ゴジュウニ 母

 魔女の放った光撃魔法で、マコトが死ぬ事は無かった。激しい光によって瞼を閉じてしまったマコトは、いつまで経っても感じない痛みに疑問を覚えて目を開ける。

「な、んで……!?」

 マコトがまず見たのは、狼狽えて後退する魔女だった。瞳孔が開き、唇を戦慄かせ、血の気が引いているその額には冷や汗が垂れている。そして、マコトはようやく自分の目の前にあるのが一本の剣であるのだと認識した。

 控えめな装飾と、剣身に入った亀裂。その一本の剣を、『砕剣カルテナ』だと直感する。だが、どうしてここに? マコトはこの剣を操ってもいないし、そもそも急な事態で飛び出たマコトにとって、あの大書庫に置いてきてしまっていた事すら忘れていたのだ。

 その場の誰もが身を固めた。あまりにも唐突な出来事に対処できない脳の処理を、少しでも落ち着けようとする。

『────』

 やがて、キィンとやけに余韻が残る高い音が聞こえてくる。だがそれは決して耳を塞ぎたくなる程の煩わしさはまるでなく、優しく温かい日差しにも似た心地良さがあった。

「どうして、『砕剣カルテナ』が……」

 魔女が呟く。明らかに動揺していて、その瞳に燃え盛っていた殺意や熱気が込もっていない。頬を痙攣させて口にした独り言に答えるモノがいた。

 いや、あった。

『こんな事はもう、やめて欲しい』

「……!」

 その場に居た全員が目を見開いた。魔女と会話をするべくして声を発したのがまさか『砕剣カルテナ』そのものだったなんて、誰が信じよう。しかし、現状、『砕剣カルテナ』は魔女へと発したのだ。少し低く、けれどはっきりとした言葉を『砕剣カルテナ』が紡いだ。

『サロウネ、君が苦しんでまで、生き返るのは気が引ける』

「……どうして、どうしてその名前を」

 魔女はゆっくりと首を振る。じんわりと浸透していく現実に、頭がぼんやりとしながら。

 あり得ない。あり得るはずがない。だって彼は死んでいるのだから。もう既にこの世には居ない人なのだから。でも、私をその名前で呼ぶのは、この世でたった一人しかいない。

「シン……なの」

 シン・インカレッツィオしか、魔女────もといサロウネの名前を呼ばない。娘のローランでさえ、彼女の事は「母様」としか言わないのだ。でも、信じられない。

『その、意思みたいな物だよ。生涯最も愛用した剣に、魔力と僅かな意思が宿った。何ら不思議な話ではないだろう?』

「あり得ない……!」

 魔女は俯きながら言う。叫び声にも近い、悲痛なその言葉はシィン、と崩れた闘技場に響き渡る。マコト、ヒヨリ、そしてローランさえもが魔女と『砕剣カルテナ』に宿るシン・インカレッツィオの会話に聞き入っていた。

『けれど、普通の人ではあり得ない力を、君も俺も持っているじゃあないか』

 ふわふわと漂う剣が少しだけ魔女────サロウネに近付くが、彼女はそんな剣に対して半歩後退しながら首を振った。

「魔法があっても、だからって物に意思が宿って、会話まで出来るだなんてあり得ないわ!」

 最もな意見だろう。しかし、現に起こっている。この場に居る全員が、シン・インカレッツィオの声を聞いているのだ。どんなに受け入れがたい事象でも、起きてしまったらどうしようもない。

 魔法を魔法として受け入れる様にして、こうやって剣が喋る事実を肯定しなくてはならない。だからサロウネもここに残っているのだろう。口上では「あり得ない」と言いつつも、シン・インカレッツィオと話したいのは、彼女が強く望む願いなのだから。

