ロクジュウサン 祈り

「ああ、あああああ!!」

 『吸血族の城』にて、その悲痛な叫び声が耳を劈く勢いで響き渡った。悲鳴を発したのはニナだ。彼女の胸に突き刺さった矢を握ったリャノンが、ゆっくりとそれを引き抜き始めた事により、痛みに悶えて悲鳴を上げ続ける。

「ううああああ!」

「姉上……!」

 彼女を抱きかかえていたオリガは、姉のそんな叫び声を自分の痛みの様に顔を歪めながらも、ギュ、とその手を握り締める。

「ニナちゃん、もう少しだけ耐えて……!」

「あああああ! ああああああううう!」

 リャノンの励ましも掻き消さんばかりの悲鳴に、彼女は一瞬この矢を抜く事を躊躇った。抜ききった直後のショックで落命するかもしれない、あるいは、自分の治癒魔法を施す前に出血多量で……そんな不安が矢を引き抜く手の速度を遅めていく。呼吸が浅くなり、リャノンの額から流れる汗が、ポツンと矢を握る手に落ちる。

 ええい、ままよ────などと言って一気に引き抜ければどんなに良い事か。自分にはそこまでの決心の下で動ける程の気力はないのだと思い知らされる。

 唇を噛むと、百年以上前にこの城を訪ねてきたエレオノーラの姿を思い出した。妖精族でありながら、羽を毟られた彼女の痛々しい姿を、初めて見た時の記憶が掘り起こされる。

『もうすぐで新しい家族が出来るのよ!』

 そう言って胸を張る彼女の、誇らしげな笑みが脳裏を過った。母親も、姉も失ったエレオノーラの表情は、外見だけではとても理解し難い苦悶のそれを感じさせた。どうしてそこまで貴女は強気で居られるの、とリャノンが聞くと、

『だって、もしも私が悲しそうにしていたら、生まれてくる娘達を不安にさせてしまうじゃない。そういうの、私は嫌なのよ』

 そう答えたのだ。臆面もなく続けて、

『アンタも家族や一族そのものを滅ぼされかけているけれど、だからって守りたいものがない訳じゃないんじゃないの?』

 と、言うのだから、エレオノーラは私の過去にまでズケズケと踏み入ってくるのだから、本当に嫌いだ。それに、守りたいものなんて、あるのかも分からない。ずっと城に篭っていて、頭がおかしくなりそうなくらい何もない一日を繰り返していくだけの日々、果たして私には、何かを守れるだけの力なんてあるのだろうか。

「姉上……」

 ハッとする。オリガの泣き出しそうな表情を見て、リャノンは放してしまいそうになる手に力を入れる。放れていた心をもう一度取り寄せる。そうだ、私に守りたいものがないからと言って、この子を見殺しにする理由になんかならないのだ。

 カズヤちゃんは────自身を人間とすら思わないあの哀れな少年は、私にこの子を託して外へ出て人間と戦っている。その戦いすら、私がこの子を延命させる為の時間稼ぎでしかない。そこまでして自分を投げ出す彼を、姉の手を握り続ける妹の想いを、私の自己中心的な思考で無駄にしてはいけない。

 誰かが死んで悲しむのは当たり前だ。

 誰かの死で、涙が出るのは当然だ。

 けれど、そんな結果で出てきた涙に、一体何の価値があるというのだろうか。

 一人で泣くより、二人で泣いた方が良いに決まっている。

 死んだから泣くのではなく、生き延びたから泣く方が、よほど価値がある。

「大丈夫。死なせたりなんか、しないわ」

 リャノンは言う。父が死んで、一人で泣いていた彼女だからこそ、その言葉には重みがあった。ゆっくりと長く息を吐き、その手にある矢を一気に────引く。

「っ、ああああああああ!!」

 刺さった矢尻の逆鉤がニナの肉を巻き添えにする。刺さっている時よりも更に傷を大きくしていきながら、広がった事によって噴出する血液を浴びながらも、リャノンは一度の瞬きをしなかった。真っ直ぐに引き抜く事で、余計な傷を負わせない様慎重に計らい、それでも過度に遅くならない様大胆に、矢を抜いた。

