ロクジュウハチ 捕虜

「お前の見る景色は、きっと素晴らしい物なんだろうな、マコト」

 たった一人、牢獄の中で縛り付けられたカズヤの呟きは湿った空間に溶け込んでいく。俯いた彼の表情はとても冷たく、感情がまるで込められていない。

「だから自分の歩く道が見えている。この世界に来る前から、お前はずっと正しかったんだ。幾つにも分岐しているはずの道程を、間違う事なく迷わず歩けるなんて、すごいよ」

 誰も居ないこの空間で喋る、抑揚のない声音。瞬き一つせず、彼の声は狭い牢獄で反響する。ピチョン、ピチョンとどこからともなく落ちる滴の音がただひたすらにカズヤの脳を撫でる。

「僕はずっとお前が羨ましかったよ。自信満々に、前を向くお前が、僕にはとても眩しい。けれど────」

 前を向く。

「バランスシートにもたげるトカゲの皇族がカーステレオに耳を傾けながらレーザー銃を自分の頭に向けて有終の美を飾ろうとローカルマナーをアラビア語で捲し立てながらシャングリラの真ん中でククルカンが降臨する」

 違う。そんな事を言いたいんじゃない。

 スワンプマン。

 マコト。

 魔物と人間。

 生まれ返り続ける自分。

 もうカズヤには、まともな思考で話す事が難しくなっていた。身体に記録されただけの以前のカズヤが味わった痛みがまとわりつく。胸を抉られ、四肢を切断され、舌の根が噛み切れ、身体を真っ二つにされ、口内を弾丸で穿ち、頭が破裂し、肺が血で満たされ、吐瀉物と土が胃に侵入し────

「おっ……ええ……」

 思い出したい訳ではない。出来れば忘れたい。なのにそれが出来ない。脳裏に刻み込まれたこの忌まわしい死の記録が、カズヤを苦しめる。

 胃が痙攣し、喉を震わせる。何も入っていないがゆえに出てくるのは胃液だけで、酸っぱさで涙を滲ませていく。ポタポタと額から溢れる汗と、目尻から溢れた涙が胃液の上に落ちる。

 それが堪らなく気持ち悪くて、またカズヤは吐き気を催す。

「……いやだ。もういやだ。たすけてだれかたすけて」

 掠れた声が室内に虚しく響く。それに答える者など誰も居ない事など分かっているはずなのに、一度漏れ出た不安と恐怖はもう堰き止められない。

「こわい。こわいこわいこわい。ぼくはぼくなのに。にせものほんものにんぎょうまほうつかいがなんなんだ。いきていることがそんなにわるいのか。しねるならぼくだってそうしているのに。しんでもうまれるちからなんてほしくなかったのに。いらないのに。どうして、どうして。ぼくだけこんなめにあわなくちゃいけな────」

『お前はカズヤじゃない』

 マコトの言葉が聞こえる。かつては親友との再会を望んでいたはずだったカズヤが、その親友に拒絶された。

 それだけで、カズヤは────

「あああ、ああああああああ、あああああああああああああああ」

 再び、自分を見失う。

 ────カズヤさん。

「っ」

 はずだった。

 混沌とした頭の中に響く、透き通ったその声でカズヤは我を取り戻す。彼女の声はとても美しかった。どんなガラスや宝石よりも透明で、綺麗で、凛とした真っ直ぐな声に、だからカズヤは彼女を思い出す。

 ────人形である事が、そんなにもいけない事ですか?

 それを教えてくれたのは彼女だった。存在価値や意義、理由、自分にある全てがただの偽物でしかないのだと諦め、投げ出したかったカズヤに、彼女は静かにそう諭してくれたのだ。

 ────だからもしも、自分が誰なのか分からなくなってしまいそうで、苦しくて……石で自分を傷付けそうになった時は、『カズヤ』という貴方を想う私が居る事を、思い出して下さい

