第45話 アスティとの再会

ーー七日前ーー


「助けてくださってありがとうございます……でもなぜ私を助けくれたんですか? 助ける理由なんてないように思えますが……」


 元魔王であるアスティを憲兵からなんとか助け出し、王都バーレンの中心部から外れた街の端にある八七番の、およそ部屋とは呼べない簡素な隠れ家に俺たちは避難していた。匿ったは良いものの、当の本人は俺のことを覚えてはいない、赤の他人というわけだ。


 この街にしばらく住んでいたから分かったことだが、あの術は他人から俺の記憶を無くす。その無くなった記憶は各々で補完されるらしい。例えば俺のした事を別の奴がしたことなっていたり、俺が手助けした奴は本人が一人で助かったことになっていたりする。アスティは後者だ。本人の頭では一人で脱獄したことになっているらしい。


「まあただの成り行きだな。アスティが言うとおり、特に理由はない」


「はあ……なるほど……?」


 納得が言っていないのか怪訝な顔で俺の顔色を伺っている。本人からすれば敵である魔王を助けるやつがいるなんて想像できないのだろう、疑っても当然と言えた。


「ええと……なんてお呼びすればいいですかね?」


 アスティは困った表情で恐る恐る聞いてきた。


「モルダーだ。まあ気楽にモルダー様とでも呼んでくれればいいよ」


「はあ……」


 困ったように相槌を打つアスティ。昔はつっこんでくれたのになあと思い、ふと悲しくなってしまった。まるで別人と話してるようだ。


「で、アスティはなんでここにいるんだ? 犯罪者として顔は知れ渡っているんだからもっと人がいない所に行けばよかったんじゃないか?」


「えーと……人間界の地理が良く分からなかったので……僧侶さんと魔法使いさんとはバラバラに逃げちゃいましたし……」


 そう言えば僧侶と魔法使いの記憶はあるのか。まああの時は一緒に行動すれば見つかる可能性が高いからバラバラに逃げようと思ったのだろうが、今考えれば悪手だったように思える。今更言っても遅いのだが。


「なるほどなあ……まあとりあえず助かってよかったじゃないか。俺に感謝するんだな」


「……はい……ありがとうございます、モルダー様……」


 怯えながら話すアスティを見て苦労したんだなと思ったが、それ以上にシュンとしてるのが新鮮でちょっと楽しくなってきていた。俺の言葉に従順に従うなんてありえないんだ、この瞬間を逃したら金輪際チャンスは回ってこない。今なら俺の欲望を満たせるはずだ!


「な、なあアスティ。ちょっと上目遣いで“モルダー様、私がご奉仕してあげますね”って言ってみてくれ」


「ええ……」


 ドン引きしていた。生まれてこの方向けらたことのない程に蔑んだ顔で俺を見ている。


「ええと……モ、モルダー様……私が……ご奉仕してあげますね……。……これでいいですか……?」


 嫌々ながらも俺の無茶振りに従うアスティ。言ってみるもんだなとしみじみ思った。


「なるほど…………じゃあ次は……ちょっと恥じらいながら“先にお風呂入りますね”って言ってくれ」


「……ええ……」


 我ながら頭のおかしいことを言ってるなと思った。客観的に見て今の俺は余りにもキモすぎる。


「さ、先に……お風呂入りますね……。……これで満足ですか?」


 完全に悪役だった。だがゴミでも見るかのように蔑むアスティの顔を見て若干興奮してきた。俺はもうだめかもしれない。


「次はだな…………ちょっと俺の指を舐めてくれないか?」


「いや……それはちょっと……」


 調子に乗りすぎたようだ。俺から逃げるように体を後ろに避けている。


「よーく考えてくれ。今の君が一人で逃げられると思うか? 俺に頼るしか無いだろう? ならば舐めるが良いアスティ。選択肢は一つだ」


「…………はい……」


 アスティは観念したかのように俺の足元に座り、口をおそるおそる手に近づけてきた。


「よし、そのまま舐め…………ああああああああああああ!」


 手を思い切り噛まれ、血が滴り落ちていた。飼い犬に手を噛まれるとはまさにこのことである。


「私を助けたからって何でもしていいわけじゃないんですよ! 最低です! 死んでください!」

 

 完全に敵と見なされてる男がいた。自業自得である。



「さて、本題にはいるか。これからのことなんだが」


「いや、入れないです。自分で言うのもなんですが、血止まってないですよ?」


 アスティに噛まれた右手からは血がぼたぼたと流れていた。


「慣れだ、慣れ。こんなもん朝飯前よ」


「ちょっと言ってる意味が分からないです」


 頑なにスルーさせてくれない。


「右手はこの通り使えないし、治療できないんだよ。即効性の回復薬も高いから持ってないし。気になるなら治療してくれない?」


「まあ普通に嫌ですけど。ほっときゃ治るんじゃないですか?」


「ええ……」


 目が尋常じゃなく冷たい。ゴミでも見るかのように冷たい。久しぶりに再開したからちょっとテンション上がってしまった結果、アスティの好感度が恐ろしいほど下がっていた。地面を通し越して、俺の高感度が地に埋まっている。掘り起こさないといけない。


