大森林攻防編——魔女の慟哭——
それだけのはずだった。
何だ? 幻聴?
自分がせめて、逃げて生き延びて欲しいと願った——灰銀色の髪と目をした、女性の声が届いた。
どうにか、地べたを擦る様に、やっと頭と瞳だけを動かして前を見てみる
そこに、有り得ない人と光景があった。
……何で、いるんだよ。逃げてくれたはずだろ?
灰色の三つ編みが目立つ後ろ姿、黒の帽子とゆったりとしたローブ、それらを振り乱しながら必死に剣を振るっていた。両手で精いっぱい、大振りの処刑剣——レベッカが落としたもの——をやっとと言わんばかりに。
誰がどう見てもへっぴり腰で、踏み込みも身のこなしもでたらめで、剣を振るというより振り回されている。
それでも——こちらに迫ろうとしている蔦の触手を薙ぎ払おうとしていた。
「……あぅっ!」
ドリュアデスの触手の一振りであっさりと、処刑剣を振っていた彼女——ジャンナ——が吹き飛ばされた。手にしていた処刑剣も、あっさりと宙を舞った。
前にいたジャンナが、自分のすぐ前までふっ飛ばされて尻を突いている。その先、触手だけじゃなくてドリュアデスそのものも、ゆっくりと迫ってくるのが見えた。
尻持ちしたまま、こちらに振り返ったジャンナ——その顔は、クシャクシャになっていた。悲鳴を上げていないのが奇跡と思えるほどの表情で、眼鏡の奥からでもわかるほどに灰銀の瞳に涙が溜まっている。
それでも、どうにか張ってこちらまで来ると庇うように、自らの身を盾にするように、俺を抱きしめてくれた。
「あらあらぁ、包囲網に引っかからないと思ったら……逃げなかったのねぇ?」
ジャンナに抱きかかえられながら、瞳だけを声に向けると緑の貴婦人が面白そうにこちらを視線で舐っていた。巨体に似つかわしい距離ではなく、すでに人間同士で会話をするくらいまでに顔を寄せている。
ジャンナは碌に答えられないようで「はっ、はっ」と、荒い呼吸だけが俺に届いていた。
違う、俺が戦わなきゃ。
そう思っても身体は動かない。
「ねえ、何で逃げなかったのかしら? 不意を突けば勝てると思ったのかしら?」
愉悦と嗜虐心に満ちた表情を一切隠さずに妖花が問いかける。その問いを聞いて、ジャンナのこちらを抱きしめる腕にさらに力が籠った。
立たなきゃ、起き上がらなきゃ……このままだとジャンナまで……
「あなた、何がしたいのかしらね?」
さらにずいっと、ドリュアデスが顔を近づけてきた。もう半歩踏み込めば頭突きでも届くというくらいの距離だ。ジャンナはすでに震えも隠せず、歯の根が合わない音も聞こえ始めている。
だが、それとは裏腹に……
「……は、はは……あ、はははは……」
乾いた、空しい笑い声がジャンナから響いてきた。
ジャンナ?
「ほ、ほ、ほ……本当に、あたし、な、何、してんすかね……」
「け、けど……ここで、に、に、逃げちゃったら……逃げられて、生き、残っても……あた、あたし、生きていけないっす、から」
「レベッっちも、し、し、師匠も、フィーちゃん、に……セスっち、までいなくなっちゃ、ったら、あたし……本当に、ひ、ひ、独りぼっちに、なっちゃう、から……」
自分の頬に、暖かい何かが触れた。
ジャンナの涙が——ついに零れ落ちたらしい。
真っ暗に乾いた死の暗闇、その中で微かに——熱い何かが湧いた。
何をどうしても、逆さに振ろうが何も出てこない。空っぽになった自分の中に、確かに感じることが出来る物があった。
「嫌っす、嫌っす、よぉ……独り、ぼっちになる、のも……みんなが、大事な人達が、みんな……い、い、いなくなっちゃうなんて……絶対に嫌っす!」
もう止まっているかのように静かだった心臓が、大きく跳ねた。
そう、だよな。そうに決まっている!
俺もフィルミナも、そうだった。独りぼっちが怖くて、相手がいなくなるのが怖くて……ジャンナも……いや、レベッカもアランさんも同じだと思う。
アランさんに拾われて、二人で冒険者になったレベッカとジャンナ。
三人は間違いなく、かけがえのない家族で……俺とフィルミナも、きっと——大切な仲間なんだ。
俺とフィルミナだって同じだ。三人は、俺達が『鬼』だと知っても笑って受け入れてくれた——大事な仲間だ!
ホンのわずかに湧いた『それ』を集める。
「……そう。じゃあ、寂しくないようにみんな私の養分にしてあげる!」
そう宣言した妖花に、精一杯にかき集めた力を叩きつける。
やらせない! 絶対に!
心臓だろうと脳味噌だろうと、魂だろうと好きにくれてやる! 想いが必要だというなら、焼けついてはち切れても注ぎ続けてやる!
だから——力を、よこせ!
『強い意志、それこそが己の力を限界以上に引き出す。眩い希望を信じる力は共通じゃ』
フィルミナの声が、響いた気がした。
最期の力を振り絞って、すぐ前に迫った妖花の顔を思い切り殴り付けてやった。
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