 そうだ、カズヤの────僕の心がまだ壊れ切っていないのは、彼女のおかげだ。彼女が僕を想っていてくれるだけで、充分なんだ。

 白い翼と鱗、赤い瞳、その巨躯からは想像し難い程に麗しい姿。僕は彼女の事を思い出して、おかしくなりかけていた自分を引き戻す事が出来た。

「……ナハト」

 会いたい。

 何もかもをかなぐり捨てて、逃げ出して、彼女の元に戻りたい。僕を受け入れてくれたナハトと、もう一度会いたい。

 ピチョン、ピチョンと落ちる滴に僕は視線を移した。たった一瞬でしかないその滴には、微かに僕が反射して見えている。やつれた表情をしていて、とてもこれが自分だとは信じられない程に、生気がなかった。

 あるいはこれが、本当の僕なのかもしれない。

「……ニナ、オリガ」

 これまで一緒に旅をした妖精族の姉妹を思い出す。

 最後に見た僕の彼女達は、悲しそうな顔だった。ニナに至っては、人間からの攻撃で致命傷を負っている。離れてしまったこの牢獄の中では、ニナがどうなってしまったのかは分からないけれど、何とか無事である事を祈るばかりだ。

 三人だけではない。

「エレオノーラ、ラセツさん、ハクア、オババさん……リャノンさん、メアリーさん」

 涙など枯れ果てたはずなのに、頬がやけに冷たく感じる。どうして僕はここに居るのだろう。出たい。けれど、出てどうするべきなのか。また魔物達に会いに行く? そんな資格、僕には果たしてあるんだろうか。

「……」

 ギギ、と目の前の重い扉が軋みながら開き始める。差し込まれる光に目を細めていた僕に、牢獄へ入ってきた男は口を開いた。

「出ろ」



「……で、これから何をするんだ」

 別の部屋に連れて行かれたカズヤは、再び椅子の上に括り付けられる。しかし、今回は少し違い、椅子は鉄製で、肘掛け部分が備わっていた。無理矢理座らされたカズヤは、抵抗も虚しく手首を腕輪の様な物で肘掛け部分に固定される。

 ひんやりとした鉄椅子と湿り気のある空間。先程の牢獄と、では何が違うのかと言われれば────そこには様々な器具が置かれていた。それらが所謂拷問器具である事くらいは、カズヤにも理解出来る。

「決まり切っているだろう」

 カズヤの前でそう言い放ったのは、一人の男だった。マコトやヒヨリでも、そしてヴラド・カノッサですらない。知りもしない男は至って冷たい表情でこちらへ近付く。

「お前は死んでも蘇る力があると聞いている。そんなお前に対して俺がするべきなのは、お前の力について知る事だ」

「痛め付けて喋らせようとしているのか。はは」

「何がおかしい」

「喋らせられると良いな」

 痛みに慣れているカズヤにとって、拷問はさほどとして恐怖を抱く物ではなかった。だからこそ他人事の様に言う。

 笑ってはいるけれど、表情に変化はない。そんなカズヤに対して何を思ったのか、男はしばらく鉄椅子に座るカズヤを見下ろした後に踵を返す。

「……?」

 不意を突かれる形でのそんな行動に訝しむカズヤは、振り返った男の手に握られている器具を一瞥して目を見開いた。

 二枚の鉄片とその両端にある支柱。真ん中にはネジ状の棒とハンドルが付いており、言うなればくるみ割り機の様であった。

「死ぬ事が最もな痛みだと思っているのなら、お前は後悔するだろう」

 きりきりとハンドルを回して鉄片の間隔を広げていきながら、男は静かに言った。



 親指つぶし器。

 その名称と形状を、カズヤは元の世界での書物でしか知らないのだけれど、目の前で佇む男が手に持つそれが親指つぶし器なる物である事くらいは容易に思い至った。鉄片の間に指を入れてハンドルを回す。間隔の狭くなっていく鉄片が、指を少しずつ潰す。

 地味でこそあれど立派な拷問器具。しかしその器具をもちろん使われた事のないカズヤは、親指つぶし器が一体どれ程の激痛を伴うのかについてまでは予想出来なかった。

 いや、痛みなど慣れてはいる。剣で貫かれたり、プラズマで身体を溶かされたり、何度も死ぬ思いをしてきた自分にとって、指が欠損するであろう拷問がさしたるものではないのだろうと踏んでいた。

