第82話




 ようよう美里は拳を握りしめて、詩絵子を後ろから殴りつけてやろうとしていました。




『そうそう。最初っからそうやって大人しくしとけばいいのよ』



「ここ、そうこの時よ」


「なに?」




 拳を握り締める美里の視界に映ったのは、物陰に隠れ、カメラを構えてシャッターを切る主任の姿でした。




「なにやってんだよ、あいつは……え、てかドエム彼氏と別れてねーの? 奥さんいたとか言ってたじゃん」


「その辺は丸く収まったわ。それはともかく、どうやら主任はね、この時のエスっぷりを発揮した詩絵子を写真に収めたかったみたいなのよ。夢中で撮ってんの」



『詩絵子様……いい表情をなさる』



「そんなことを呟いて、詩絵子がエスの頭角を現した感動を噛み締めていたわ。会社の人間にみられてないかって、私がハラハラしたんだから」


「へえー……」




『もういいッ!! 詩音かえる! ママのとこに行く!』


『あ……』



 これには向井帝人も反応を示しました。追いかけるべきか……それとも写真を撮り続けるべきか……。彼の行動に迷いが滲みます。



『あっそー。勝手にすれば?』


『そうですその顔です! 待っていました!』



「半ば条件反射なんでしょうね。主任は詩絵子を撮り続けたわ……」


「なるほど……」




 二人はしんみりして呟きます。それから、いくらかハリのある声で美里は言いました。




「それで、私が詩音ちゃんの後を追ったの。途中で見失ってしまって、また見つけたときにはあんたといた。こういう経緯よ」


「そっかー。まあ良かったぜ、親族だから似てるってわけだな」


「私も最初に見たときは驚いたけど、さすがにサイズの違いで分かるでしょ」


「あいつもこんなもんだろ」


「そうね、中身はこの時期からずーっと横ばいでしょうね」



 腕を組んで、彼女は長くため息を吐きました。



「そんじゃ、どうする? この子連れてくか」


「まさか」



 朔の提案を、美里は食い気味に拒否します。



「あのお子様ランチはね、今までにも増してわがままに拍車がかかってんのよ。主任がなんでも受け入れちゃうから」


「あいつとしては、ワガママになって欲しいんだろうな。なにせヌンニャク志願者だから」


「このまま行くと、私の手に負えなくなっちゃうのよ。ということで」



 いったん言葉を区切り、美里は詩音の小さな頭に手を乗せました。



「詩音ちゃんには、しばらく迷子になってもらおうと思います。それで、詩絵子があわてふためいて泣き出した頃に、説教してやんの。ね、詩音ちゃん嫌な思いしたでしょ?」



 少女は俯いて、小さく頷きます。それを見て、朔はこんな風に言いました。



「それじゃ甘いね」


「甘い?」


「そうだよ、こーーんな小さい子をいじめたんだぜ? もっとキツく懲らしめないと」



 詩音の頭をガシガシやって、その顔はまるで、いたずらを思いついたようです。



「それもそうね。あの子バカだから繰り返しそうだし。でも、懲らしめるって具体的になにするのよ?」


「ふっふっふー」



 不敵に笑い、顔の横で人差し指を立てます。それから朔は言いました。



「それは……」







『櫻詩音は預かった。返して欲しければ、一階の広場で土下座しろ』



 変な電話がかかってきた。声も変だった。ヘリウムガスを吸ったような声だ。そして一方的に用件だけ告げて切れた。



「は……?」



 なんだろ今の。『土下座しろ』? たしかに主任の土下座を見慣れている私は、そこらのパンピーよりは土下座のことを分かっているとは思うけど……。


 こんな公衆の面前で土下座しろって? ははっ……ていうか何? 詩音を……誘拐……?




「どどどどど、どうしよう……!!」



 どう考えても私のせいだ!!

 事態の重さに気づき、一気に血の気が引いていく。



「と、とりあえず、こういうときは一旦落ち着いて……そうだ、主任主任……主任に電話しなきゃ」



 慌てて主任へ電話をかける。背後の方で着信音が鳴った。振り返ってみると、主任が物陰で一眼レフを構えていた。



「…………」


「…………」



 カシャ、カシャ


 …………え?




「………なにやってるんですか?」



 主任はびくっと肩を震わせてカメラを下ろし、仮面を被るように、さっと真面目な顔をつくろった。



「なにか?」


「…………」




 なにか? じゃ、ねーーーーよっっ!! なに冷静に反応してんのよこの変態!! 隠し撮り見つかってんだからもっと慌てるところでしょ!!




「……主任、実は大変なことが起きてるんですよ? 詩音が誘拐されちゃって」



 しかし不思議と冷静になって、私はさらっと事情を告げる。


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