『サロウネ。誰かの犠牲で生き返る事を、俺は望んでいない。それに、生き返れてしまうと分かったら、きっと俺は傲慢になってしまう』

 優しい声だ。まるで子供をあやしているみたいに、何もかもを包み込んでしまいそうな温もりを感じるその声に、サロウネが泣きそうになってしまう。

 剣でも、意思の欠片でも、間違いなく彼が話しているのだと。そう思うと、サロウネの込もっていた手の力が緩んでいく。

『間違わない人間なんていない。人は間違うから、そして反省するから美しい生き物なんだと思う。反省する心すら奪ってしまったのなら、それはただの動物と変わらないんだ。だから、人を恨まないで欲しい』

「……でも! アナタは、貴方は裏切られてしまった! 人の為に戦い、守り、尽くしてきたはずなのに! 貴方は濡れ衣を着せられて殺されてしまった! 例えどんな間違いを許せたとしても、私にとって貴方がこの世にいない事の方が許せない! 貴方を殺した人間が、どうしようもなく許せないの」

 はあはあ、とサロウネの呼吸が浅くなる。とても感情的な彼女の言動に対して、シン・インカレッツィオはただジッとその叫びに耳を────剣だけれど────傾けていた。

「貴方と会いたい、その手にもう一度触れたい、抱き締めたい、また一緒に暮らしたい、ただそれだけを私は望んでいるのに……どうして、貴方がそれを否定するの……?」

『……もっと、君と生きている時に話していれば良かった。俺はねサロウネ、人が好きだ。限られた命の中で懸命に生きようとする人間を愛している。けれど』

 と、シン・インカレッツィオは言葉を切った。躊躇っているのではなく、名一杯の感情を込めているのだろう。剣から息遣いすら感じられそうな程に。

『人間以上に、君を愛している。君を愛しているから、だから君が苦しそうに、俺を生き返らせようとするのが嫌なんだ』

「……」

『どんなに望んだ結果を得られたとしても、自分が何を犠牲にして生き返ったのかを考えた時、俺は心の底から笑って君を抱き締められる自信がない。そんなの、辛過ぎる』

 サロウネは何も言えなかった。ここまで、散々にもローランに言われてきた事だ。いや、ローランだけではない。彼と共に隠れ住んでいた村の住民達からも、そう言われてきた。


『彼はそう望んでいない』


 けれど、サロウネにとってその言葉は綺麗事をつらつらと並べただけの物でしか感じられなかった。それもそうだ。彼の気持ちなど、彼にしか分かり得ないのだから。説得力や重みなどまるで皆無だった。だからサロウネは魔女として、シン・インカレッツィオを蘇生しようとしたのだ。

 だが、その根底が今ひっくり返ろうとしている。最も愛した人の言葉。そのものと何の変わりもない、意思による言葉は、今までと殆ど同じ言葉だったはずなのに、サロウネの心には確かな変化が生じつつあった。

 娘ですら、彼の次に愛しているローランの説得でさえ、上っ面としか思えなかった。同じ説得でも、する人によって印象は大きく異なる。娘でも、別の他人でも、サロウネの心を動かさなかったというのに、今まさに彼女は、シン・インカレッツィオによって戦意を喪失している。

「……それなら私は、一体何の為に生きれば良いと言うの? 何を信じて、何を抱き締めて生きれば良いの……」

 今まで彼女が生きてきたのは、シンを生き返らせる為でもある。彼に拒まれてしまい、潰えたこの目的が無くなったのなら、サロウネに待ち受ける未来は空虚な物なのではないか? と、彼女は考える。

