第48話 フアン ⑨アロンソ

 事の発端は、フットボールクラブの後輩が街で起こしたつまらないケンカだった。


 だが、相手はチンピラと軽く考えていたのが間違いだった。次の日、学校のグラウンドに乗り込んできた四人の男たちの姿を見て、クラブに出ようとしていた後輩たちは震えあがった。男たちは銃を隠しもせずに、そばを通り過ぎる生徒たちを威嚇した末にグラウンドの真ん中に陣取った。

 彼らの正体は、首都に本拠を置くカルテル『MB』の末端構成員だったのだ。

 狼狽うろたえて報告に上がった後輩たちを前に、アロンソは目を瞑って、

「今日は練習はなしだな」とだけ言った。



 チンピラたちは次の日も学校に現れた。

 グラウンドを占拠するアウトローの挑発を知らぬふりでアロンソは素通りし、チームメイトたちも内心冷や冷やしながらならったが、その日はそれでは済まなかった。


 しびれを切らしたチンピラが、事情を知らずにグラウンドに入りこんでしまった生徒二人を捕まえたのだ。

 捕まったのはフットボールクラブの者ではなかった。それを知ると、チンピラたちはクラブの者を呼んでくるよう、生徒の一人に命じた。もう一人はグラウンドに留めたままで。

「奴らが来ねえと、こいつがどうなるか、分かるな?」

 真っ青になった生徒の頭をわきに抱えてチンピラの一人が言ったのを、伝令役を命じられた生徒はそのままアロンソに伝えた。

 そのときアロンソは食堂で、五つめのバナナフライをたいらげながらクラスメイトたちと談笑していた。不安な顔で皆が見つめるなかアロンソは迷わず立ち上がると、一人でグラウンドへと向かった。


 アロンソとチンピラたちとの間でどのような話がなされたのか、伝説は伝えていない。だがともかく、チンピラたちはグラウンドから去り、学校には平和が戻った。級友もチームメイトも、教師たちまでもがあらためて、アロンソの勇気と行動力とを称賛し――事件は片づいたかに見えた。




 その頃『MB』は、北米への販売ルートを確立すると急速にその勢力を周辺国へまで拡大していた。国内の裏社会の大半を掌握しえて、次は欧州への定期航路を持つC市をも呑みこもうと手を伸ばしていた時期にちょうど、アロンソは高校生だったのだ。


 チンピラたちがグラウンドから去ったのと前後して街にはカルテルの構成員が次々と現れ、我が物顔で闊歩するようになっていた。

 旧市街はいまほど観光地として整備されておらず、色とりどりの商館もどこか寂しげに人びとの営みをひっそりと見下ろしていた。カテドラルだけは今も昔も四百年前から変わらず鮮やかな色の壁を誇らしげに輝かせていたが、旧奴隷市場は幽霊屋敷のように荒れ果てていた。

 その辺りをねぐらにしていたのは、麻薬中毒者たち。

 かつて人間でないものとして扱われた奴隷たちが精彩を欠いた表情で歩んだ通りを、奴隷廃止後二百年近くを経た後、クスリに溺れて人間の条件をひとつずつ剥がされていく人びとが埋めていた。



 ある日試合の帰り道、勝利に気をよくしたアロンソがチームメイトたちと陽気に騒ぎながら歩いていると、行き会ったチンピラがアロンソに目を留めた。

 グラウンドで一人堂々とカルテルと対峙したアロンソは、彼らの印象に残っていたらしい。


「俺たちの仕事を手伝ってみねえか? いい小遣いになるぜ?」

 彼らの目に、アロンソは使える人材として映ったのだろう。だがアロンソは裏の世界に興味を示すことなく、黙って首を振った。



「奴らに近づくな。逆らうな。だが従うな。うっかり奴らの犯罪に加担したら、転落一直線だぞ」

 そう言ってアロンソは仲間を戒めた。そして実際、街で遠くに彼らの姿を見かけると、アロンソは踵を返して逃げるように立ち去るのだった。

 やんちゃ盛りで怖いもの知らずのチームメイトたちの目には、それは臆病風のように見えた。

「日和りやがって」

「えらそうに言って、結局ケツまくってやがんじゃねえか」

 後輩たちがまず陰で罵りだした。同級生もまたアロンソの真意をはかりかねた。

 アロンソの統率力を信頼していた仲間たちは、ひとり、またひとりと彼から去って行った。



  ***



「ほい、コーヒー」

 深夜三時に届けさせたルームサービスのコーヒーを、マカレーナがカップに注いでわたした。纏った白いガウンのはだけた下から、黒いランジェリーが匂い立つ。一方のフアンは既にスーツを着込んでいる。

 まだ陽の兆しが水平線に現れる前に、フアンは次の隠れ家へ向かうことになっていた。


「もお。こんなに早いんなら、先に言っといてよね」マカレーナはベッドに腰かけ、フアンの身支度を見守りながらなじる。「どこ行くのよ?」

 フアンは黙って一気にコーヒーを飲み干し、カップをテーブルに置いた。

「また物騒になンぜ」

 腋の下から銃を取り出し、スライドを引いた。目を閉じ定位置に戻る音を確かめる。

「お前は朝までここで過ごせばいい」

「そ? ここの朝食美味しいのよね。楽しみだわ」

 答えるのと同時に廊下の足音がドアの前で止まり、二回、三回、また二回とノックの音がした。出迎えの合図だ。フアンはマカレーナの頬にキスをし、背を向けた。

「週末の予定は空けとけ」

「え? なに?」

「無事に週末を迎えられたら、ビーチにでも連れてってやる」

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