「さっきの言動は謝るよ。こんな美人と話せる機会なんてめったにないからな、ちょっとテンション上がってしまった。普段ならこんなことはしないんだけどな……あまりにも美しすぎて暴走してしまった、すまなかった……!」


「そ、そうですか? まあしょうがないですね、許して上げますよ。私が美人だったのがいけないんですからね、美しすぎるのも罪ですよね……」


 相変わらずちょろかった。ちょろすぎてちょっとアスティがかわいそうになってくる。


「そうなんだよなあ。こんな可愛い子に会えるなんて俺も運が良かったよ。神がもしいるなら俺は土下座して感謝したいくらいだ」


「えへへ~、そうですよ! 私という女性と話ができていることを感謝してくださいね!」


「ああ、今この瞬間、君と話ができていることは奇跡に近いことだと思う。この時間がずっと続けばと思うくらいだ」


「そうですよ~、私と会話できる喜びを噛み締めてくださいね! こんな幸せ、一生に一度あるか分からないですからね!」


「ああ、噛み締めてる。俺は幸せものだ。それでだな、その幸せついでに俺の右手を治療してくれないか? ちょっと血が流れすぎて目眩がしてきた」


「私は女神ですからね、それくらいしてあげますよ! でも治療する物がなくてどうやって治せばいいんですか?」


「確かに治療するものはないな……。じゃあ……あれだ……唾つけとけば治るってよく言うだろ? だからまあ…………アスティがちょっと俺の傷口を舐めれば治るんじゃないか?」


「…………」


「…………」


「っていうのはじょうだ…………かはっ……!」


 アスティ渾身のボディブローがみぞおちに綺麗に決まる。


「いい加減にしてくださいよ! どんだけ私に手を舐めさせたいんですか!」


「……いやまあ……例えこの体が朽ち果てようとも、それだけは叶えたい。そこは譲れない」


「会って数十分の女性に頼むことじゃないですよね!? 性癖の業が深すぎますよ!」


「頼む……! この通りだ! 頼むから俺の手を舐めてくれ!」


 頭を床に付け、必死の土下座をする。もはや勇者のプライドなんて微塵もなかった。


「ええ……どんだけ必死なんですか……そんなに舐めさせたいんですか……?」


「ああ、俺の夢だ。これが叶うなら今死んでもいい」


「完全な変態じゃないですか…………まあ……そうですね……そんなに頼むなら別にいいですよ、助けてくれた礼もありますしね。特別ですよ……?」


「いいのか!? ありがとう! 俺はこの瞬間を一生忘れないよ……!」


「ええ……ちょっと喜びすぎて気持ち悪いです。とりあえず手だしてください。まあ私が舐めた所で血が止まったりはしないでしょうが……」


 そう言うとアスティは俺が座っている椅子の下に膝をつき、上目遣いでこちらを見てくる。


「なるほど……この時点でもうやばい。興奮して死にそうだ」


「いや……もうしゃべらないでください、気持ち悪いだけなので……」


「ああ、すまなかった……。ではよろしく頼む」


「まあ……はい」


 右手を差し出す。アスティは一瞬ためらった後、深く深呼吸して顔を右手に近づけてきた。手の甲から流れ出した血が人差し指に流れ、零れ落ちそうになったのをアスティの舌がすくい取る。そのまま指を差し出すと、アスティが指先に舌を這わせ、ちろちろと慣れない様子で指を舐めている。しばらくして血を舐め終わると、再び他の指を舐め始めた。


 慣れてきたのか、舌を器用に動かし血をすくい上げ、ごくんとそれを飲み込んだ。指の根元まで丁寧になめとった後、手の甲に舌を這わせる。アスティの唾液が傷に沁み、僅かに痛みを覚えた。右手はアスティの唾液と血が混じり合い、てらてらと光っている。すべて舐め終えると、こちらをちらりと見て気恥ずかしそうに顔を逸らした。口元からは血と唾液が混じり口元を伝い、その液体が顎から雫となって零れ落ちていた。


「…………」


「…………」


「何してるんだろうな俺ら」


 アスティの唾液と血が混じり合う右手を見て、正気に戻る俺。


「まあ……はい……。何してるんでしょうねこれ……」


 夢がかなったはずなのに嬉しさとか充実感とかではなく、ただただ気まずいだけだった。


「うん……まあ……うん…………台所にコップがあるから……口ゆすいでくるといいよ……」


「あ、はい……。ありがとうございます……」


「ああ…………」


 夢は夢のままでいいのかもしれない。何かを超えて、ようやく大人に慣れた気がした。

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