21. 獣道を歩く
頭の中が真っ白になる。言葉がなんにも浮かばない。今、なにを考えたらいいのか、わからない。
ユウヒから、私に関する記憶を全消去する?
記憶を、全消去する?
「……野菊。あなたにとって辛い話だっていうのは、よく理解してる。今だけは、あなたのカウンセラーとして、手を握らせて」
ディアナの暖かい手が、冷え切った私の両手を包む。その手だけは、私と一緒に8年間を過ごして来た、私が知ってるディアナ。ゆっくりと、彼女の温度が私に伝わる。こんなに手が冷たくなってたなんて。今までずっと、気づかなかった。
やがて、その手は離れる。ディアナは、椅子の背に自分の体をやんわりと預けた。
「……ユウヒとは、この件は合意が取れてるの。ずっと前、まだユウヒが、あなたを見つける前。ベランダの子どもに、彼が執着し始めた頃から」
「ベランダの、子ども……」
「もちろん私は、ユウヒが過去にとらわれ続けるのは良いことだと判断しなかった。でも、彼のお兄さんが亡くなって、彼自身が機械頭になった後。ユウヒを支えたのは、音楽と、ベランダの子どもへの執着だけだったの」
ユウヒがずっと憎んでいた子ども。
コガネが残してくれた、音楽。
ひとりぼっちだ。ずっとひとりぼっちだった。
ユウヒの声が、薄れていく。ついさっき、私に大声で叫んでくれたのに。
「彼にとって、その執着を無理に消すことは、生きる意欲を削ぐのも同然だった。だから治療では、軽微な調整をしながら経過観察扱いにしてたの。でも、過度な執着は、あの機械頭では処理しきれない。
彼にはずっと言ってたわ。“この状態が続けば、同じ機械頭を使い続けることは出来なくなる”それと、“執着があなたの生命維持を阻害する時が来たら、すべて記憶を消さなければならなくなる”って。
あの機械頭は、別の機械頭にデータを移行するだけでも重篤なエラーが出ることが多いの。そうなった時、過負荷なデータは移行出来なくなる。ユウヒの場合、それが」
「……ベランダの子ども」
ベランダの子どもは、彼を内側から壊して行く。思えば思うほど、彼の頭を焼き尽くす。
「やがて彼も、その意味を理解した。そのすべてに同意して、契約書まで残して、彼はあなたを……ベランダの子どもを探し続けた。そしてあなたが見つかった。彼は、ずっと探してた人があなただと知ったの」
私が、大きな音が怖くて震えていた日々。人と話せなくて、吐いていた日々。突然心臓がうるさくなって、なにも出来ずにうずくまってた日々。
そんな日々の向こうで、ユウヒは。
「ずっと探してた人が見つかったんだもの。興奮、憎悪、動揺……。なにもかもが一気に押し寄せて、危険な状態だった。ホームカミングのどこかで、あなたに接触するって言って聞かなかった。忠告はした、彼も理解してた。それでもあなたに話しかけた」
ホームカミングのダンスパーティー。大きい音が鳴る、びっくり箱の中。ミラーボールの明かりの下。
彼は笑ってた。私が上手く話せなくたって。体がぶつかったって。それでも笑ってた。
でも、私がユウヒを知ってると言った時。
ああ、あの反応の違和感は。
私はユウヒを、ただの同じ学年の機械頭としか、見てなかった。
彼と同じ熱量で、憎悪で、苦しみで、ユウヒを知ってたわけじゃなかった。
「彼はわかってた。あなたに接触すれば、自分の機械頭が危うくなるって。きっと全部、忘れることになるって。それでも彼は、あなたに賭けたの。苦しみを解くために。ずっと苦しかったのよ。ベランダの子どもへの執着で、自分が埋め尽くされるのが」
彼は、私に賭けた。
ユウヒに賭けたと言った私に、似たようなものだと笑いながら。
私はユウヒに相応しくない。相応しくなんてない。
すべてを賭けてもらうのに、相応しくなんてない。
「彼にとってせめてもの救いは、最終的に、あなたに対する気持ちが、憎悪ではなくなったことね。記憶を消してしまっても、あなたの顔を見た時に感じるものは、ベランダの子どもへの執着じゃない。もっと違うものに変わってる」
獣道と同じ。何度も何度も歩いて、歩いて、歩いて。
誰が歩いたんだろう? どうしてこんなところに道があるんだろう?
