サンジュウロク 出現

 鬼族の住処から出立してから十日が既に経過した。目指す場所は依然として『吸血族の城』である事に変わりはないし、変わる予定もない。それは問題ないのだが、魔女が住んでいるとされている巨大な山の麓にあると言われて、取り敢えずその方角に進んでいるのに一向に近付いている感じがしない。あまりに山が巨大過ぎるというのもあるし、荒野ばかりが広がっており、景色に変化がないのもまた重なって、精神的に僕はやつれていくのが分かる。

 十日。

 人間は断食をすると三週間程度で餓死してしまうらしいが、こうやって歩いていると果たしてどうなのだろう。三週間とは言うが、最長で七十日は生きられるかもしれないのだから、人体は不可思議な物ではある。まあ、十日程度何も食べていなかろうとただ目眩と貧血が起こっているくらいで、特に大ごとにはなっていない。そういった症状を加味しないのなら、僕は依然として健康体ではあるのだろう。

 まあ、餓死しても問題はない。

「……」

 いや、問題はある。何せ僕は誓ったのだ。生きると。生きて、生きて、生き抜く。人間としてかではなく、一個の生命体として、やはり僕は生きるべきなのだ。甘んじて死を受け入れるから、アイデンティティを見失うのだ。僕は前を歩くナハト達の背中を見つめながらポケットに手を入れる。カサ、とエレオノーラから貰った水魔法が施されている紙が指先に触れる。確か十枚程あったはずなのだが、もう七枚くらいしかない。今ポケットに入っているのは四枚で、残りの三枚はニナに持っておいてもらっている。

 特段理由はないのだが、もしもこの紙ごと僕が燃やされてしまった時、かなり厄介な事になるからだ。今僕が紙が無い状態で死ぬと、『妖精族の森』にある湖で生まれ返る可能性が高い。ニナやオリガとナハトを置いて、僕だけが離れた場所に居るのは「守る」と豪語しておきながら逃げた様になってしまう気がしてならない。

 まあ、本音を言うのなら、この紙を使わなくて済む事が望ましいのだけれど。死なない事こそ、何とか自分を保てる要因になっているのだから、紙を使うのはなるたけ避けたい。そういう意味でもオババの十日の条件も呑んだのだから。

 そして右側のポケット。そう、ここに入っている物も使わない事がやはり望ましい。盗賊の男から奪った銃。流石の僕も、『大地の裂け目』で魔法使いと戦った事で学習したので、残っている全ての弾丸にニナの魔力を込めてもらっている。

 これで敵が現れたとしても、牽制する事が可能だ。

 牽制して、戦いを避ける。

 何と素晴らしいだろう。誰だって平和的な解決を求めるものなのだから、こちらに敵意が無いと分かれば、いくら人間であろうともいきなり攻撃などしてくるはずがない。

「カズヤさん、大丈夫ですか?」

「え?」

 突然声を掛けられてそう返した僕は、ふと前を見ると、ナハトが歩調を緩めて僕の隣に来る。どうやら僕が黙ったまま歩いているのを見て、心配になった様だ。魔物は魔力を消費する事で断食しても問題ないとは聞いているが、確かに僕の場合はそうもいかないだろう。

「いや、大丈夫だよ。ありがとう。それより君の方こそ、傷は痛むんじゃないのか?」

 そう、十日も歩きっぱなしなのだ。もちろん、夜になったら寝てはいるから歩き通している訳ではないものの、それでも十日もナハトの背中の傷——正確には竜の姿になったナハトの翼だが——が無事なはずがない。しかも彼女は僕のワイシャツに袖を通しているだけで、それ以外何も身に付けていない。完全に失敗した。やはり今からでもズボンを履いてもらうべきだったかもしれない。

「いえ、今のところは……人間の姿になっていると、幾分かは楽になります」

「そうか」

 良かった、と呟く。かんかん照りとまではいかないが、晴れ晴れとしたこの日中帯において、傷が広がらないかとも思っていたのだが、僕が思うよりずっとナハトは逞しかった。

「吸血族の城へ行って、翼の傷が治ったら竜族の住む雲の所まで連れて行ってくれないかな」

「あー! ニナもナハトちゃん以外の竜族さんとお会いしたいのですよー!」

「それは構いませんが……」

 僕とニナの申し出に、しかしナハトは歯切れ悪く返答する。そんな彼女に首を傾げていた僕らに対して答えたのはナハトではなく、オリガだった。特大の溜め息と共に。

「あのなぁ、貴様一昨日聞いていなかったのか? 竜族が地上へ降りるのは掟に反する事だと」

「あれ、そうだっけ」

 一昨日どんな話をしたのかなんてもう忘れてしまっている。だがまあ、オリガが言うのなら完全に僕が忘れているだけだろう。

「でもそれがどうしたんだ?」

「少しは考えろ……変だと思わないのか」

 厳しく僕に言いながらも、何だかんだでオリガが回答する。

「ナハトが『大地の裂け目』に来て今日で既に二十日以上が経過している。ここまで日数を重ねていて、更に言えば私達がこうして歩いているのにも関わらず、一向に竜族からの接触がないんだぞ」

