第44話 フアン ⑤朝

 市場でアルバイトをするガブリエルの朝は早い。陽がまだ昇る前の午前四時、いつも通りの携帯アラームに目覚めさせられたガブリエルは、ベッドのなかで伸びをすると、甘い匂いのシーツを妙とも思わずゆっくり目を開けた。

 部屋はまだ暗い。だが、まだアラームの消えない携帯の明りがベッドの周りを仄かに浮かび上がらせていた。ガブリエルは半ばはまだ眠りから覚めない心地のままその明りへと手を伸ばした。


「うゎっ。びっくりした」

 手に触れた、やわらかななにか。覚えのないものの感触に、思わずベッドの上に起き上がった。

 薄明りにぼおっと浮かぶタンクトップの、くたびれた片側の紐が肩からずり落ちる。アラームが止まってふたたび闇に沈んだ部屋のなか、触れたものをようく見ようと目をすがめた。そのまましばらく。

 すこしずつ暗がりに慣れたガブリエルの見下ろす先には、ダニエリがベッドのへりに顔を乗っけたまま眠りこけていた。


「ダニー。……ダニー!」

 その肩を揺り動かすと、ダニエリがかすかに顔を動かす。眉をひそめ、鼻に皺を寄せ、唇がすこし開いて、息が洩れた。睫毛がしきりにしばたくが、まぶたはなかなか上がらない。

 ガブリエルはまた肩を揺すった。ダニエリはそれでも目を開かない。すうっと、唇だけがわらった。無垢の幸福につつまれて。

「ダニー、起きてる?」

「んーん……寝てるー」

「起きてんじゃん」

 ダニエリの頭をぐしゃっと撫でると、ベッドから下りて部屋の電灯を点けた。


 明るくなった室内を見回し、昨夜自分のアパートへは戻らず、娼館アパートの部屋に泊まったことをようやく思い出した。ひと月前までラファエラという名の娼婦が住んでいたというその部屋は、目の届く限り女物で埋め尽くされていた。

 ダニエリはベッドの傍ら、床のうえ荷物の取り散らかった隙間に器用に足をたたんで、頭だけベッドにちょこんと乗っけて寝ていたのが、いまは頭をもたげてガブリエルを見上げている。


「なんでここに?」

「えーと……鍵が、開いてたから?」と、小首を傾げて。

「いや、それ、おかしくない?」

 そう言って、ガブリエルが笑った。その笑みに引き込まれて、ダニエリも笑った。


「ガビ、下着のまんま」

 にやにや顔でダニエリが指摘するので見下ろした自らの姿は、白のタンクトップに黒のトランクス。だがガブリエルは気にすることなくそのままトイレへ向かった。家の中ではずっと、母や妹の前でも裸に近い格好で過ごしてきたガブリエルにとってそれはごく自然なことだったが、用を済ませたあとになって、ダニエリは妹とは違うと気づいた。昨晩シャワーを浴びたあと床に放ったままにしていたズボンをあわてて穿いて、部屋へと戻る。

 ダニエリはベッドの上に座っていた。人の格好を指摘しておいて、彼女自身も赤の他人の男の前へ出るにはすこしばかり慎ましさに欠けた、下着と大差ない膝丈ワンピースのパジャマ姿だ。


「この部屋、気に入った? あたしんもこの階にあるんだー」

 そう言ってダニエリがぐるりと四囲を見まわしたこの部屋の、前の住人のラファエラはヒモだった男とともにどこかへ飛び出したまま、今も連絡が取れないらしい。

 昨日ダニエリに連れられ入ったこの部屋を、あとから覗きに来たときマカレーナが告げた情報だ。



「邪魔なもんは隅っこに片しといて。でも勝手に捨てんじゃないよ、いつか戻ってくるかもしんないからね」

 昨日マカレーナはそう言ったが、入れ替わりに様子を見に来たカタリナは首を横に振った。

「あの子はああ言うけどね。たぶん戻って来れねんじゃねーかな。……ここの子と一緒に出てった男が、しょおーーーもないチンピラでね。今度フアンに捕まったら、間違いなく殺されるから」


 そのチンピラは、フアンの託した小金をくすねて逆鱗に触れたのだった。ラファエラの懇願でマカレーナが間に入って、おかげでその場では殺されなかったものの、利き手を斬り落とされた。

「盗んだのはこの手だな。今回は手首だけで許してやる」ひざまづいたまま必死で止血する男を冷たく見下ろし、フアンは審判を下した。「二度とつら見せンな。次にこの街で会うことがもしあったなら、おれが殺す」



  ***



 アルバイトに行こうと服を着たガブリエルだったが、

「だめじゃん、今日は一日外に出ないって約束」とダニエリに指摘されて思い出した。


 昨日娼館の前で別れ際、リムジンのドアを閉める前にフアンが三人へ向け言ったのだった。

「今度こそ、外出はナシにしろよ。明日はここに籠ってろ」それからガブリエルの目の奥を覗いて、「お前もだ。街をほっつき歩いてたら、ろくなこたねーぜ。わかったな?」




「でも仕事だからなあ」

 とドアの前に突っ立って考えるガブリエルの袖を、ダニエリは思い切りベッドの縁まで引っ張った。

「仕事って、昨日の市場でしょ? そんなとこヤバいに決まってんじゃん。なに考えてんの? てか、なんも考えてないね?」


 それでもまだ出かけるのを諦めないでいると、ノックの音がして返事する間もなくドアが開いた。まだ朝の五時にもなっていない。だれと訝ってふたりが目を向けた先、開いた扉の向こうにはマカレーナが立っていた。


「マカレーナ……こんな時間になんで」

 ダニエリが焦った声を出すのを、聞かなかった顔してマカレーナはふたりの様子を見比べた。顔を赤くするダニエリに、間の抜けた顔で見返すガブリエル。

 ふふんと笑って、抜けぬけとマカレーナは言った。

「夜這いなんて、やるねえ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る