第28話 ダニエリ ③眩暈

 腕を振り払って歩きだしても、気にせず男はついてきた。ソーダの泡のような軽く明るい声で話しかけてくる。

「にしたってさ、きみみたいな可愛い子に連日通わせといて、そいつ無視なの? 酷いなー。おれだったら放っとかないね、すぐ迎えに行くよ」

 ダニエリは黙ったまま、ずんずん歩いていく。男はその周りをダンスでもするような足どりでまとわりつく。学生たちで溢れる通りの真ん中を、ふたりはしばらく並んで進んだ。


「名前、なんてーの? あー、いや、きみじゃなくってさ。その探してる奴。おれ、知ってるかも知んないよ? おれって顔広いしさ」

 ダニエリの肩に手を置き、と笑った。人懐っこい、悪くない笑顔だ。相手がダニエリでなければ、ほだされてしまう娘もいるだろう。


「そんで、きみの名前は? 連絡先教えてよ、見つけたら教えたげるからさ。それに、明日からはキャンパス来たらエスコートするよ、おれ。やっぱ独りで歩くのってさみしーじゃん?」

 ダニエリは足の運びの速度を緩めて、色男の方へ顔を向けた。冷淡な目で、黙ったまま。

「きみの眸、いーね。獲物を射るような目してる。おれも獲物になりてーなー、なんつって」



 午を迎えて、キャンパス中心部の並木通りに学生の数はますます増えていた。すれ違う人の群れのなかにガブリエルを探し続けるものの、やはり見当たらない。ひとからひとへと視線を移すうち、人群れに酔ったようにダニエリの頭はくらくらしてきた。

 しきりと話しかけてくる男の言葉は、さっきから大半がダニエリの脳内を素通りするようになっていた。やたら首筋を汗が流れ落ちて、胸がむかむかしてきた。今日も真上から頭を灼きにかかる無慈悲な太陽と、生温い潮風のせい。

 男はダニエリの不具合にはまったく気づいた風なく、明るく人懐っこい声で案内を続けている。



 眩暈がする。喉が渇く。足がふらつく。

 たまらずダニエリが立ち止まりかけたとき、男がその手をとった。

「あ、こっちの研究棟はまだ見てないんじゃない?」

 右の方を指し引っ張る男に、思わず大きく身震いして、

「触らないで!」

 悲鳴に近い声が口からほとばしった。


 男はなにが起こったのか理解できないで、顔に笑みを湛えたまま、まじまじと少女を見つめた。その視線の先ではダニエリが真っ青な顔をしている。


「な、なんだよ、そんな大声出さなくっても……。いやいや、親切のつもりだったんだけどさー、もしかして迷惑だった? いやー、悪気はないんだよ?」


 男の言葉に反応しないでダニエリはその場にしゃがみこんでしまう。色男はぎょっとして一歩退いた。あわてて周囲を見まわし、誰に対してかもわからない言い訳のような、意味の薄い言葉を並べつづけた。


「きみの役に立てたらいいなー、なんて思ったんだけどねー。 うん、それだけなんだよ。でも、迷惑だった? 迷惑だったら言ってくれたらよかったのに、うん。でもショックだなー。うんうん、ショックだわー。じゃ、またねー」



  ***



 ――やってしまった。

 一時間後、ダニエリは自身の失態に歯噛みしていた。

 大通りで座りこんでしまったあと男が逃げるように去って行ったまでは結果オーライとして、心配そうに寄って来た女子学生の集団に囲まれてからが余計だった。


 善意と好奇心とをないまぜに、女子学生たちはダニエリの顔を覗きこんで口々に問うてはなにくれと手を貸してくれた。

「どしたの? 熱中症? 汗すっごいよ」

「ほれ、水。これ飲みな」

「木陰でやすんだ方がいんじゃない?」

 道の端、十人以上も座れそうな木陰を指して言うと、

「ちょっと、あんたたち! 手ぇ貸してー!」

 と通りがかりの男子学生ふたりを呼び止めた。


 彼女たちと顔見知りらしい男子学生は、やはりこれも好奇心を露わに近づいてくると、額に冷や汗を浮かべるダニエリを見ろした。

「あっちまで運んであげてよ」

 女子学生が木陰を指差して、「お安い御用」と男子学生は腕まくりでダニエリを抱え上げようとした。

 ところが彼に触れられると、ダニエリは「ひっ」とひきつった声を上げて固まってしまった。

 体をふるわせこわごわ首を横にふるダニエリに、学生たちは顔を見合わせた。

 肩をさする女子学生の顔を見上げて、ダニエリはほっと体の力を抜く。しかし、男子学生が近づくと目を大きく見開き、ふたたび体を固まらせた。


 考えこんでいた女子学生の一人が、分かった! という風に指を鳴らした。そして、ダニエリの目の奥を覗きこんで言ったのだった。

「もしかして。きみ、男の子のこと苦手?」


 そう。ダニエリは男性恐怖症だった。

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