ヨンジュウキュウ 決別

『母様! もうやめてください!』

 雲を突き抜ける程の巨大な山の頂上にポツンとある木造の家の中で、まだ若きローランは机に向かっている母にそう叫んだ。

 悲痛な声に、しかし母——魔女は虚な目で黙々と何かを書き記している。

『人を……死んだ人間を蘇生する魔法など、存在なんてしないんです! もう百年以上も模索し続けている母様も分かっているはずです……!』

 生まれた頃より父の事を知らなかったローランにとって、彼女の行動がまるで理解出来なかった訳ではなかった。ローランもまた、父と再会出来るのなら是非もなくそう望んでいる。しかし、それは今生きている母の精神を病ませてまで実現して欲しいなどと、決して思わなかった。

『魔法は万能かもしれません。けれど、全能ではないんです……母様がよく知っているでしょう』

 耳を傾けない母にローランは語り掛ける。あるいは、聞いていないのではなく、受け入れたくはないのかもしれない。目の前で愛する人を殺された悲しみを背負っている母にとって、その悲愴感が一体どれだけの重荷なのかをローランには計り知れなかった。

『……ローラン。私の愛するたった一人の娘』

 魔女がやがて口を開く。淀んだその声は室内にはあまり響かずとも、ローランの耳にはしっかりと入っていく。ボサボサになった銀色の髪でよく見えない母の表情が、僅かに震えている。

『私はもう一度、彼と会いたい。その願いが……想いが……どれだけの人を苦しませる様な惨状を生み出そうとも、私は彼の笑顔をこの目で見たいの』

 ねぇ、と魔女はようやく振り返った。

 とてもくすんでいるその笑みは歪んでいて、目頭が赤くなっていて、腫らしたその顔で魔女はたった一人の娘に訴えかける。

『魔力があって、魔法があって、私にとってはそれが当たり前なのに……どうして何もかもを奪っていくの? ローラン、私の愛する貴女でさえ、私から願いを奪おうと言うの?』

『母様……』

 絶望している魔女を、母を、ローランは助ける事が出来なかった。魔法の力でさえ、彼女には遠く及ばない。話し合いですら、自身の言葉に耳を傾ける様子など一切ない。

 母を救えない。

 生まれながらにして魔力を持つ魔女が、幼い頃より受けてきた迫害を、裏切られた数を、到底知る由もないローランにとって——自分は結局妄言を、綺麗事を並べているだけの上っ面でしかないのだと、思い知らされる。

 たった一人を信頼して愛して、それでも人間に殺され、あまつさえ生まれてきた娘にさえも否定されてしまったのなら、一体彼女は何を信じれば良いと言うのだろうか。

 しかしローランはそれでも魔女を否定したかった。父が生き返る事を望んでいないのだと、人間を恨んでなどいないのだと、母に教えたかった。教えて、そしてまた一緒に暮らせたら……それ程幸せな未来はないだろう。

 人間の国へと——ベレニアス王国を守り続けるローランは、父と同じくして人間の平穏を何よりも望み。

 そして魔女は、シン・インカレッツィオを復活させる為に。

 結局母と娘は対立するなんて、何と皮肉な事だろう。そう思うと、涙すら枯れていく。



「ローラン様!」

 先へと走って行ったマコトの後を追うべくヒヨリとローランは闘技場へと向かっている最中、一人の甲冑を身に纏った騎士が走り寄ってくる。

「魔女が、魔女が襲撃を————」

「……っ」

 予想はしていた。『砕剣カルテナ』を手に入れ、持ち主として判別されたマコトが今、魔法使いとして類稀なる領域に達していたからこそ、魔女はこの国へと訪れたのだろう。

 しかし、こうも早く来るだなんて……。食い縛る奥歯の痛みを忘れながら、ローランは騎士へと命じる。

「アレクサンドル国王とシーファ王女の身の安全を最優先に! 残った騎士達で国民の避難誘導を!」

「は、はい!」

 ただならぬ雰囲気に騎士もより一層気を引き締めてたのか、慌てた様子で走り出す。その隣でローランの思い詰めた様な表情を見ていたヒヨリが、彼女の手を握る。

「大丈夫ですよ、ローランさん」

「……ヒヨリさん」

「あいつ、結構図太いんですよ」

 精一杯の元気付け……になったかは定かではないけれど、そんなヒヨリの励ましに、ローランはキッと前を見据えた。土煙を上げている闘技場から感じる、よく知った魔力の流れが二つ。