 スッ、と矢の感触が軽くなり、深く突き刺さっていたそれを投げ捨てたリャノンはすかさずニナの傷痕に両手を翳した。溢れる血を、必要以上に流させない為に押さえ、祈った。

 薄く赤い光がリャノンの両手から漏れ出すと、それはニナの胸に静かに纏い始めていく。

「ああああああ! ああ、ああああ! ううあ……あ」

 ありったけの魔力を使い、ニナの傷を塞ぐ事だけに注力する。すると、抉れていた肉が少しずつ回復し、再生していく。削れていた骨が修復され、破れていた血管を戻し始め、臓器が元通りになる。

「あと、少し……っ」

 お願い、死なないで。

 リャノンが強く祈ると、それに呼応するみたく、両手の光が輝きを増す。ただの治癒に留まる彼女の魔法では、どんな深傷でも治す事は出来ても、死んでしまっては意味もない。だからなるたけ早く、速く回復しなければならない。だから後は、ニナの生への意欲に賭けるしかないのだ。

 それでも、自分の最善は尽くす。

「あ、あ……っ」

 ニナの着ていた服のダメージを残し、その身体が全て治りきると、彼女は短い嗚咽の後、コテンと力無くオリガの膝に崩れる。

「はぁっ……はあっ……はぁっ……」

 それを見たリャノンは両手を離すと、ニナの首筋に指を当てた。

「……大丈夫。気を失っているだけよ」

「ほ、本当か……!」

 生きている。あれ程の傷で、更には魔力で侵食されていたにも関わらず、ニナは意識だけを失って眠っていた。オリガも信じられないと言わんばかりに目尻に浮かべた涙を拭くと、ニナの身体を抱き締める。

「姉上……!」

「まだ、安心は出来ないわ。治したのは身体だけだから、この子の中に入った人間の魔力を取り除かなくちゃ」

 そうだ、まだその可能性がある限り、ニナの安全が確保された訳ではない。抜かしてしまった腰で立ち上がれないリャノンは、メアリーの肩を借りて立ち上がると、側で見守っていたナハトに言う。

「竜族なら、それが出来るんじゃあないかしら……人間と魔物の子孫であるあなた達なら」

「そ、それは……」

 ナハトは目を伏せると、僅かな沈黙の後に口を開く。

「私には、出来ません……。けれど、ヴィルム様なら、もしかしたら……」

「ヴィルム?」

「竜族の長です。竜族の中で、最も魔法に長けている竜です」

「なるほどね。メアリー、ニナちゃんをベッドまで運んであげてちょうだい。オリガちゃんは、お姉さんの側にいてあげて」

「で、でも」

「良いから」

 外では相変わらず人間の攻撃の音が止まない。しかし、メアリーの防護魔法で時間にはまだ余裕があるはずだ。それに、カズヤが身体を張って食い止めている。

「ニナちゃんが起きたら、人間に悟られない様ここを離れるわ。それまでの間、ナハトちゃんと竜族の所まで行く方法だったりを話さなきゃね」



「ありがとう……」

 隣の部屋に移動し、辛うじてまだベッドとして原型の残っていたベッドの上にニナを寝かせたニナに、オリガが礼を言うと、姉の方へ視線を下ろした。

「……」

 綺麗な寝顔で、死んでいるんじゃないかとすら錯覚させる様で、不安だったオリガは、彼女の手をそっと握る。

 温かい。

 当たり前だ。さっきまで刺さっていた矢を引き抜いたリャノンによって、大きく穿たれた胸の穴は回復しているのだから。破れた服から垣間見える部位には、傷痕などさっぱりなくなっている。

 流石に彼女らを残して出て行けないと考えたのか、メアリーは少し離れた位置で二人を見守っていた。

「……?」

 そして彼女は気が付いた。ニナの首から下げられている緑色の宝石の首飾りがある事に。いや、初めからニナが首飾りをしているのは知っていたけれど、その首飾りが僅かながらに光り輝いているのだ。

「……」

 とんとん、とオリガの肩を叩いたメアリーが、ニナのそれを指差した。そこでようやくオリガも気が付いたのか、しばらく輝いている宝石に穴が開くほど目をやった。

「これは……」

 そうだ。これは、エレオノーラがニナに渡した首飾りだ。けれど、どうしてこれが、光っているというのだろう。太陽の光で反射する程、この部屋は崩れていない。つまり、この宝石が一人でに輝きを放っているのか……?