 だが、

『そんなの分かり切っているじゃないか』

 剣────シン・インカレッツィオは言った。とても明るく、彼女の周りを飛びながら。

「え?」

 サロウネが顔を上げた。

『君は何よりも、ローランが生まれる事を喜んでいた』

 スウ、と今度はローランの元に近寄った。それまで父と母の対話でしかなかったが故、蚊帳の外に置かれていたローランは、自分の名前が挙がった事に目を丸くした。

『君は今まで、俺の為に生きてくれた。なら、次はこの子の為に生きて欲しい。母として、俺の代わりに多くの愛情を注いで欲しいんだ』

「でも、私にそんな資格は……」

 サロウネは拳を握ると、声を震わせた。人を滅ぼしかねない程の戦争を仕掛け、娘と対立した彼女にとって、その提案が最も難しい彼からの願いなのは間違いないだろう。

 それをローランも理解していた。だから、ローランはゆっくりと立ち上がったのだ。長い時間を掛けて。

 魔力が残っていなくとも、人は立てるのだ。

 魔法がなくとも人は歩けるのだ。

 その足で、確かな一歩を踏み締めて、痛む片腕を押さえながら、泣きそうに顔を歪めている母の目の前まで行く。

「母様のしてきた事は、決して許される様な事ではありません」

「……」

 重たい言葉だ。シンの代弁は出来ずとも、娘なりに体験してきた事を口にしたのなら、それはどんな石よりも重くなる。

「けれど人間は間違う生き物です。常に正しく生きる事なんて、不可能なんです。だから母様、私は貴女を許します」

「ローラン……!」

 俯いていた顔を上げると、ローランの表情が目に飛び込んだ。無邪気に笑っている姿が、幼い頃に駆け寄ってくる姿ととても似ていた。

 魔法を習いたいと言って、舌足らずに詠唱するローランを思い出す。

「例え全ての人間が貴女を許さずとも、私だけは母様を許します。そして、愛します……いいえ、愛しているのです。母として、家族として、私は母様の事を一度たりとも嫌いになんてなった事はありません」

「……ああ、ああああ……うっうう…」

 ごめんなさい、とサロウネは呟いた。心の底から謝る。崩れ落ちる母を、ローランはただ優しく抱擁した。とても暖かく、深い愛情を持って母に寄り添った。

 説得はシン・インカレッツィオにしか出来ないだろう。彼の言葉で、サロウネは全ての過ちを省みるだろう。だが、誰が泣いている彼女に手を差し伸べられる?

 剣はただ、優しく語り掛ける事しか出来ない。語り掛け、諭して、気付いてもらうしかない。その役目だけが、『砕剣カルテナ』に与えられたものなのだ。

 手を差し伸べ、抱き寄せ、その涙を受け入れるのは、きっと彼女にしか出来ない役目だ。

 泣きじゃくる母と、そんな母を抱き寄せるローランの姿を、『砕剣カルテナ』はただ静かに見ていた。その光は崩れた闘技場を包み込んでいた。



「……」

 マコトとヒヨリは完全に沈黙した。仇を取れなかったから機嫌を損ねている訳では決してない。二人だって、魔女が改心する以上に望む未来はないのだ。ならば何故沈黙していたのかと言えば、単に会話に入りづらかったからだ。

 剣が話し、魔女が泣き、ローランが抱き締める。

 それまでの流れをマコトとヒヨリはただ眺める事しか出来なかった。完全に部外者だと卑下せざるを得ないだろう。

「マコト君」

「あ、はいっ」

 突然名前を呼ばれてハッとしたマコトに、ローランは魔女を抱き締めたままこちらに向かって微笑んだ。

「ありがとうございます。マコト君が『砕剣カルテナ』の持ち主に選ばれていなかったら、こうはなりませんでした」

「いや、そんな事は……」

 正直何が作用して『砕剣カルテナ』が喋ったのかは分かりかねるから、マコトにとっては実感もない感謝の言葉だった。

「ヒヨリさんも、ありがとうございます」

「私も別に何もしてないですよ」

 次いで礼を述べられたヒヨリもまた実感のない様子で両手を振る。

『マコト君』

「はい」

 『砕剣カルテナ』がマコトの前まで浮遊してくると、自身の名を呼ぶ。仄かに輝く剣はまるでマコトの顔をジッと見つめている様だった。

『すまない、君を……君達を巻き込んでしまって』

「え? いえいえ巻き込まれたなんてそんな風には思っていないですよ」

 剣に対して真面目な口調になるのは何だか違和感しかない気がするけれど、喋り掛けているのが英雄とも言われた人物なのだから当然ではあるだろう。

 改まった口調で『砕剣カルテナ』は言った。

『君達が望むのなら、君達二人を元の世界に返す事もやぶさかじゃない』

「……え?」

 元の世界へ返す。

 その言葉にマコトとヒヨリは顔を見合わせた。

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