After Story: メガミの日常2
「おお、メガミさんじゃないか! 今日のメニューは、どうします?」
バンコク市内にある訓練場だ。タイ警察も訓練を行う際に使用しているが、観光客向けにもサービスを展開し、料金を支払えば実弾での射撃や特殊な訓練なども受ける事が出来る。
施設の人間が女を出迎えてくれた。
「プロフェッショナルで」
「プ、プロフェッショナルですか……分かりました、すぐにご用意します!」
やや困惑が見られるものの、従業員が慌てて手配を始めた。時折「バカヤロウ、早くしろ!」だの「姉さんを待たせるな!!」だの怒声が飛び交っているが、女が来るといつもこうなのだ。
通常のコースメニューでは女を満足させられない為、需要が殆どないプロ仕様のセットを用意しなくてはならないのだ。
女はそれぞれ口径の違う拳銃を試した後、ショットガンやアサルトライフルも試した。全弾がターゲットに見事命中していく。それを見ていた利用客が、あの美人女性は何者かと従業員に問うたが、聞かれた従業員は冗談交じりに「ジル・バレンタインだ」と返していた。
その後、狙撃、突入訓練を実践し、最後は無理を言って近接戦闘、逮捕術などを付き合わせた。その際、射撃場の従業員だけでは役不足だった為、訓練中の最も強いタイ警察官にも協力を仰いだ。見物客が集まり始めた矢先、屈強な大男を物の見事に投げ飛ばして、拍手が起こった。
「イテテ……メガミさん、講師とかやらないんですか?」
「スケジュールが合えば、な。普段は忙しいんだが、今日は暇でやって来たんだ」
「《リセッターズ》ですか……。でしたら、今度事務所に依頼させてもらいますよ!」
投げ飛ばした男と握手を交わし、それは成程、アリだな、と女は呟いた。
訓練場で一頻り時間を潰すと、少し遅めの昼食を取った。バンコク市内のカフェでサンドウィッチをテイクアウトし、歩きながら食む。
その途中、ゾフィにメールを送った所、《リセッターズ》宛てにメールも無ければ、電話も来ていないという。夕方五時になったら上がるよう、女はゾフィに伝えておいた。
「お姉さん、この前はありがとう!」
午後。街中を歩いていると、時折声を掛けられた。今しがた礼を述べたのは少年だ。確か、以前その子の母親から依頼を受けた筈である。逃げ出した犬の捜索だった。
少年の、手を振り走り去っていく姿に、女の顔から思わず笑みが零れた。
様々な依頼を引き受ける内に知り合いが増えた。普段はヤワラートの事務所に居る事が多いが、こうして街へと出かければ自然と耳目が集まるようである。
「あら、メガミさん! 丁度良い所に! ひったくりよ、ひったくり!」
話しかけてきたのは、以前仕事を引き受けた婦人だ。重い物を運搬するのを手伝った覚えがある。婦人が指差す方向を見やれば、バイク。それを必死に追いかける年老いた男性の姿があった。
穏やかな日常というのは、女にとってどうやら程遠いようだ。
「成程、任せてくれ」
そう言葉を発すると、女はバネのように勢いよく飛び出した。バイクを追う。だが、流石に乗り物の速度には敵わない。女はバイクの向かう先を予測し、裏道を曲がった。
どの国にもある事だが、盗品を売り捌く輩が居る。タイでは原付やバイクが普及していて、多くの人が足として利用している。だが、悪用され、ひったくりや窃盗の手段として用いられているのも事実だろう。
女は曲がり道を飛び出すと、眼前に合流してきたバイクとその男を睨みつけた。
「へへ……逃げ切ったぞ! やっぱ日本人はチョロイな!」
バイク男が後ろを振り返って、再度前方を振り向く。目の前には金髪の女が居た。
一体どこから現れたのか、と狼狽えているバイク男がハンドルを横に切るのだが、時既に遅し。
「ヘルメットをしていて、良かったな!」
