Report95: 喪失
◇◇◇
散歩をした。多分、気を紛らわせる為なんだと思う。
何故? 何故、気を紛らわせるんだっけ。忘れてしまった。何か途轍もない、嫌な記憶があった気がするけど、思い出せないのなら、その方がきっと俺は幸せで居られるような……、そう思った。
外に出ると、通行人の視線が刺さるようだった。「不憫ねぇ」とか「リセッターズもお終いか」とか、そんな会話が聞き取れた。
当てもなく歩き、たまたま向かったのは……以前潜入調査をした大学だった。行き交う学生、校門、校舎……それらを眺めると同時に、当時の記憶が想起される。
あの時、ダークウェブで人肉を売買していた事には驚かされた。しかし真に驚くべきは、人肉の売り手だけではなく買い手が居たという事だ。
宗教、悪習、性癖。この時代においても人肉を喰らう者が居る。カニバリズムだ。
そんな非道徳的な世界が、自分達の近くに存在しているという事に対し、ショックを禁じ得なかった。
俺はふと、財布の中に以前の学生証が入ったままだという事を思い出した。魔が差したのか、あの時の学生達が本心から気になったのかは分からない。だが、偽造した学生証を手に、中へと歩を進める。そして講義へと再度参加した。
途中、俺の事を覚えている学生に会った。心配していた彼らには、病気で療養していた、と告げる。
聞いた所によれば、サムチャイ教授は音信不通で、代理の臨時講師が受け持っているようだ。
しかし、あの男子学生ティラシンの姿が見えなかった。一緒に日本語の語学、それから実技の授業を受けた子だった。
俺は不安、焦燥、喪失感に駆られ、彼の痕跡を辿る。必修科目、選択科目、一緒に受けた日本語の授業……。
だが、彼の姿が見当たらない。……まさか、ね。
誰か、違うと言ってくれ。たまたま今日は休んでいるだけだ、と。
もしくは大学を去っただけだ、と。
君には明るい未来があり、目指すべき目標がある。そうだろう?
誰か、違うと言ってくれ……。
意気消沈してホテルの自室へと帰ってくる。ロジー、ティラシン……。
……あと、誰だっけ。大切な、誰かの名前を忘れてしまっているような……。
俺は何となく、テレビを付けた。時刻は夕方で、バンコクの報道番組が映る。
ヤワラートの、黒々としたオフィスが映し出された。内装は見覚えのあるものだ。天板がガラスで出来たテーブル、ソファ、それから冷蔵庫
、ポット。あの真っ黒になったテレビは俺が買ってきたものだ。あの事務机は……上司の席で、たまに酔っ払ったゾフィが腰掛けて怒られたりしていたっけ。
ああ、そうだ。記憶を失っていたんだ。思い出したら壊れてしまうから。楽しかった思い出も辛い思い出も全部、今思い出した。
あの日会社に向かう途中、電車に撥ねられて死んだと思ったら、俺は生きていて。それからタイに来て、仲間に会って。過去と決別して、贖罪なんてものじゃないけど、人を助けようと頑張って。だけど、もう皆……。
<発見された遺体は二十代から三十代程の女性で、現在身元の特定を急いで――>
メガミは、死んだのだ。
メガミだけじゃない。皆だ。事務所も全て、灰燼に帰した。残っているのは記憶だけ。その記憶が、残酷な現実を突きつけて俺の精神を無茶苦茶にしようとしている。
……死んだ? 嘘だろう。
メガミが死ぬわけがない。そんな簡単に、あの人がやられるとは到底思えない。
でも、火事はこの目で見た。現に焼死体も発見されている。
火災現場に取り残された? 何で? そんなの絶対にありえない。
じゃあ、何で電話に出ないんだ。リセッターズの皆は何をしているんだ。
そもそも出火原因は何だ。
何で、どうして……。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだああああああああああああああああああああああああああああああああ
あ、ああ……あっあああああああああぁぁぁ……。
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