔の高さまで飛んであがると、ずいっと顔を近づけた。


「じゃあもちろん――、子作りのことも知ってるわよね?」


「―――え?」


 エレノアは目が点になった。子作り? 子作りは―――


 ――子作りはおいおい教えてやる。


 サーシャロッドにはじめて会った夜、彼はそう言っていたはずだ。おいおいがいつなのかはわからないが、妊娠の兆候がないのでまだ教えてもらっていないのだろう。


 子作りがなんなのかはよくわかっていないが、とりあえず一緒に眠るだけではないということだけは教えてもらった。


 だから、カモミールの姫にありのままの状況を伝えると、彼女は目を丸くした後で、がっかりと肩を落とした。


「そうなの。知らないの。……てっきりあんたが知ってると思ったのに」


「カモミールのお姫様も知らないの?」


「知らないわよ。お母様に訊いたら、殿方にお任せしておけばいいのよなんて言っていたけど――、でも」


「でも?」


 カモミールは表情を曇らせると、エレノアの耳に向かって内緒話のように言う。


「知り合いに訊いたんだけど、痛いんですって」


「え?」


「だから、痛いんだって。最初だけらしいけどね。ちょっと不安だから教えてもらおうと思ったんだけど……、あんたが知らないなら、今度リーファを捕まえて訊いてみようかしら」


「い、痛いの?」


「そうらしいわよ」


「……痛いんだ」


 痛いのは怖い。サーシャロッドはおいおいと言ったが、その「おいおい」が来たら、痛い思いをするのだろうか。


 カモミールの姫はエレノアの肩にとまると、自分の膝の上に頬杖をついた。


「別に痛いから嫌っていうわけじゃないわよ。ヤマユリの王子のこと好きだもん。でもほら、心の準備ってものがいるじゃない? なのにお母様ったら、それも含めて素敵な思い出だから、気にせずに殿方に任せておきなさいって。無責任なんだから」


「痛いの、怖くないの?」


「そりゃあ、ちょっとは怖いわよ。でも、あんただってお兄様のこと好きでしょう? 好きな人のためなら耐えられるわ」


「好き……」


 エレノアは口の中でその言葉を転がした。


 サーシャロッドに連れてこられて、妻だと言われ、好きだと言われた。しかし結婚は自分の意思でするものではないと思っていたから、「好き」の意味を深く考えてこなかったけれど――、カモミールの姫を見ていると、結婚は好きだからするものだと思えてくる。


 リーファも、夫であるラーファオのことが大好きらしい。


 エレノアはサーシャロッドの顔を思い浮かべた。彼と一緒にいると、心がぽかぽかと温かくなったり、恥ずかしくなったり、緊張したりする。でも一緒にいると安心するし、彼の腕に抱きしめられて眠るのはとても幸せだ。


 元婚約者だったクライヴのそばにいても、緊張はするけれど、心がぽかぽかと温かくなったり安心したりはしなかった。


(好き……)


 それがどういうものなのかはまだわからない。一緒にいたいと思うことが「好き」ならば、妖精たちもリーファもそうだ。だが、サーシャロッドは少し違う。一緒にいたいけれど、ただ一緒にいたいだけとは、ちょっと違う気がする。


 月の宮に来てしばらく経つが、今までは何も考えずにサーシャロッドのそばにいたけれど――


(好きについて、考えてみよう……)


 もしかしたら、そこにサーシャロッドの言った「おいおい」の意味があるのかもしれないと、なんとなく思った。

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