第50話 イグニス・スパロウ伯

 イグニス・スパロウ伯爵の領地が、リンデルハイム家の管轄領であるように、メンブラーナ領もまた、スパロウ伯の管轄領であった。


 管轄領とは、上位の領主が下位の者に領主権を与え、代わりに治めさせた土地のことを言い、管轄領を治める領主は、貢納から一定額を上位の領主に治めなくてはならい。


 ネイサン・ジオマイスターもメンブラーナ領を治めてはいるが、毎年スパロウ家に少なくない上納金を納めている。また、そのスパロウ家も、リンデルハイム家に上納金を納めていることは言うまでもない。


 スパロウ伯の直轄領は、メンブラーナの北に広がる『モスカーナ』と言う肥沃な農地で、主に小麦や野菜を育てており、その収穫量は、エイワス王国の中でも上位に入るほどだ。


 メンブラーナが水の街であれば、モスカーナは風の街。

 農地の至る所に建つ大きな風車塔が、モスカーナのシンボルであった。


 *


 モスカーナの街にあるスパロウ城の窓から、イグニスは風車を眺めていた。

 機嫌良さそうに目を細めていた顔が、男の言葉で歪む。


「ネイサンが目覚めた?」

「は、それに関して気になることがございます」


 そう進言するのは、スパロウ家に代々仕えるサビクという男。

 これといった特徴のない男だが、その立ち姿からしっかりとした体幹が通っている事がわかる。武術をかじった者が見れば、男が何かしらの訓練を受けていることがわかるだろう。


 それもそのはず、サビクの家系は、スパロウ家の影となるべく、生まれた子の中から『暗殺者』の職能クラスを授かった子だけを残し、幼い頃より暗殺術を仕込む暗殺一族である。


 古くより、権力を持つ貴族家の中には、大なり小なり、こう言ったおのが手や足となる『影』を持つ家が多かった。


 スパロウ家も氷山の一角にすぎない。


「実はある男が作ったポーションにより、ジオマイスター卿にかけた呪式が解かれたようです。しかも、その男はあのドレイクを倒したと」


 イグニスは何やら神妙な面持ちで、事務机に腰を下ろす。


「ドレイクが……。そうか、ご苦労。お前はその男を洗え」

「は、かしこまりました」


 サビクは礼を取ると、音もなく部屋から消えた。


 イグニスは机に伏せていた書状を開く。

 それは、リンデルハイム公爵家からイグニス宛に送られた密書であった。


 送り主は、リンデルハイム家次男のボリス・リンデルハイム。

 メンブラーナ領で何か変わったことはないかと、暗に訊ねる内容であった。


 奇妙なタイミングの一致。

 サビクが言った男と、ボリス卿が暗に探りを入れてきたタイミングには、何か関係があるように思える。


 選民意識の高いイグニスは、貴族の階級を重んじる。

 イグニスからすれば、これはボリス卿に自分を売るチャンスでもあった。


「さて、どうするか……」


 おもむろに席を立ち、窓際へ行く。

 手を後ろで組みながら、イグニスはゆっくりと回る風車塔を見つめた。



 * * *



 リスロンさんに案内された、森の獣人達が住む集落でバロウズさんを交えての商談が始まっていた。


「採掘所に関しては、周辺の防護柵が整ってから着手した方がいいでしょうな」


 大きなテントハウスの中のテーブルに置かれた地図を皆で囲む。


「後は住居といくつかの商業施設を建て、ここと、ここに監視塔を建てます」と、バロウズさんは、村の東と西の入り口に指を置いた。


「良さそうですね」

「うむ、問題ないだろう。それで、バロウズ殿、貴方たちにはこの村の商業施設、採掘所の仕切りを任せるが、あくまでも全権は私とクラインが持つ。よろしいか?」

 リスロンさんがバロウズさんに確認を求めた。


「ええ、もちろんです。我々としては、商売が出来れば何の文句もありません。この村から得た収益は取り決めの額をお渡しいたします」とバロウズさんは微笑む。


「それにしても、ミスリル鉱山とは……ふぉふぉ、恐れ入りました。長い間、商人として色々な事を経験してきたつもりですが、まさか晩年になってこのような商機に恵まれるとは、いやはや……人生というものは何が起こるかわかりませんな」


「それだけに失敗は許されない……」


 俺が呟いた一言は、テントの中に緊張の糸を張った。


「……クライン、この老いぼれに最後の大仕事をくれた恩は必ず返してみせよう」


 と、その時、俺の隣で聞いていたリターナがそっと耳打ちをした。

「少し離れるわ」


 そう言い残し、テントから姿を消すリターナ。

 リスロンさんは一瞬気にした様子だったが、何事もなかったように商談に戻る。


「続いて、人員の振り分けについてですが……」



 *



 森の中を歩いている男に、リターナは声を掛けた。


「こんなところで何をしているのかしら?」


 冒険者風の男。

 安い革鎧に身を包み、腰には古い長剣を携えている。


 街の酒場に行けば、いくらでも探せそうな風体だ。

 だが、リターナは違和感を覚えた。


 森の中で一人。

 しかも、薬草採取や山菜採りを請け負っているわけでも無さそうだ。 

 魔物を狩りに来たにしては、装備が軽すぎるし、最低でも三人は揃えてくるのが常識である。


「あー、いやぁ、どうやら方角を間違えたようでして、メンブラーナ領に向かっているのですが……」


 男は眉を下げながら、人の良さそうな笑みを浮かべる。


 リターナは確信した。

 この張り付いた笑顔の奥から漂ってくる得体の知れない気配。

 裏の世界で生きる者特有のだった。


「そう、メンブラーナ領なら目と鼻の先だわ。良ければ案内しましょうか?」

「いえいえ、それには及びません。かよわい女性に手を引かれたと知られたら、皆に酒の肴にされますから」


「あら、残念ね。じゃあまた何処かで」

 リターナは薄く笑みを浮かべる。


「ええ、また――」

 男が踵を返し、森の中に消えようとした瞬間、リターナは『沈黙の矢サイレント・アロー』を放った。


 男は咄嗟に身を躱した。

 そして驚きもせず、感情が消えた瞳で、じっとリターナを見据える。


「へぇ、それが躱せるなんてね。あなた……只の迷子じゃないわよね?」

「……」

 瞬間、男がリターナの背後を取る。

 袖から長い針のような暗器を出した。


『――焔の鎖フレア・チェイン


 リターナの周囲に、燃え盛る炎の鎖が現れ、渦を巻く。

 男は素早く後転して距離を取った。


「その身のこなしに暗器……、あなたは誰のかしら?」


 無言の男とリターナが対峙していると、

「お、お姉ちゃん、大丈夫⁉」

 後ろから小さな獣人の女の子が、集落の大人を連れて来た。


 一人で森に入るリターナを見て心配になり、後をつけて来たようだ。


「おい! どうした? 大丈夫か⁉」


 獣人の大人達が来るのを見て、男は森の中へ消えてしまった。


 女の子がリターナの足に抱きつく。

「大丈夫だった? もう怖くないよ?」


 リターナはしゃがみ、

「ありがとうね、助かったわ」と優しく頭を撫でた。


 男が居た場所の地面を見ると、足跡は一切残っていなかった。

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