「それはまぁ、変ではあるけれど。でもオリガ、単純にそれは探すのに手間取っているだけなんじゃないのか?」

 何しろこんなにも広いのだ。捜索ならばそれくらい掛かっても仕方がない気がする。

「手間取るのは分かる。しかし、個人的な問題だと話は変わる」

「個人的な、って?」

 やけに遠回しな言い方だ。久々に喋るからか? とも思ったが、そもそもオリガは喋寡黙なだけであって喋りたがりではないのだ。話し方が遠回しに感じるのは、恐らく癖だろう。

「はあ……ナハト自身は、掟を破ってまで地上へ出たのだ。その覚悟があったにも関わらず、ノコノコと住処へ帰るのはプライドが許さないだろう」

「え、そうなのか?」

「いえ、違います」

 違うのかよ。オリガが珍しく前のめりになって倒れそうになるのを冷ややかに見ながら、「じゃあ何で?」と僕が訊く。

「もちろん掟を破ったから帰り辛いのはあります」

 と、あくまでもオリガの意図を汲み取った上でやんわりとナハトは続けた。

「けれど、魔物とも人間とも関わりを持たない竜族が、他の種族の魔物を連れてくる事を、ヴィルム様が許すかどうかが……」

「ヴィルム様、ですか?」

「はい。竜族を束ねている方です」

 ヴィルム。名前だけ聞くと厳格な、それこそラセツの様な巨漢を思い起こさせはする。ナハトが気掛かりにしているのは、そのヴィルムによった最悪僕らが追い出されかねない事を危惧しているのだろう。

「僕ならともかく、でもニナやオリガを追い出すなんてさすがにしないんじゃないのか?」

 いくら中立的な立場を保っているとはいえ、そこまでひどい扱いをするとは考えられない。

「エレオノーラも会ったことがないんだっけ?」

「はい、お母様は鬼族と吸血族の方としか会ったことはないと言っていたのですよ」

「そうか」

 ともなれば、確かに怪しくはなってくるかもしれない。今まで、結局ラセツがこちらを迎え入れてくれたのはエレオノーラとの交流があるからこそではある。いくら魔物と言えども、会ったこともない魔物同士であればやはり警戒はするかもしれない。

「……まあ、そのヴィルム様とやらには、会ってからでも遅くはないだろ」

 僕は取り敢えずそう言った。オリガの言う様に、ナハトに帰りたくない意思があるのならまだしも、彼女もさすがに帰りたくはなっているはずだ。現状において一番重要なのは竜族に対していかに懐柔する手立てを思索するかではないのだから、やはりまだ優先順位としては低い。

 問題は無事に吸血族の城まで行けるかだ。

「エレオノーラから吸血族については何か聞いていないのか?」

「ああ、それは——」

 当てが外れててっきり心が折れていたと思っていたオリガだったが、いつの間にか立ち直っていたオリガが答えようとした瞬間、その言葉を最後まで聞くことは僕には出来なかった。

 いや、最期まで、が正しいだろう。

 なぜなら。


「どうもォ」

 そんな、絡み付く様な低い男の声が聞こえた直後。

「——がっ……!?」

 激痛による悲鳴を発した頃には、僕が現状を察知した頃には既に、僕の身体が飛ばされていた。この場合、飛ばされていたというよりかは吹き飛ばされていたの方が適切ではある。

 メリメリ、と音を立てて僕の肋骨が粉微塵に折れて、僕の視界が一気に加速したのだ。目の前に居たはずのナハト達が、瞬時に消えたのは、彼女らが僕の前から移動したのではなく、僕自身が移動しているから。そして耳元での囁きの刹那に、その声の方を見ようとして、しかし僕の身体が吹っ飛ぶ。一、二メートルどころではなく、軽く十メートルも蹴り飛ばされた。空中で回転しながら、それでも僕はブレる視界の中で懸命に焦点を合わせようとして、そして僅かに短い時間ではあったが、僕を吹き飛ばした張本人の顔が見える。

 マントを羽織った人物だ。深く被ったフードの奥から垣間見える顔は痩せこけていて頬骨が出ており、翳りの掛かった瞳は僕を見つめている。そしてその口元は、心底愉しそうに——歪んでいる。

「カズヤさ——!」

 ナハトが叫ぶが、その声が最期まで届く事はなかった。地面を数回、ボールの様に直撃して弾んでいく僕。ぐしゃあ、とおおよそ人体から発せられるべきではない音が鳴り響く。

 まさに即死だ。

 驚く程綺麗なまでの即死。

 意識どころかこうもあっさりと命を失った僕は、心の中で舌打ちをする。


 生きたい、そんな願いすら、この世界では叶えさせてはくれないのか。


 けれど、あの男はまずい。あの奇抜とも言える笑みが、僕の本能にそう警鐘を鳴らした。だから僕は、ニナが持っている水魔法の紙を地面に落としたのを見て安心した。安堵した。

 良かった。やはり渡しておいて正解だ。

 生きる事が許されないのなら、あの男を殺すしかない。極論とも暴論とも捉えられるかもしれないが、いきなり僕を蹴り殺した様な人物が、よもや話し合いだけで和解出来る様な相手でない事くらい、僕も学習している。

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