第15話 ガブリエル ③違和感
それが二週間前のことだという。
ふたりの出会いの話を聞かされた同僚たちは、あらためてガブリエルの顔を見た。口には出さないものの、皆の頭には同じ疑問が浮かんでいる。
いかにも田舎出の、純朴だけが取り柄のようなこの青年のなにが、ホセの荒ぶる怒りを鎮めたというのか。
暴れ出したら誰にも止められないホセは、警察の内でもその凶暴な性質で怖れられていた。気に入らぬことあれば周囲に当たり散らし、物も人をも平気で傷つける。怒りに狂うホセを止められる者など、署内にもそうそういないのだった。
納得いかない制服警官たちの視線を集める前でガブリエルがコーヒーを飲み終えたちょうどそのとき、カテドラルの塔から二時の鐘が鳴った。
「うっわ。もう授業始まってるよ! 早く行かなきゃ」
あわてて立ち上がるガブリエル。
「おー行け行け。おれたちゃ暇じゃねえんだ、仕事があるからな」
追っ払うように掌をひらひらさせるホセに、同僚たちは半ば諦めの混じる呆れた目を向ける。その仕事をいまもサボって、彼を引き止めていたのは誰だ……? とは言え、ホセのこんな身勝手な言動はいつものことではあるらしい。
ガブリエルの方は気にする風もなく笑顔で手を振った。
「じゃ。コーヒーご馳走さま」
急いで走り去るその後ろ姿を、ホセは上機嫌で見送った。その視線の先、旧奴隷市場にはふたたび観光客が列を作っていた。彼らの多くは、かつてここで売られた奴隷の血を幾分なり継いでいる。
***
この街に来てふた月になるガブリエルは、苦学生と呼ぶに相応しい。最寄りの町の高校を卒業したあと二年間、漁師の仕事を手伝いながら勉強を続けて奨学生の資格を得ると、C市の大学に入学した。
二年間働いて貯めた金は、部屋を借り最低限の生活用品を購うとほとんどが消えた。奨学金のおかげで授業料の心配はないものの、食っていくためには働かなければならない。部屋から大学への途上に位置する市場で仕事を見つけると、午前中働いたあと午後大学に通う生活リズムがすぐにできあがった。
もっともガブリエルのように働きながら学校に通う者は、この国ではさして珍しくない。内戦の始まる前から決して豊かとは言えなかったこの国で、人びとは皆生きるために必死だった。赤道直下の楽園にありながら、楽園への入口を閉ざされた人びとは今より少しでもいい生活を求めてもがいていた。神の約束した美しい王国への招待を、ただ座して待つにはこの世の動きは早過ぎる。
或る者は大学卒業資格に貧しい生活からの脱却を賭ける。裏社会で生きる以外の道を見出せない者もいる。そして多くの者はただ今を生きることに精一杯で、ひたすらに目の前のパンを求めて働くのだった。
その点、明るい未来を信じることのできたガブリエルは、幸せと言ってよいだろう。
朝の市場での仕事は体力は使うが、海で鍛えた体が役に立って職場の仲間たちからは重宝されている。学校でもすぐ新しい仲間ができた。授業で教わる内容は高校とは勝手が違って戸惑ったものの、なんとかついていけている。新しい生活の滑り出しは順調と言えた。
幸運と努力の末に大学へ通えることとなったガブリエルとしては、今日の遅刻は珍しい。多数の学生を抱える教授はガブリエルが出席しようとしまいと気にしないが、ガブリエルの方はすべて出席しなければならないと考えていた。安くはない授業料を国家に出してもらい、家を支えるための労働を
一日の授業も無駄にせずできるだけ多くを学んで将来への糧とし、ひいては国にも家族にも恩を返さなければならない。
席に着くと、隣の友人が途中までのノートを見せてくれた。
「助かるよ」
「ま、たまにはな。いつもはおれが助けてもらってるし」
その言葉通り、この友人は夜遊びが過ぎて、昼一番の授業をサボることがままあった。何不自由なく育ち、親の金で大学へ通えることに一片の疑問も持たない彼は、ガブリエルの苦労を頭で理解しても肌で知ることはない。それでもこの友人は、金持ちに特有の鷹揚さで、ガブリエルを見下すことなく親しく仲間づきあいをするのが美点と言えば美点だろう。
***
ガブリエルの平凡な日々にささやかな変化が見られたのは、ホセのおかげで授業に遅れた日から数えて六日目のこと。
その日、市場の仕事をいつもより早く終え大学へと向かっていたとき、大通りから一筋奥まった路地にいた三人連れにガブリエルは違和感を覚えて、止せばいいのに
午後の授業まではまだ間があった。大学に着いたら中庭で昼寝でもするつもりでいたので、心に余裕があったのだろう。普段なら見落とすかもしれない小さな違和感に、ガブリエルは足を止めたのだった。
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