そう思いながら、思考の森を歩いていく。
「私の、ことは……。覚えて、ないのに?」
「ええ。そうよ」
「……私のこと、ずっと憎んでたって、言ってたのに」
ディアナの手が私の手に触れた。熱い手。氷を溶かして、中にいる私を掬い上げるような、その手。
「それだけが、ユウヒがあなたに伝えた気持ちじゃないでしょう?」
外の世界は、歪んで見える。氷で歪んで、冷たく見える。
でも、ちらちらと見えるディアナの指が、手が、顔が、声が。私に、思い出す力をくれる。
「……“愛してる”って、ユウヒ、私に」
言葉の続きは、聞けなかったけど。
ディアナはこっちに体を起こして、私をそっと腕の中に包む。背中を優しく撫でる。暖かい手。
誰でもないディアナの声が、私の体に響いて震える。
「ユウヒを助けてくれて、ありがとう。……そして、ごめんなさい」
ありがとうも、ごめんなさいも、一緒に言える言葉が、あればいいのに。
でも、どんな言葉も浮かばなかったから。
私はディアナの背中に手を回して、小さくうなづいた。
乗ることはないと思ってたのに。私はクリストファーの車に乗っていた。
ぴかぴかなクリーム色の革のシートと、大きな体のクリストファー。運転席で見る横顔は、疲れているのか穏やかなのかよくわからない。でも、車なら顔を見ないでも平気。それに、もう私は、クリストファーの声が、そこまで怖いとは思わなかった。
「へえ、お前の友達のことは覚えてんのか。皮肉なモンだな」
「しょうがないよ。クラブ・ジャックは、ユウヒにとって大事な場所だから」
「だいたい、記憶を消すとか消さないとか、判断軸があるのが気味悪ぃよな。“日常生活への影響の大小”
クリストファーが言う通り、その判断軸の掛け合わせで、私についての記憶はユウヒの中で削除最優先に当てはまった。
ユウヒの生活で、私との関係だけがぽっかり独立してる。共通の友達もいないし、私との縁が切れたって、彼の生活は今までと変わりなく進んでいく。
唯一の関わりは、クラブ・ジャックにクララがいること。だから私は、クララの友達として、なんとなく知られている程度の存在に収まったみたい。
「あー、俺みたいに、完全に忘れられるのと、どっちがいいんだろうな、それ」
「わかんないよ。あなたみたいに、私はユウヒと長い間友達だったわけでもないし」
「俺はお前と違って、あいつに恋してたわけじゃねえからな。現在進行形で急にフラれて全部なしになるとか、その辛さはわかんねえわ」
「こっ、恋?」
思わず声が裏返る。クリストファーは、思いっきりこっちを見て顔を歪めた。整った顔が、パズルみたいにあちこちに飛んでいく。前見て、前。運転中でしょ。
「はあ? お前、なんだそれ! それが恋じゃなかったら、なんだってんだよ、大馬鹿地味子」
「お、大馬鹿地味子って」
するとクリストファーは、演技じみたため息交じりに、肩を落とした。手のひらを上げてひらひら手を揺らして。まるで、映画のトップスターみたいに。
「まったく、お前らの青春には、恋が足りねぇな! 本気になる前に、少しは別で練習して来いってんだ。惚れたくらいで舞い上がってぶっ倒れるんじゃ、意味ねぇだろうが! 童貞野郎、腹上死するくらいの気概を見せやがれ。次会ったら、あのスカした革ジャンにコンドーム仕込んでやる」
びっくりして声を上げかけて、急いで口を両手でふさぐ。それを見て、クリストファーは面白がってる。悔しいけど、言い返せない。キングはニヤニヤといじわるな笑みを浮かべる。
「俺だったら、惚れた女が弱ってるところに、イカした車で最高の色男が現れる……なんて光景見たら、それだけで頭がおかしくなるね。どう考えても、これで惚れない女なんていないだろ、この世界に。甘いバラードでも流すか? 眠くなるけど、女がうっとりするやつ」
ごつごつした指で、適当にカーステレオを指さす。それでも音楽は流れないし、彼の世界では珍しい女子が隣にいるのを、クリストファーは知ってる。
私たちは住む世界が違う。だけど、ちょっとだけご近所さんの、お隣同士の世界に暮らしてる。
「あなたが人気者の理由、やっと分かったよ」
「はあ? 遅くねえ? 一目見た時からわかるだろそんなモン」
相変わらずの口調。乱暴で雑で適当で、それから。
「あなた、優しいんだね」
「当たり前だろ、地味子。わかったなら、女子寮全員に言いふらせ?」
「わっ!」
大きな手で、頭を雑にがさがさと撫でられる。ほら、やっぱりバラードなんて私たちには似合わない。げらげら大声で笑ってるクリストファーと、それを横目で見てる私。私は笑ってた。
まるで、そこにコガネも、いるみたいに。
「野菊。それでも、ユウヒを頼んだぞ」
「……クリストファーもね」
「うるせえ、わかってる」
私たちは、一緒に泣けない。
だから、一緒に笑って、それぞれの日常に戻った。
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