「なん……!?」
女は跳躍すると、バイク男の側頭部目掛けて鋭い蹴りを放った。
ガン、という鈍い音と共に男はバイクから落下し、全身を激しく地面に強打する。乗っていたバイクは鋭い悲鳴のような音を立てながら、道路を転がっていった。
減速していたが故、それからヘルメットをしていた事で、思いの外軽傷のようだが、立ち上がるのは難しいだろう。満身創痍といった様子である。
「盗った物を返してもらおうか。それから、警察を呼ばれたくなかったら……」
「ヒィッ! すいませんすいません!! これで勘弁してくださああああい!!」
胸ぐらを力強く握られた男は、この女が普通の人間ではないと悟ったのだろう。尻餅をついた状態で後ずさりしながら、自らの財布を差し出した。そして、そのまま這うように逃げていってしまった。盗んだと思しき物は、バイクと一緒に落ちていた。
逃げていく男と渡された財布を交互に見やると、やれやれ、と女は嘆息するのだった。
道を戻ると、憔悴した老人が居た。ひったくりに遭った男性である。その横には先程の婦人や、怪訝そうな顔をした取巻きが数名居た。
女が年配の男性にカバンを差し出すと、彼は心底感謝した様子で、礼を述べた。
「取り返してくれたのか! ありがとう……! 今度、改めてお礼をさせてくれ」
「これ、さっき買ったカノム・ブアンだけど、持ってって!」
横に居た婦人は買い物袋から菓子を取り出し、女に手渡した。カノム・ブアンはタイで人気のスイーツだ。ヤワラートの屋台でも見かけるが、女は買った事が無かった。ありがたく頂戴し、女は婦人に礼を述べた。そして、女はまた歩き出す。
その後、軽く所在無げになった彼女だが、たまたま目に入った本屋へ立ち寄る事にした。
ベストセラーと書かれた棚を見つけ、商品を吟味する。
その中から面白そうなものを幾つか手に取ると、クレジットカードで購入した。ショッピングにも読書にも興味は無いのだが、時間が空いた時に読んでみようと思ったのだろう。
そうして外に出てみれば、徐々に陽が落ち始めている事に気付いた。まだ明るいが、直に夕飯時となるだろう。時計を確認すると、女は帰路に着く事に決めた。
貰った物や買った物で両手は塞がり、歩きづらかった。
「私の趣味か……人助け、かもな」
荷物を見ながら、女はそんな事をふと口にした。何の為に生きるのか、と問われれば「楽しむ為」と即答するだろう。人生とは楽しく、面白くなければならない、と常々女は思っている。その結果生み出されたのが《リセッターズ》でもある。
趣味や娯楽、嗜好品が人生を彩る道具であるとすれば、私のそれは何なのか。今日一日、女は頭の片隅で考え続けていたようだが、ようやく答えに行き着いたのかもしれない。
やがて自宅に辿り着くと、夕飯の準備に取り掛かった。普段はする事が無いが、少し手を込めて作った。出来合いの物や購入した弁当で済ませる事も、通常多い。
婦人から頂いたカノム・ブアンも食べてみたが、これが中々に美味しく、表情が綻んだ。普段の仕事ぶりからは考えられない可愛い顔である。
今度カメコウにでも薦めてみようか、と女は思う。
この時間、通常であればまだ仕事中だ。ヤワラートの事務所に居る頃合だろう。洗い物を終え、時計を見た。いつもより早いが、風呂に入る事に決めた。その後は書店で買った小説を読んで過ごせば、程良い時間になるだろう。
たまにはこういう日も悪くない。そう感じさせるような顔を見せながら、この日、女は眠りに落ちた。
時計の針が丁度真上を指した時だった。
いつもは硝煙の匂いがする部屋も、この日ばかりはスイーツの甘い香りがしていた。
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