「まずは親指からだが、話す気になればいつでも話すと良い」

「話すって、何を話せば良いんだよ」

 カチャカチャと二枚の鉄片の間に右手親指が差し込まれる。

「どうやってその力を手に入れたのか、そしてどうやってその力を発動させているのか」

「なるほど」

 まあ、言う気などカズヤには全くない。訊ねておいて答える気がないというのは、男からしてみれば堪ったものではないだろう。

 意地悪く口元を歪めたカズヤに、しかし男は無言でハンドルを回し始めた。使い込まれているが故なのか、はたまた使った事がないからなのかは定かではないけれど、錆びたネジがきりきりと音を立てる。

 鉄片が親指の第一関節に当たり、そして。

「……っ」

 久方振りに味わう鈍痛が親指に伝わる。それで顔を顰めるカズヤに、男はハンドルをゆっくりと回し続けた。

 末節骨と中接骨の間を挟む鉄片の間隔が狭まり、親指を締め上げていく。圧迫感で指先が鬱血し始め、他の指が悲鳴を上げるべくして痙攣する。

「っ、あ……!」

 声が漏れ出る。大した事はないと踏んでいたカズヤが、男の言う通り後悔しそうになる程の痛みが走った。

 メキメキと音を立ててIP関節が無理矢理にこじ開けられる感覚が伴い、赤くなっていた指先の毛細血管がプチプチと金切り声を上げる。

 この時のカズヤの挟まれた親指の第一関節は、通常時の半分以下になっている訳だが、男のはハンドルを回す手を止める気は全くないらしい。苦痛に顔を歪めるカズヤに対し、マグナ・レガメイルの様に愉しむ様ですらない事から、本当に指を潰す気でいる事が分かる。

「くっ、あああ!」

 しかし、話す訳にはいかない。いや、話したところで信じてもらえる保証がまるでないのだから、正確に言うなれば話しても意味が無い、のだが。

 奥歯を噛み締めて必死に痛みを和らげようともがくカズヤ。逼迫した歯の付け根からじんわりと鉄の味が口内に染み渡るが、その味を堪能している場合ですらない。バキバキと遂に骨が割れる音が聞こえているのは、自分だけなのだろうか────分からない。

 ともかく、思考する余裕すら与えられないままに激痛が伴う。ドアに指を挟んだり、そんな次元の物ではない。

 指が千切れる、そう思った直後。

「……なるほど」

 何をもってなるほどと言ったのかは理解に苦しむが、男はハンドルがパ、と手を離す。

「っ、はぁ……はぁ……」

 止まる気配の無かった鉄片の圧迫がようやく収まり、カズヤはいつの間にか止めていた息を吐き出す。麻痺した指の感覚に呼応するかの様に、口元が安定せず、涎がズボンに垂れ落ちる。

 何とか耐え切ったカズヤのそんな姿を見下ろしていた男は口を開く。

「どうやら時間が掛かるらしい」

「────!」

 カチャリと右手をこちらに差し出した男の上に置かれている親指つぶし器にカズヤは目を見開いた。

「人間の指は片方で五本ある。お前は人間ではないらしいが────例に漏れず五本あるらしい」

 四つの親指つぶし器を手の平の上で転がしながら、男は淡々と言う。

「拷問をする上で、多少の罪悪感と言うのはどんな悪人であろうとも抱くはずなんだがな……全く不思議だ。お前にはそう言った物をまるで抱かない」

 それはカズヤが人間でない事を暗に示しているのは明白なのだが────それにしたってゾッとする。曲がりなりにも見た目は人間そのものであるはずなのに、こうも人間は突き放せるものなのか。

 久しぶりに背中に駆け巡る悪寒を、気を紛らすべくして唾を呑み下したカズヤは笑った。

「はは、ははは」

「……」

 奇怪なカズヤの笑い声に取り合わず、男は二つ目の親指つぶし器の鉄片を人差し指の第二関節辺りに差し込む。冷たい鉄片が触れるだけで、身体がビクンと跳ねるのは、もうカズヤの身体が理解してしまっているからだろう。

 動物でも人間でも、大人しくさせるには暴力が一番の様に────そして、それはカズヤにも言える事だった訳だ。

「死ぬ事が最たる痛みだとお前は思っていた様だが」

 人差し指に親指つぶし器を嵌め終えた男はハンドルに手を伸ばしながら静かに言う。

「人間は時に死んだ方がマシ、と思う程の痛みを味わえる様に作られているんだよ」

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