第107話 罪の女の歌 ⑤告解

「今日も大賑わいね」

 店に入るなり聞こえてきたホールの喧騒に、マカレーナは半ば呆れて言った。だれにともなく発せられた言葉は彼女からショールを受け取った門番兼用心棒が耳にしたほかは音楽と嬌声のなかに吸いこまれて消えた。

 今日マカレーナがこんな遅くに店に出たのは、彼女に熱を上げる若手政治家に口説かれパーティに同行していたためだ。



「パートナーを連れて行かないと格好がつかないんですよ。どうか、ぼくと」

 独立戦争より前から代々政治家を輩出する華麗なる一族に生まれた青年の懇願に、最初首を横に振ったマカレーナも最後は折れた。

 実業家、学会の寵児、政治家たち……綺羅星のようにずらっと並んだ彼らの前でもマカレーナはかしこまることなく、気儘に振る舞ってはパートナーをはらはらさせた。いつまでつづくか見当もつかないパーティに見切りをつけて、主催者夫妻にあでやかな笑みで御礼の口上を述べると、鮮やかな印象をその場の紳士淑女たちに刻み込んで会場を去ったのだった。


 ホールで声をかけてくる客たちを適当にあしらいカウンターに辿り着くと、スツールに腰かけ「ああつかれた」と頬杖をついた。

「ご苦労さん」とナボがグラスに水を注いでわたす。それをひと息に飲み干しグラスを返したところで、ちょうど情事を終えて客を送り出したカタリナが、カウンターからマカレーナをさらって空いた席に引っ張っていった。


「いやん、乱暴。もっとやさしくしてくんなきゃ」

 しなをつくって見せるマカレーナを、カタリナは冷たく睨んだ。

「クスリやってんだって? やめとけよ」

「だれから聞いたのよ? ナボ? あのおしゃべり」途端にマカレーナもふざけた笑みを引っ込めた。「心配んないわ。クスリなんて、ちょっとだけよ。どうせぜんぜん気持ちよくなんないんだから」

「だったらやめとけって」

 マカレーナはそっぽを向いたまま。

「それより、さ。ダニーのことだけど」

「聞けよ。あたしの兄さんは麻薬中毒だった」


 内戦が始まってすぐに亡くなった兄のことは、以前に聞いたことがある。女を喰い物にするろくでなしだったが、カタリナには大切な兄だった。それが軽い気持ちで始めたコカインにはまって、二度と戻って来られなくなってしまった。

「最後は妄想で訳わかんねえことばっか言って、暴れてぶっ倒れて、見てらんなかった。マカレーナには、そんなことになってほしくないんだ」

 その兄は、村に反政府ゲリラがやってきたとき恍惚となってひとりで反撃し、あっさり撃ち殺されてしまったと聞いていた。


「ふふん。あたしが中毒になるって? それこそ要らぬ心配よ。あたし、クスリが効かない体質みたい……いろいろ試してみたんだけどさ。そのまま吸ったり、煙にしたり、注射してみたり、ね。どうしたって効かないのよねえ」

 と首を傾げ、カタリナを見上げる。

「やり方間違ってんのかな?」

「知るか」



  ***



 ダニエリはなにかと理由をつけて、毎日のようにガブリエルの部屋に押しかけている。いまは合鍵まで渡されて、部屋のなかに入って待つようになっていた。


 合鍵をもらったのは十日ほど前のこと。

「こんな遅くに、危ないぞ」

 弁護士事務所の仕事が長引いて、夜九時を過ぎてから帰って来たときも部屋の前で待っていたダニエリを見て、

「次からは部屋のなかで待ってな」と渡してくれたのだった。


 けれどせっかく部屋を訪ねても、たいていは机に向かって勉強するガブリエルの背中を見るばかりで、ときどきはっと思い出して「コーヒーにしようか?」と声かけてくれるのをずっと待っている。



「あたし、邪魔かなあ? ガビ、迷惑?」

 この日とうとう口にしてしまって、ふり返ったガブリエルと目が合ったとたん後悔したけれどもう遅かった。

「だってあたしわるい子だもんね。ひとのもの盗んじゃったりするしさ」

「またわるい子なんて言って。ダニーはいい子だよ」

 ガブリエルはいつも変わらず、人の世の悪に鈍感だ。

「わるい子だよ。ガビはあたしのこと知んないの。ほんとのあたしを知ったら、きっと嫌いになる」


 なに言うつもり? それ以上言っちゃだめ。

 おおきく息を吸うダニエリに、背中から何者かが囁く。


「ならないよ」

「なるの。きっとなるの」


 すこしずつダニエリの呼吸が荒くなる。

 言っちゃうの? ほんとにガビに嫌われちゃうよ、ガビが去ってっちゃうよ? いいの、それで?

 いつも意地悪な囁き声が余裕を失くして、いまは矢継ぎ早に、縋りつくよう。


「大丈夫。どんなダニーだって好きだよ」

 ガブリエルのやさしい笑顔がダニエリの胸を締めつける。


 言っちゃだめだ。やめて、言わないで。

 黙れ、とダニエリは影を叱った。

 言ったらガビを失うかもしれない。でも言わなかったら、ほんとのことを隠したままなら、あたしがガビの前にいられない。


「聞いて、ガビ。あたし――」

 崖から飛び降りるように目をぎゅっと瞑る。息をすうっと吸って止める。


「あたしからだを売ってるの」

 言ってしまって、目を開いた。

「いろんな男に身を任せてるのよ。相手を愛してなんかいないし、名前だって知らないわ。あたし汚らわしいの。わかった? 今度こそわかった? これがほんとのあたし」

 ひと息に言って、この世のすべてを敵にまわしたような熱い目でガブリエルを見た。

「どう? あたしのこと嫌いになったでしょ?」


 もう終わりだ。この場にはいられない。逃げ出そうとガブリエルに背を向けたとき、うしろから抱きとめられた。

「ダニー。行っちゃだめだよ、話は終わっていない。嫌いになんて、なるわけない」


「だってあたし、こんなにわるい子なのに」

 抱きしめられて、その胸のなかで、十歳のときのことから洗いざらいぜんぶ話した。話すにつれ、ガブリエルの抱きしめる力が強くなっていった。


「ダニーはわるくない。わるいのは、ダニーにひどいことした大人だよ」

 ダニエリの話が途切れるとそう言った。つらかったね、とつづけて言うガブリエルの方が辛そうな顔をしていた。

「いままで気づかなくってごめん。でも、もう独りで苦しまないで。もうしないね?」

 ガビがずっとそばにいてくれるなら。そう思ったけれど、口には出せなかった。

「これからはおれが守るよ。もうだれにも、ダニーに触れさせたりなんかしない」


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