「……母上」

 首飾りに手を当て、そっと上げてみる。より強く光る宝石を両手で包んだオリガは、強く願った。

 否、祈った。

「どうか、どうか助けて下さい……!」

 遠くにいる母の姿を思い浮かべて、それまで鉄仮面のごとき無表情を貫いていたオリガは、声を震わせ、涙を滲ませて、そう祈る。

 そして────。



 リャノンを椅子に座らせたメアリーが、ニナをそっと抱き上げると、オリガと共に部屋から出て行く。目眩と緊張で重たい頭を堪えながら、リャノンはナハトに訊く。

「……竜族は、雲の上に住んでいると聞いた事があるのだけれど、何か呼ぶ為の方法はないのかしら」

「いえ……ありません。けれど、私が竜の姿になって飛べば────」

「それは駄目よ」

 リャノンがナハトの言葉を全て聞く前に首を振って否定した。

「言ったでしょう。貴女はまだ完治していないのよ。人間の魔法をもろに食らって、ただでさえ痛手なのに、治りきっていない翼でまた飛んだりしたら、今度こそ飛べなくなってしまうわ」

「そんな、だからって……」

「魔物にも人間にも肩入れをしない。いわば中立的な立場を保ち続けるとは聞いていたけれど……そもそも貴女が地上へ降りてからそれなりの日数は過ぎているはずなのに、未だに助けが来ない辺り、竜族は相当に薄情なのかしら」

 皮肉というより事実でしかない言葉に、ナハトは項垂れた。確かに、どちらにも属さないというのは体裁を守っていて素晴らしい限りなのだが、それがあまりにも枠を超えなさすぎる。

 冷徹とも言えるかもしれない。

 そんな竜族に、ナハトの力無しでどうやって行くべきなのか。

「私の傷は、あとどれくらいで治るんですか?」

「そうね。最低でも十日以上は安静にしているべきだわ。だから貴女の回復を待ってからでは遅過ぎる。ニナちゃんは持って数日……一刻でも早く竜族の元に行きたいのだけれど……はあ」

 溜め息を吐いた。ここまで八方塞がりになると、もう何を考えれば良いのかすら分からなくなってしまう。魔力を一気に消費してしまったせいもあってか、まともに思考が働かない。

 働かなかったから、気が付かなかったのだろう。

 外から聞こえていた爆発音が、少し小さくなっているという事に。

「……?」

 そしてリャノンよりもいち早くそれに勘付いたナハトが、疑問符を浮かばせながら窓に近付いた。身を低くして、乗り出しすぎない様に注意しつつ、外の、地上への目を向ける。

「……! カズヤさん!」

「な、何!?」

 唐突に叫んだナハトの声にびくりと身体を動かしたリャノンが、彼女と同様に窓の方へ歩くと、遠くで何者かに担がれているカズヤの姿を捉えた。

「あ、あれは……!」

 遠距離でほぼ背中しか見えなかったリャノンではあったけれど、それでもあの男が放つ魔力には覚えがあった。十年前、血を分けて欲しいとベレニアス王国に赴いたリャノンの前に立ち塞がった男────『砕剣の聖騎士団』ヴラド・カノッサだ。

 思わず後退りをしてしまう。あの時のヴラドが自分に、魔物に対して寄越した冷たい視線を思い出す。ただひたすらに魔物を卑下していたヴラド・カノッサを、リャノンは恐怖すら覚えていた。

「私、やっぱり行きます!」

 バ、と窓に背を向けて走り出そうとするナハトの手首を慌ててリャノンが掴む。

「リャノンさん、放して下さい!」

「駄目、よ。今行けば、貴女も捕らえられてしまう!」

 何の為にカズヤが外へ出たのかよく考えなさい────リャノンはナハトに向けて言い放った。彼女にとっても、リャノンにとっても、辛い言葉である事に変わりはないけれど、それでもナハトを外に出す訳にはいかない。

