第19話 ガブリエル ⑦波風

 学校へは一週間通った。朝連れ立って学校へ向け歩くと幼いマリオとアンジェリカはやたら浮かれるし、アナマリーアもふたつ年少のレメディオスもうれしそうだし、ダニエリとしても悪い気分ではなかった。たとえ授業の内容についていけなくとも、このままずっと学校へ出るのも悪くないと思っていた。

 それが結局一週間で途切れたのは、いつものことと言えば、まあその通り。


 きっかけは他愛ないことだった。それもいつもの通り。

 教室のどこかでこっそり囁かれただれかの噂ばなしだとか、敵意などなしに軽く発せられた教師の取るに足らない叱責だとか、好奇心と畏れをないまぜにして遠巻きにちらちら視線をよこす級友たちのさざめきだとか。


「ま、そのうち気が向いたときまた行きゃいーさ」

 怒るでも、がっかりするでもなくマカレーナは言う。

 しかし学校にはさほどのこだわりを見せないマカレーナも、夜の店については厳しく縛るのだった。


 ダニエリが店に顔を出すようになったのは、十六の誕生日を迎えた次の日からだ。

 ドレスに着飾って初めてホールに姿を現したダニエリを見たとき、麗しい夜の女王だったマカレーナは一瞬で保護者顔のマカレーナになってダニエリの許へすっ飛んで行ったものだ。

「どうしたのよ、その格好カッコ?」

 脳震盪でも起こさせる気かというほどがくがくと肩を揺するマカレーナに、

「ど? 似合う?」

 なんでもないようにダニエリは笑って見せた。


「そりゃ可愛いわよ……!」反射的に返したあと、マカレーナはつづく言葉を出せない。

「今日から店に出るから」

 短刀で刺すようにすっと言うと返事するいとまを与えずマカレーナのすぐ脇を通り過ぎ、ホールの姐さんたちへ愛想よく挨拶したのだった。


 だがマカレーナは、店に出ることは渋々認めたものの、ダニエリが客を取ることは頑として許さない。ダニエリは不満だった。

「まだ早いわ。焦るんじゃないの」

 そう言ってマカレーナは宥めるが、その本心は見え見えだ。年齢がどうあろうとダニエリには夜の世界へ入ってほしくないと、彼女は思っている。

 だが娼婦になる以外のどんな未来が自分にあるというのか? 問うダニエリに、マカレーナは黙って首をふるだけ。


「自分だって娼婦やってるくせに、なんであたしには許してくれないの?」


 重ねて問うと、マカレーナは困ったように笑う。

「あたしはこれが性に合ってんの。それに、世があたしを求めてるからねえ」

「あたしだって、需要ぐらいあるわよ! 見くびらないでほしいわ」

 むきになって言うと、マカレーナはますます困った顔をする。

「でも、ダニーは好きじゃないだろ、こんなこと」


 この議論はたいてい最後にはケンカになるのだ。

 今日もダニエリはマカレーナとケンカして、アパートを飛び出した。

 足早に向かったショッピングセンターでお気に入りの店を流しても、ダニエリの心は荒れたまま。


 ダニエリを娼婦にしたくないというマカレーナの心は、ダニエリにとっては自分勝手な希望に思えた。ダニエリはうから娼婦になるつもりで、覚悟を決めている。

 ほんの小っちゃな子供のときから身近にあった馴染みの世界。大切なマカレーナのいる世界。

 どうして分かってくれないの。


 海をスコールが叩くように胸のざわつきがだんだんに激しくなるのにはっと気づいて、ダニエリは急ぎ思考を止めようとした。だがもう遅かった。



 ダニエリには、へきがある。心の平衡を保てなくなると、目に留まったものへ手を出さなければ気が済まなくなるのだ。欲しいか否か、必要か否かではない。それがだれのものだろうが関係ない。ただを、是が非でも盗まなければならないと、なにかが囁くのだ。

 その声にダニエリは抗えなかった。盗むのは欲のためでも享楽のためでも、貧窮をしのぐためでさえなく、ただただその囁き声に逆らえないがためだった。それは強迫観念となって、盗みを終えるまでどこまでも追ってくる。



 その日ダニエリが目を留めたのは、ルリコンゴウインコの羽根飾りのついた帽子だった。

 出会った瞬間、瑠璃色の羽根がマカレーナに似合うと直感した。常夏の太陽の光はマカレーナの美貌を強烈に際立たせる一方で、彼女の肌を痛めつけた。夜の女王は昼の陽光あふれる街を好んで歩いたが、容赦ない太陽は刻一刻と女王の肌を焼いた。肌の弱いマカレーナは、外で一日を過ごしたあとは必ず赤くなった肌の痛みに悩まされた。

 まだダニエリのちいさかった頃、赤くなったその頬に掌をくっつけるとマカレーナは幸せな顔をした。

「あんたの手、冷たくて気持ちー」

 そんなとき彼女は、アナマリーアの手よりも、幼いレメディオスやアンジェリカよりも、ダニエリの手が冷たくていいと言った。だから誰よりも冷たい自分の手が、ダニエリは誇らしかった。自分を、他人から必要とされる者にしてくれるアイデンティティ。


 その大切な右手を、ときどき彼女は人からものを盗むために使っている。

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