 マコト君に謝ろう。どんなに上っ面でも、彼を魔法使いとして最強にすべく育て上げてしまったのは私なのだから、と。ローランは再び足を前に運ばせる。



「マコト!」

 入り口など崩壊してしまった闘技場に入ったヒヨリが最初に目にしたのは、ボロボロになりながらも前を睨み付けるマコトだった。所々負傷していて、ここに来るまでの間で相当の戦闘が行われたのだと認識させられる。

「あらぁ、そう言えば、アナタも居たわねぇ」

「——!」

 その声は嫌という程耳に絡み付いて、だからこそ当時の記憶を掘り起こすものだった。ヒヨリがマコトと同じ方角に視線を向けると、砂煙の向こう側から現れた人物に歯を食い縛る。

 魔女。

 全ての人間に魔力と魔法を与え、魔法戦争を起こさせた最強の魔法使い。自身らをこの世界に召喚した張本人であり、そして、親友を目の前で殺した残忍な人物だ。

 銀色の髪が爆風で揺れ視界が妨げられてもなお、彼女は悠然とその場で立っている。擦り傷だらけのマコトとは違い、全くの無傷で、まるで一歩たりとも動いていないとでも言わんばかりの風格で、そこに立っていた。

「母様!」

 隣に居たローランが魔女に向けてそう叫ぶ。痛さすら感じられるその叫び声に、しかし魔女は何ら動じる事もなく娘に視線を移す。

「母様、こんな事、もうやめて下さい! 例えマコト君の魔力であったとしても、父様が生き返るなんて事はあり得ません!」

 あの時と同じ言葉で、ローランはハッキリと否定した。明確なその意思で放った言葉は、果たして魔女に届くはずもなく。

「ローラン。ならどうしてこの子を魔法使いにしたのぉ? 私に一縷の望みを持たせて、絶望の淵に叩き落とすのが目的なら……大した子になったわねぇ」

 そんなつもり、ローランには毛頭ない。しかし、母を止めて欲しいという自身のエゴに、これ以上マコトを巻き込みたくはなかった。だから、話し合いの余地があるのならローランはどんな惨めな姿になろうともそうするつもりでいた。

「駄目……だ」

 だが、そんなローランに首を振ったのは、彼女が何より案じていたマコト自身だった。右腕を押さえながらも、なお膝を伸ばしたマコトが魔女をジッと睨み付けながら言う。

「ローラン先生……俺だって、貴女を利用していた。殺された親友の仇を討つ為に、魔法を貴女から教わった事は俺の何よりのエゴです」

「マコト君……」

 そう、ローランが自分らの事情で魔法使いとして彼に教えを授けたのなら、マコトもまた自分の事情でローランから魔法の教えを受けていたのだ。

 片や母を止める為に。

 片や親友の仇を討つ為に。

「俺が魔女を倒す事で、結果的に魔女を止められるのなら、ローラン先生、止めないで下さい」

 ようやく言えたマコトの真意。

 答えを聞いたローランが霞む視界の中でマコトの後ろ姿を眺めた。ほんの一瞬でありながらも、長い時間を掛けて見た彼の後ろ姿を、ローランは会いも触れもしなかったはずの父を重ねる。

「魔女、お前の目的は俺なんだろ。だったら、全力で掛かってこいよ!」

 その叫びと共に、周囲の瓦礫が浮かび上がった。既に詠唱なくして魔法を扱えている自覚など、マコトにはさらさらなく、あるのはただ、目の前で悠然と待ち構える魔女への怒りだけ。