 だから。

「だから、私が行くわ」

「! でもリャノンさん……」

「大丈夫」

 リャノンのその言葉に、ナハトは目を見開いた。大丈夫なはずがない。私の手を握っている彼女の手が、こんなにも震えているというのに。

「大丈夫、大丈夫よ。パパ……父から教わった魔法があるから、きっと……ね」

 魔法が苦手だったリャノンが、父が最期に教えてくれた『あれ』さえあれば、外にいる連中など、必ず……。ヴラド・カノッサは既に荷台にカズヤを下ろし、『吸血族の城』に背を向けて離れ始めている。このまま立ち往生していれば彼を助けられない。大丈夫、と自己暗示をかけていたリャノンがやがて、震えていた右手の力を緩めた瞬間。

「────!?」

 城が揺れた。

 それは防護魔法を攻撃していた人間からのものではない。城そのものが揺れたのだ。そしてその揺れの発生源が、今居る大部屋の床を、天井を突き抜けて行く。

「な、何これ……!?」

 リャノンもナハトも唾を飲み込んだ。突如として目の前に現れたのは、植物の茎……だろうか。緑色のあまりにも大きなそれを、中で見たリャノン達だけではその全容はハッキリと目視出来なかった。

 それそうだろう。

 何故ならそれは、『吸血族の城』に生えた大木だったのだから。




 『吸血族の城』から遠く離れた場所にある、荒れ果てた大地の中にポツンとある緑の森。『妖精族の森』にある湖の畔で、桶に水を汲んでいたエレオノーラは呟いた。

「……ニナ? いや、これは……オリガ?」

 ばしゃあ、と桶を手放してぽっかりと空いた空を仰いだエレオノーラは、目を瞑る。聞こえる訳ではない。見える訳でもない。けれど、はっきりと伝わる、愛娘オリガの祈り。

『助けて』

 小屋の方角に踵を返したエレオノーラは歩き出した。最初はゆっくりと、少しずつ駆け足になりながら森の中を走る。

「あかーさま?」

 と、首を傾げている末っ子の頭を撫でるのも早々に終わらせて、自身の小屋の中へ飛び入ったエレオノーラが机の上に置かれていた本を手にする。

 代々受け継がれてきた魔法書。

 目次などあるはずもないその書物を迷う事なく開いた先にあったページ。文字も記号も、何も書かれていないその一枚が、緑色に光り輝いているのを確認したエレオノーラは、ゆっくりと本を閉じた。

「ニナ、オリガ……!」

 本を片手に再び外へと飛び出したエレオノーラの元へ、娘達が駆け寄った。

「おかーさま、どうしたの?」

 一人が心配そうに見つめてくる。真剣な面持ちをしていた母を娘達が囲うと、母は少し微笑み彼女達の頭に手を置いた。

「ちょっと用事が出来たの。ニナとオリガを迎えに行ってくるから、お留守番、出来るわよね?」

 お留守番、という言葉に娘達は不安げな表情をした。それが、エレオノーラの母と姉達を見ていたかつての自分を彷彿とさせてしまう。

 けれど行かなくてはならない。ここにいる娘達同様に、旅に行ったニナとオリガもまた、エレオノーラにとっては大事な子供なのだ。

「大丈夫だよ皆! お母さんは必ず帰ってくるから、ね!」

 そう元気よく言うのは三女のリリアだった。ニナやオリガに比べて、子供っぽいながらも姉として今日まで妹達と一緒に居た彼女が、エレオノーラに言った。

「妹達は私に任せて、お母さんはニナお姉ちゃんとオリガお姉ちゃんの所に行ってきて!」

「リリア……ありがとう」

 一人一人の額に口を付け、抱きしめ、エレオノーラは再び空を仰ぎ見た。晴天に向けて、エレオノーラは呟く。

「ルート・イルマ・フレイレル」

 その言葉の直後、エレオノーラの足元が揺れると、太く大きな蔓が生え始めた。彼女を乗せて、蔓は森よりも高く伸びると、やがて『吸血族の城』がある方向に転換して真っ直ぐに進行する。

 まるで木の根を張り巡らせる様にしながら、風を切り、大地に生えながら、蔓は猛スピードで進んでいく。

「ニナ、オリガ……カズヤ、待ってて」

 愛娘の名と、少しの間だけ『妖精族の森』滞在していた彼の名を、エレオノーラは遠くを見据えながら呟いたのだった。

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