 こうやって対峙するのは、初めてこの世界へやって来た頃と同じだ。しかしマコトには、これまで培ってきた経験が身体に染み付いている。


 記憶だけのスワンプマンとは違い。


「全力、ねぇ。確かに、少し魔法使いとしては上達したみたいだけれど、私は魔女よ? 魔法に使われるだけのアナタ達と違って、私そのものが魔法みたいなものなのだから」

 魔女の過去を知って、同情しても、結局はそれだけでしかない。マコトは善人ではないのだ。もしも彼が善人なら、こんな所で戦いなど放棄してさっさと自分の身を差し出していただろう。

「カズヤの為にっ……!」

 マコトが力を込めると、浮遊していた瓦礫が横を通り抜けて魔女に放たれる。砲弾と何ら変わりはないスピードと威力で向かってくるそれらに魔女は微動だにしない。

 ドォォン!

 晴れてきた視界が、瓦礫との衝突によって再び砂煙を巻き上がらせる。もちろん、これだけで魔女が倒れるだなんて泡沫をマコトは信じはしない。

「へぇ、詠唱もなしに魔法を使うなんて……いよいよ本格的に、あの人や私と変わらないわね」

 人間に魔法を教えたのは魔女だ。ならば、魔法使いが使う防護魔法を、当然ながら彼女もまた発動させているだろう。粉々に砕け散った瓦礫を眺めながら、依然として無傷の魔女が笑う。

「アナタが居れば、彼を——」

 詠唱ではなく、ただの独り言に呼応するかの様にして抉れた闘技場の土が液体みたく空中に動き出す。ウネウネと、まるで蛇の如き蠢きをしながらマコトの——マコトが発動させた防護魔法に巻き付く。

「マコト!」

 ピシピシと亀裂の入る音を立てながら、確実にマコトの防護魔法を破ろうとしている。剣を引き抜いたヒヨリが彼の名を叫びながら飛び上がると、落下の勢いのまま剣を振り翳す。

「くっ……」

 しかし、びくともしない。僅かな切れ込みを入れるのが精一杯で、液状と化した土はそのまま防護魔法の形に沿って纏わる。このままでは——とヒヨリが再度剣を握り直した直後。

「氷魔法『雹針の重突』!」

 ローランの詠唱により生み出された何本もの氷柱が土の表層に突き刺さると、そこから生じた断裂によって卵でも割ったかの様に粉々に粉砕される。

「マコト君、私にも戦わせて下さい」

 外套のフードを取りながら、ローランは意を決した面持ちでそう言う。生まれながらにして魔力を持つ彼女でも、魔女に敵うなど夢のまた夢でしかないのは彼女自身がよく理解している。だからこそ、魔女に匹敵する魔法使いの素質を持つ者が現れる事を待っていたのだ。

 しかし。

「巻き込んでしまったのなら、巻き込んだ当事者なりに……私も魔女と向き合います!」

「ローラン先生……。ありがとうございます」

 バラバラと崩れていく土の中から現れたマコトが、彼女の決意に頷いた。

「ローラン、やっぱり貴女も私から奪おうと言うのねぇ」

「母様……」

 魔女が高らかに、寂しそうに煙を払い除けて口を開く。けれど、そんな母と対面する事を逃げてきたローランは、もう迷ってなどいなかった。

「遅めの反抗期ですよ」

 そんな冗談すら薄れる程の夕焼けの下で、崩れ去った闘技場に四人は————一人と三人が向かい合う。怒り、哀愁、敵愾心……とても綺麗とは言い切れない状況ではあるけれど、ローランは思った。

 上っ面だけでしか言葉を並べられなかったあの頃より、ずっと良いと。




 小さな村に、ある一人の少女が生まれた。決して裕福な生活ではなかったけれど、少女は両親に愛されてすくすくと育っていった。元気に、快活に。そんな少女には不思議な力が備わっていた。

 まだ魔法と呼ばれていなかったその力を、少女は最初村の同年齢の子供達に見せていた。自分が特別でいられると思い、少女は嬉しくもあった。そんな子供達から話を聞いた大人は、少女の力をこう呼んだ。

 奇跡の力だ、と。

 何も無い空間から水を生み出し、炎を操り、土を変形させ、空中に浮かんだり……少女が力を見せる毎に大人達は、村の住人達は少女を——少女の力を喜んだ。誰かに認められた気がして、少女は嬉しかったのだ。だから、惜しみなく彼らの為に力を使う事を厭わなかった。

 雨の無い日に雨を降らせた。

 土砂崩れを起こした丘を元通りにした。

 重い荷物を浮かばせて運んだりした。

 それら全てが、自分が認められたからこそ使えるのだと少女は信じていた。

 しかし、『その日』は起こった。

 老夫婦の家が燃えたその日、消火活動に励む少女を含めた住人達は次の日、ある青年の口から出た言葉で血相を変えたのだ。

『俺は見た。その子供が家に火を放つ瞬間を』

 少女は否定した。放火など、自分はしていないし、する理由もない。大体、自ら火を放った犯人がせっせと消火に勤しむなんて、何と滑稽な事だろうか。そんな馬鹿らしい証言があるだろうか。

 けれど少女には、それを言葉にする程賢くはなかった。そもそも、齢十にも満たない少女が、複数の大人に囲まれて『お前がやったのか』と聞かれて冷静に答えられる訳がない。

 違う。私じゃない。

 それを繰り返すだけで、少女は精一杯だった。自らの濡れ衣を否定する事に、住人達もそれが真実なのだと分かっていたはずだ。しかし、誰一人として、少女を庇う者などいなかった。大衆の抑圧によって流された『正しさ』は、やがて少女の力を弾圧するまでに至った。

 いや、それだけならばまだ良かったのかもしれない。庇う人がどれだけ少なくとも、居てくれるだけで少女には救いになっただろう。だが、本当に居なかったのだ。誰も、少女の為に身を呈する者など居なかった。

 少女を愛した父と母でさえ、住人の迫害に巻き込まれる事を恐れたのだ。

 捕らえられ、尋問され、『罰』と称して辱めを受け、磔にされ、殴られ、石を投げられてもなお、両親は少女を助けようとはしなかった。

 小さな村で、少ない人口で、それでも少女は知ったのだ。人間の愚かさを、知ってしまったのだ。だから少女は人間を拒み、恨んだ。その感情の果てにあったのは空虚なるもので、『村の住人を皆殺し』にしてもその空っぽの心が満たされる事はなかった。

 復讐心は何も生まないのだと、あらゆる苦痛を受けた少女は思い知らされた。けれど、それで人間を許す理由に、ならばなるのだろうか?

 否。

 丘の上から真っ赤に燃える村を眺めた後、少女は外へと出る事にした。名を捨てた少女は、自分を知った人々から呼ばれてきた『魔女』を名乗りながら国から国へと渡り歩き、人間がいかに愚かなのかを観察し続けた。

 売買される魔物やそれを何とも思わず買い叩く人間。略奪と暴力で拡大する国々。

 これが人なんだと少女はゆっくりと噛み砕き呑み込んだ。どう足掻いたところで、この生物は生かす価値もない烏合の衆なのだと少女は知った。

 いや、あるいは絶望したのかもしれない。

 もしかしたらどこかに、心優しい人間がいるのかもしれない。道端の花を労る様な、小さな虫にすら愛着を持つような、夢物語の様な人間が、実はどこかこの世界には居るのかもしれないと、少女は望んでいたのだろう。

 そして、出会ったのだ。

 十八歳を迎えた少女は、国を守る青年と。

 勇者と呼ばれ、英雄と崇められ、最期には、反逆者としての濡れ衣を着せられて殺される事となった青年、シン・インカレッツィオと。

 だからこそ少女は彼を深く愛した。同じ力を持ち、悲しい運命を辿ったこの青年を、少女は——魔女は愛したのだ。

 例えどんなに多くの人間を犠牲にしようとも、例え娘と対立する事になろうとも構わない。それによって生み出される悲劇など、彼と再び会いたいというこの気持ちの前では塵も同然だ。


 もうどちらにせよ、後には引けないのだから。

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